通常は大手門からいくつかの番所を経て南側から入ってくるのが本丸への登城ルートですが、今回
は汐見坂から一気に大奥に入り込み天主台へ向かいました。
目の前の芝生が大奥のあったところ。ここに3,000人もの女性が住んでいたんですね。その向こう側
が将軍の住居、はるか先が江戸表ですね。天主台の下あたりから南を見ています。
五層の天主がそびえていた天主台です。しかし、その上から江戸の町を見渡した将軍は秀忠と家光
だけ。その子の家綱や綱吉も幼少期に上がったかもしれませんが、いずれにしても明暦の大火で焼
けて以後、このまんまです。
今は将軍様に代わり、この松の木が偉そうに江戸の町を見下ろしています。
これがその偉そう松の木。御用の松?^^
ところで江戸の華と言えば火事と喧嘩と言われましたが、本当に当時は火事は怖かったようです。
地震、雷、火事、親父と言いますが、親父以外は全部火事に直結ですね。こんなだだっ広いお堀が
あっても全部焼けちゃったらしいですね。現在天皇陛下がお住まいの吹上御苑も明暦の大火までは
建物がずらりと並んでいたようですが、その後は防火林に役目が代わり、明治天皇が住むまでは人
が住むところではなかったようです。もっとも、天皇も最近まではは人に非ずでしたが。^^
自分が一番好きな天主台のアングルです。偉そう松もちょうど木陰に入ります。黒田長政が設計、
建築を担当したとか。400年経ってますが全く傷んでいませんね。すごい土木技術だと思います。
自分も天守閣が欲しいです。これくらいので十分だから。どっかに黒田長政、いないですかね。^^
やや、各々方、一大事でござる。城中に怪しげな南蛮人どもが進入しておるぞ。出会え候。
セニョール、セニョリータの皆さんはどんな感想をお持ちなんですかね。でもわざわざ外国から遊
びに来て、ここにいるのだから、ここって海外ではちょっと知れた名所なんでしょう。そう言えば
、海外では東京のランドマークになっているとか。
昔の掘割りがありました。今の都心の地名と同じなのでいかほどの規模だったか、よくわかりますね。
およそ山手線の半分くらいと考えていいのでは。
まだ書き足りない部分がありますが、残りはスポットでYahooにUPしていきます。
あちらは浅草の桜です。桜ですよ、サクラ。^^
は汐見坂から一気に大奥に入り込み天主台へ向かいました。
目の前の芝生が大奥のあったところ。ここに3,000人もの女性が住んでいたんですね。その向こう側
が将軍の住居、はるか先が江戸表ですね。天主台の下あたりから南を見ています。
五層の天主がそびえていた天主台です。しかし、その上から江戸の町を見渡した将軍は秀忠と家光
だけ。その子の家綱や綱吉も幼少期に上がったかもしれませんが、いずれにしても明暦の大火で焼
けて以後、このまんまです。
今は将軍様に代わり、この松の木が偉そうに江戸の町を見下ろしています。
これがその偉そう松の木。御用の松?^^
ところで江戸の華と言えば火事と喧嘩と言われましたが、本当に当時は火事は怖かったようです。
地震、雷、火事、親父と言いますが、親父以外は全部火事に直結ですね。こんなだだっ広いお堀が
あっても全部焼けちゃったらしいですね。現在天皇陛下がお住まいの吹上御苑も明暦の大火までは
建物がずらりと並んでいたようですが、その後は防火林に役目が代わり、明治天皇が住むまでは人
が住むところではなかったようです。もっとも、天皇も最近まではは人に非ずでしたが。^^
自分が一番好きな天主台のアングルです。偉そう松もちょうど木陰に入ります。黒田長政が設計、
建築を担当したとか。400年経ってますが全く傷んでいませんね。すごい土木技術だと思います。
自分も天守閣が欲しいです。これくらいので十分だから。どっかに黒田長政、いないですかね。^^
やや、各々方、一大事でござる。城中に怪しげな南蛮人どもが進入しておるぞ。出会え候。
セニョール、セニョリータの皆さんはどんな感想をお持ちなんですかね。でもわざわざ外国から遊
びに来て、ここにいるのだから、ここって海外ではちょっと知れた名所なんでしょう。そう言えば
、海外では東京のランドマークになっているとか。
昔の掘割りがありました。今の都心の地名と同じなのでいかほどの規模だったか、よくわかりますね。
およそ山手線の半分くらいと考えていいのでは。
まだ書き足りない部分がありますが、残りはスポットでYahooにUPしていきます。
あちらは浅草の桜です。桜ですよ、サクラ。^^