石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

115山梨市の丸石道祖神-6-(後屋敷地区)

2015-11-28 05:31:32 | 民俗

2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、加納岩、日下部、日川、後屋敷を各地区ごとに分けて掲載します。
各地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の町村です。なお、岩手地区は、日程の都合で取材していません。

後屋敷地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の後屋敷村。

 

水田と桑園の村は、昭和30年代、果樹栽培へと転換してゆく。

果樹散布の農薬による蚕への薬害がひどくなり、養蚕は廃れてゆくことに。

▼鴨居寺 稲荷神社

台石に「道祖神」ではなく「衛神」と刻されている。

「衛」は「城邑を守る」と辞書にある。

正に道祖神そのものだが、この辺りでは、丸石神は、かつては蚕の守り神として、今は果実の当たり神として信仰されている。

それにしても見事な球体。

人の手が加わっているに違いない。

▼東後屋敷 東組道祖神場

集落の中心にあったが、昭和になって、ここ、清水橋西に移転した。

台石が新しいのは、昭和62年に改築したから。

小正月の道祖神祭では、オコヤは作らず、代わりに道祖神の四方に青竹を立て注連縄を張る。

ドンド焼きの後、子供たちはキッカンジョに出かける。

道祖神の名を記した角燈籠を先頭に各家を回り、「キッカンジョ、キッカンジョ、お祝い申す、オカイコどっさり大当たり」などと唱和する。

今は「オカイコ」が「くだもの」になっている。

版木で刷ったお札を渡し、ご祝儀をいただく。

道祖神祭の後の日曜日、天神祭と称するオヒマチを宿で開く。

宿は、前年に祝ごとのあった家で、費用はキッカンジョのご祝儀をあてる。(『山梨市史民俗調査報告書―後屋敷の民俗ー』より)

▼東後屋敷 西組道祖神場

丸石神の他に、蚕影山、石尊山、二十三夜塔、地蔵などがおわす。

丸石神道祖神の周りに青竹を立て注連縄を張るのは、東組と同じだが、ここでは傍らにオチョウヤ(=オコヤ)を作る。

直ぐ近くの東組と微妙に違うのが面白い。

小なりといえども集落の独自性があるのは、すばらしい。

戦前までは、兵役前の青年がキッカンジョに回り、ご祝儀が少ない時は、「おなおしなって」と3回ほどつり上げることもしばしばだったという。

▼三ケ所 木戸組道祖神場

県道と市道の交差点辻に祀られている。

どこまでが石段で、どこからが台石か、悩んでしまう(ことはないが)。

台石に載せるのではなく、穴を掘って、そこに安置するという丁寧さ。

手厚い保存という意味では、市内NO1だろう。

台石には、私の好きな凹み穴も見える。

▼三ケ所 下新町道祖神場

いかにもムラの辻らしい所に丸石神がある。

左の大きい石碑は「蚕影山」。

丸石神というより「卵石神」と云うべきか。

これほどの楕円形は、これが初めて。

1月14日のドンド焼きは、ここでは水辺近くの畑で行われる。

門付のキッカンジョが終わると社殿に鳥居を取り付けたオチョウヤ(=オコヤ)に火がつけられる。

▼西後屋敷 若松神社

 丸石神の傍の双体像2基も道祖神。

しかし、小正月の道祖神祭では、丸石神がご神体となり、オチョウヤの中に安置される。

台座右側面に「寛政/八年/星舎/丙辰」、左に「正月穀旦」とある。

近くに石棒らしきものがあったので、ぱちり。

これで、「山梨市の丸石道祖神」巡りは終わり。

携行した山梨市の丸石道祖神の悉皆どころか、75%カバー仕切れたかどうか、不満は残るものの、もとより2泊3日のスケジュールで完璧を期する方がおかしい。

ま、こんなものでしょう。

丸石神を見て回りたいという願いは、達成できた。

どこのムラへ行っても、その辻々に丸石神は祀られいる。

ただ祀られているのではなく、小正月の道祖神祭りの主役として、今もなお、現役バリバリの存在であることが素晴らしい。

石仏、石造物巡りをしていて、物足りなさがあるとしたら、それは全て過去の遺物になりかけているということ。

造立されたときの信仰心や熱気は消え失せて、同じ運命をたどるべき石造物は、石であるがゆえに無意味にそこにあり続けている、そんな物悲しさをいつも感じるのです。

庚申塔しかり、馬頭観音しかり、子安搭しかり、あげればきりがない。

丸石神とコンビの蚕影山も同じ。

それだけに現役の神様としての丸石神の「活躍」は、極めて印象的でした。

印象的なシーンがもう一つ。

個人の庭や隣家との境、野墓地などに丸石があるのです。

家の守り神でもあるわけです。

 

最後に、おまけ。

私の愛読するブログの一つに「Cosmos factory」があります。

http://blog.goo.ne.jp/trx_45/e/b3dde08bd4e1d77f46c715e35c9f9d35

筆者は「長野県民俗の会」の会員。

「長野県民俗の会」が、今年、『長野県中・南部の石造物』を刊行したことを、このブログで知り、早速取り寄せました。

民間信仰石造物の宝庫・長野県の石仏、石神が豊富な写真とともに詳しく紹介されていて、いつか、この本を片手にどこかの地域を回りたいと思っています。

その『長野県中・南部の石造物』をペラペラめくっていて、「厄神信仰」というコラムが目に留まりました。

長野県の小正月道祖神祭りの諸相を書いたもので、興味深いので、その一部を転載しておきます。

「南町奉行大岡越前守忠相によって裁かれたしばられ地蔵の話はあまりにも有名であるが、世の中には縄で縛られた地蔵が各地に存在する。地蔵の体を縄で縛ると、苦しみを肩代わりしてくれるという信仰からくるもので、石神や石仏は人々の厄災を無言で負ってくれる存在である。そうした石神長野県では多い。小正月の火祭りでもあるどんど焼きに於いて、道祖神を火の中に入れる風習があった。それは人々の一切の罪や子どもたちの厄病を背負って焼かれるもので、火中に投じられれば割れてしまうこともあった。さすがに痛ましいと思ったのか、火中に投げ入れる道祖神を別に用意するところも多かった。そうした道祖神には自然石が利用され、今でも道祖神の石碑の傍らに特異な形をした石が置かれている例を見ることがある。石造でなくても、そして文字がや石仏の痛ましい姿を見ることもあり、とりわけ何でも言うことを聞いてくれる道祖神が対象となることが刻まれていなくても道祖神の一つとして認識されていたのだが、今は忘れられてしまっていることが多い。

火中に入れられるばかりではない。上伊那から下伊那北部にかけての地域では、普段使用しているご飯茶碗に、お金を年の数だけ入れて小正月の14日の晩に道祖神に行き、後ろ向きになって道祖神に茶碗を投げつけ後ろを振り返らずに家に帰るという厄落としが盛んに行われた。投げた茶碗は割れないと厄が落ちないとも言われ、投げつけられる茶碗を身体を張って道祖神は受け止めてくれたのである。誰にも会わずに、そして見られずに落としてこなくてはならないといわれる厄落とし。投げられた銭を子供たちが競って拾いあったといい、拾った銭は癒えに持ち帰らずに使わなくてはいけないともいわれた。現在でも小正月後に道祖神を訪れると、茶碗のかけらと小銭が散らばっている光景を見ることがある。
道祖神へ厄神除けを願う行事も多い。小正月に野沢温泉で行われる火祭りでは、厄年の男たちによって道祖神の社殿が作られ、祭りの当日には厄年以外の村の男たちが火付け役となり、社殿を守ろうとする厄年の男たちと激しい攻防戦が行われる。社殿には各戸で作られた削りかけの男女一対の道祖神が納められ、社殿とともに焼き払われる。火中に投げ込まれる石の道祖神と同様に、厄災一切を引き受けて燃やされるのである。(以下略)」(『長野県中・南部の石造物』より)

 

◇参考図書 

 〇『山梨市史 民俗編』平成17年

 〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

 〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年

〇市史編纂委『山梨市史民俗調査報告書―後屋敷の民俗の民俗ー』平成12年