石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

114山梨市の丸石道祖神(八幡地区ー3)

2015-11-07 05:31:31 | 民俗

 2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。


 ▼市川695番地路傍

 幅の狭い坂道だから、車が来たらすぐ動かさなければならない。

ドアをあけたまま、カメラを持って飛び出し、シャッターを押したら、すぐ戻る。

実物の記憶はまるでない。

写真を見て「あ、こんなだったんだ」。

台石に、明和三年(1766)と刻されているという。

山梨市でも古い道祖神の一つ。

後ろの物置に「果実豊作」と書いた行灯が転がっている。

道祖神祭で使ったものだろうか。

▼市川2131番地

         丸石道祖神      蚕影山

逆光で分かりにくいのを承知の上で、この写真を選んだ。

甲府盆地を見下しながら、石神たちが日向ぼっこをしているようで、味わい深い。

人の背中にはその人の人生がにじみ出ていると云われるが、石碑、石仏も同様か。

▼大工 伝送寺参道入口

 上に伸びているのは、伝送寺の参道。

燈籠が山門代わりか。

その前に丸石道祖神が在す。

燈籠の向こうは寺の私有地だからなのか、道祖神は仏教とは無関係だからこちら側にあるのか。

両者には明らかに一線が画されているのに、現代人の目には、燈籠も道祖神も同じにみえてしまう。

 ▼大工バス停

村の四辻に、蚕の神・蚕影山と火伏の神・秋葉山に挟まれて村の守護神・丸石道祖神がおわす。

民間信仰として最高のトリオで、これ以上の願望は、他力本願に過ぎるだろう。

絵に描いたような光景で、この写真が撮れただけで、今回の山梨市丸石神巡りは成果があったと満足。

バス停の横の観世音碑にも強く惹かれるものがあった。

 台石がボロボロに打ち抉られている。

私が探している凹み穴のようだが、これほど深く大きくえぐられたのは珍しい。(「凹み穴」については、当ブログNO44-45、56-60をご覧ください)

 ▼大工 旧駐在所隣

バス停前の坂を下りてゆくと旧駐在所跡に出る。

野草が猛々しく群生する空き地に蚕影山碑がある。

ということは、丸石道祖神もあるはずだが、見えない。

中に入り込んで草を分けてまで探さなかったので、断言はできないが、なさそうに思う。

と、書いて、こうも思うのです。

「あんな重い石を誰がわざわざ運びだすのだろうか」。

きちんと探せばあるように、今度は思う。

なんという優柔不断さ。

なさけない。

原因は、草を分けても探さなかった私にあるのだから、文句も言えないが。

▼大工 天神社

立派な神社が打ち捨てられたようにひっそりとある。

鳥居をくぐると右側に石祠群。

石祠そのものが道祖神になっている。 

中に石棒があると資料にはあるが、確認できなかった

▼堀内1874番地路傍

 堀内の、甲府盆地を見下ろす見晴らしのいい場所に石祠道祖神がある。

刻銘の万治三年(1660)により、山梨市最古の道祖神とされているが、平成17年刊の『山梨市史民俗編』では、これに異を唱えている。

それは明らかに古すぎるうえに、年紀銘文が石祠の前石柱に刻まれているなどの不自然さがあって、後補されたものと見ざるをえない。確実な線で市内最古級といえるものは、下井尻東組の元文二年(1737)銘のものということになろう」(『山梨市史 民俗編』より)

私の目を引いたのは、石祠全体に掘られた穴。

屋根から台石まで穴だらけ。

もともとこうした凹み穴は、寺社の境内にある石造物に穿たれることは少なく、路傍の庚申塔、道祖神、道標などに多い。

それにしても、この石祠道祖神の傷つけられ方はひどい。

誰が何の目的で穴を穿ったのか、分からないままで、もどかしい限り。(「凹み穴」については、当ブログNO44-45、56-60をご覧ください)

山梨県の石仏研究者といえば、中沢厚氏を外せないが、彼の『山梨県の道祖神』にこの石祠道祖神のページがあるので転載しておく。

かつて昭和十六年の秋、東山梨郡牧丘町の西保各村の調査を終え、切差峠を八幡村に越えてきたときのことである。堀の内まで来たとき、筆者を従えた武田博士が「あっ、これは君大変なものがあるよ」と振り返って言った。見ると小さな丸石3個を納めた石祠の正面に「奉立万治三庚子二月日」という造立年がはっきり読み取れるではないか。道祖神の石祠・石像を問わず、造立年の残されたものでは最古のもの、現在もこれを越えるものが発見されていないのだからすばらしい発見だったわけである。(中略)この祠は屋根といわず台石と云わず、長年子供らが石ころを握ってコツンコツンとつつきくぼめて、原型を止めないほどである」(『山梨県の道祖神P36』

中沢氏は、最古の道祖神発見で興奮しているが、私は「子供らが石ころを握ってコツンコツンとつきくぼめ」という一文に興奮を抑えきれない。

石碑、石仏の台石に穴を穿つ行為をこんなに明瞭に書いた文章は初めてお目にかかるからです。

≪続く≫

◇参考図書 

〇『山梨市史 民俗編』平成17年

〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年

〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年