2015年11月のテーマは「山梨市の丸石道祖神」。1日からは、八幡地区を5回に分けて、16日からは、山梨、日川、日下部、後屋敷、加納岩を各地区ごとに分けて掲載します。
八幡地区は、昭和29年、合併して旧山梨市になる前の東山梨郡八幡村のこと。南、北、江曽原、市川、大工、堀内、水口、切差の8集落から成る。
堀口から再び県道へ戻って西へ。
水口集落に入る。
標高550mくらい。
写真の地点はまだ広がりがあるが、山峡の村で周囲は山ばかり。
江戸時代、幕府直轄の山林だった。
山梨市でも最奥の集落で、道祖神祭りも昔のまま行われているという。
山梨市が刊行した『山梨市民俗調査報告書ー水口の民俗ー』を参考に水口の道祖神を見て回りたい。
▼水口中組道祖神場(首地蔵横)
水口に入ると携行資料の『山梨市の石造物』での道祖神の住所表記は、番地ではなく、道祖神場になっている。
道祖神場というのは、そこにある道祖神を囲んで道祖神祭が行われる場所で、住民にとっては、住居表示より〇〇道祖神場の方が分かりいいに違いない。
目的の中組道祖神場に着いて、アッとつぶやいた。
ここへは以前来たことがあるからです。
丸石神の向こうの首地蔵の撮影に来たのは、一昨年の2月。
その模様は、当ブログNO49「山梨県のデカ地蔵」に載っています。
首地蔵の巨石が道路にはみ出して、車の通行の邪魔になっていることは、明らかだが、移転しようとすると関係者の身に異変が起きる。
首地蔵の祟りだと恐れて、だから、誰も動かそうとしないのだそうだ。
首地蔵と丸石道祖神の背後の大きな建物は、今や無人の養蚕農家。
地域産業を担ったこんな大きな建物が廃屋になりつつあるなんて、世の中、どうかしているとしか思えない。
「一億総活躍」大臣なのか「地方創生」大臣なのか、どっちでもいいけど、早くなんとかしなさい。
首地蔵にいいつけるよ。
▼水口 上之山道祖神場
上之山の道祖神は、石龕の中に丸石神が鎮座している。
台座に「安永五年(1776)申年十一月」とある。
山梨県民にとって道祖神といえば、小正月の道祖神祭りを思い浮かべるだろう。
子供の頃の記憶に残る地域の行事としてもトップランクではなかろうか。
1月14日の祭本番に備えて、前日にオコヤ(お小屋)造りが行われる。
オコヤは14日のドンド焼きで燃やしてしまうが、道祖神祭りのメインをなすもので、夫々の祭場でそのスタイルは異なっている。
上之山では、まずオトコシ(男衆)が山へ行って杉の枝打ちをする。
道祖神の石龕を竹で覆い、そこを杉枝で葺いてゆく。
この写真を含め白黒写真は『山梨市史民俗調査報告書』より転載
山梨市全体で見れば、昔はオコヤの材料は稲わらだったが、果樹に転換したため、藁不足となり、剪定された果樹の枝木を使用する祭場が多い。
上之山では、「象の鼻」と呼ばれる男根がつくと出来上がり。
「象の鼻」と呼ぶかどうかはさておき、男根イメージの棒状のものがつくオコヤは少なくなりつつある。
山梨県牧丘町のオカリヤ(地域資料デジタルアーカイブズ提供)
水口ではまだ健在で、東組では藁縄、中ノ組、中島組では青笹で男根を作る。
東組のオコヤと「象の鼻」
しかし、山口や切差には「象の鼻」はない。
オコヤ造りと並行してオヤマタテも行われる。
オヤマタテは、ご神木のオヤマザオを立てること。
オヤマザオは杉の木に青竹のヒゴを巻き付け、紙飾りをあしらったもの。
水口でも上之山だけにしか見られなくなったという。
≪続く≫
◇参考図書
〇『山梨市史 民俗編』平成17年
〇市史編纂委『山梨市の石造物』平成13年
〇中沢厚『山梨県の道祖神』昭和48年
〇市史編纂委『山梨市史民俗調査報告書―水口の民俗ー』平成11年