石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

18 シリーズ東京の寺町(1)ー豊島区西巣鴨その2-

2011-11-02 09:21:43 | 寺町

西巣鴨の寺町としては、(1-A)に載せた7カ寺で全部ということになる。

しかし、寺町に接する都電荒川線から染井霊園の間にも5つの寺がある。

その間、およそ500m。

100メートルに一つずつの寺は密度として高い。

豊島区巣鴨5丁目は、寺町と言ってもおかしくはないだろう。

だから、西巣鴨の寺町(その2)として追加しておきたい。

都電の踏切を渡ると最初の寺が、白泉寺。

白泉寺(曹洞宗) 明治44年、浅草から移転

境内に入ると「万倍稲荷大明神」の幟ばかりが目につくが、昭和6年、福井県から勧請して奉ってある朝日観音に因んでつけられたのが「朝日通り」であり「朝日小学校」であることを、知る人は少ない。

 

「禅寺」(そうぜんじ)は、ある人たちには、超有名な寺である。

禅寺(曹洞宗)明治30年、駒込千駄木から移転

ある人たちと言うのは、漫画フアン。

いや、この場合は手塚フアンというべきか。

手塚治虫の墓があるからだ。

墓地に行くには、本堂があるビルを通らねばならない。

受付で来意を告げると200円請求され、線香を二束手渡される。

そのまま墓まで案内してくれるのだが、去り際に一言、「写真撮影は厳禁です」。

墓域には3基の墓碑が立っている。

正面は「手塚累世墓」。

右に「正十七位手塚良仙墓」。

手塚良仙とは何者か検索してみたら、幕末、明治の医師でお玉ケ池の種痘設立にも尽力とある。

手塚治虫の曽祖父に当たる人物らしい。

そして、左に手塚治虫の漫画の主人公7人と本人の自画像をはめ込んだ石碑。

下に本人のサインがある。

言われたように写真を撮らなかった。

ネットで見たら、いくらでもある。

これはその内の2枚を借用したもの。

「白泉寺」、「禅寺」と曹洞宗寺院が続いた。

「法福寺」もまた曹洞宗である。

しかし、建物や境内の雰囲気に共通する所が見られない。

 法福寺(曹洞宗) 大正8年、浅草から移転

 「火事と喧嘩は江戸の華」。

徳川幕府267年間で、江戸では49回もの大火があった。

267年間、京都では9回、大阪で6回だったのだから、江戸は断然多い。

江戸の大火49回のうち最大の大火は、明暦3年(1657)の火事で、別名振袖火事。

火元は本郷丸山町の「本妙寺」だった。

本妙寺(日蓮宗) 明治44年、本郷丸山町から移転

「本妙寺」は今、豊島区巣鴨5丁目にあるが、明治44年、本郷から現在地に移転してきた。

本堂右脇に「明暦の大火供養塔」が立っている。

                           明暦大火供養塔

家康の江戸入りから60年、急速に発展、拡大してきた江戸の町を、振袖火事は一瞬にして灰塵に帰した。

振袖火事と言われるのは、実際に振袖を焼いた火の粉が舞いあがったのが原因だからだが、その振袖には焼かれるべき因縁があった。

麻布の質屋の娘梅野は「本妙寺」での墓参の後、上野で見かけた美少年に一目ぼれ、彼の着ていた振袖と同じ着物を拵えてもらったが、恋の病が嵩じて死んだ。

17歳だった。

葬儀後、寺では棺桶にかけてあった振袖を古着屋に売却、この着物を買った娘が、翌年、梅野が死んだ同じ日に亡くなった。

 同じ不幸は、三人目の娘にも起こり、彼女も死ぬ。

三家は申し合わせて、振袖の焼却供養を寺に申し込む。

焼却当日の3月18日、昨日からの馬鹿っ風が吹き荒れて、火をつければとんでもないことになるからと住職は振袖の焼却を止めようと思った。

しかし、そうはいかなかった。

瓦版が振袖焼却供養を煽ったせいで、物見高い野次馬が数万人寺に押しかけ、境内には出店も出る騒ぎ。

「まだ焼かねえのか」

「早く焼けえ」と催促の声が飛び交った。

大勢の声に抗しきれず、住職は読経しながら振袖を火の中に。

折しも吹いた一陣の風が、火のついた振袖を80尺の本堂真上に吹きあげた。

雨霰と降る火の粉で本堂はたちまち炎上、折からの狂風にあおられて、紅焔の炎は江戸市中に四散していった。

青くなった野次馬たちが我が家にたどり着いたときには、先回りした飛び火がきれいに家を焼き払った後だったという笑えない話が残っている。

自業自得というべきか。

振袖火事には長い間語り継がれてきた一つの疑問がある。

火元の「本妙寺」は取り壊しや廃寺にならず、本郷丸山町にそのまま再建された。

放火犯は極刑に処された時代、江戸最大の火災の火元の寺が安泰でいられるはずがない。

それが常識というものなら、大火後の「本妙寺」の扱いは、非常識の極みということになる。

この疑問に応えるのが「本妙寺火元引き受け説」。

「本妙寺」の隣、老中・阿部忠秋の屋敷が火元だったが、それを隠蔽すべく幕府が「本妙寺」に火元であることを引き受けさせたというもの。

この話を裏付ける論拠として、阿部家から毎年、多額の金品が「本妙寺」に支払われていたとする説がある。

江戸時代から明治になって「本妙寺」自身がこの火元引き受け説を認めるようになったという記事もある。

嘘か本当か確かめようがないが、よくできたミステリーのように、ついつい引き込まれてしまい、思わず長くなった。

 

「本妙寺」の山門を潜ってすぐ右手に30基ほどの宝筐印塔がある。

いずれもどっしりとして風格がある。

下総(しもうさ)関宿(せきやど)6万8千石久世家の墓所である。

 下総関宿藩主久世家菩提所            七代広周の墓

七代広周は幕末の老中として公武合体策を推進、和宮降嫁を実現したが、失政を咎められて永蟄居中、死去した悲劇の人物。

ふたたび振袖火事に戻るが、ことのきっかけは梅野が「本妙寺」に墓参りにきたことにあった。

時は明暦、江戸時代もまだ初期の頃、大名家の菩提寺でもある格式高い寺に一介の質屋の墓があったのだろうかという疑問が残る。

 

信長、秀吉、家康、個性の違う3人に仕えて、無事勤め上げるというのは、なまなかのことではない。

誰と誰がそうであったかは知らないが、少なくとも囲碁の初代本因坊算砂はその一人であった。

本因坊算砂(1555-1623)

囲碁ばかりでなく、時の権力者の心を読むのにも長けていたと思われる。

算砂は、京都寂光院の僧で日海といい、囲碁と将棋に非凡な才能を有していた。

彼は、寂光院内の本因坊に隠居していたので、本因坊算砂と呼ばれていた。

 

信長に「そちはまことの名人なり」と認知されたのが、事の始まり。

秀吉からは20石、10人扶持を与えられていた。

家康が江戸に幕府を開くと京都から算砂を呼んで御前で対局させた。

このお城碁は二代目秀忠以降も引き継がれ、制度化される。

お城碁  (日本棋院HP)より

本因坊は3月に江戸に出て、11月にお城碁を上覧に供し、12月、京都に帰った。

しかし、4世本因坊道策から江戸に住むようになる。

京都へは、年に一度、寂光寺に墓参に行くように変わっていった。

なぜ、長々と本因坊家の事情を記して来たかと言うと、「本妙寺」にある歴代本因坊の墓には、4世道策から21世秀哉の墓しかないからである。

 歴代本因坊の墓(4世道策ー21世秀哉)

1世から3世の墓は、寂光寺にある。

なぜそうなったのか、その理由を歴史をさかのぼって提示したということになる。

ところで、信長、秀吉、家康の棋力はどのくらいだったのだろうか。

 秀吉と家康が対局した碁盤

3人とも初代本因坊に5子で打ったとされているようだが、疑問だ。

相手の棋力に合わせて本因坊が対戦していたに違いない。

 

囲碁の本因坊の墓あれば、「本妙寺」には、将棋の棋聖の墓もある。

天野宗歩。

 天野宗歩(1816-1859)の墓

幕末の棋士だが、大橋家、伊藤家の出ではないので、名人にはなれず、七段止まり。

しかし、力は抜きんでていて、実力13段と称され、「棋聖」と呼ばれた。

将棋は強いが、品行悪く、酒色にふけり、賭け将棋をしていた(ウイキペディア)というから魅力的なキャラクターだったに違いない。

棋譜は沢山残っているが、宗歩の実力が抜きんでているためほとんどは駒落ちというからすごい。

 「本妙寺」にはこの他、遠山の金さんこと、遠山景元や北辰一刀流の千葉周作の墓もある。

    遠山景元(遠山の金さん)の墓

     千葉周作の墓

 「本妙寺」は広い。

しかし、有名人の墓の案内は、道筋までがきちんと表示されていて分かりやすい。

墓所の説明板の内容も懇切丁寧だ。

だが、「本妙寺」は例外だと言って差し支えない。

普通はもっと不親切なのである。

 

「本妙寺」の山門を出て、左折すると染井霊園。

その手前を左折して細い路地を行くと「慈眼寺」前に出る。

路地の左、慈眼寺墓地 右、染井霊園  慈眼寺(日蓮宗) 明治45年本所  から移転

墓所は寺の前、細長く奥に伸びている。

有名人の墓の案内板が入り口にあるが、場所を特定していないから、まったく役に立たない。

それでも墓地の中を歩いて行くと「芥川龍之介の墓」の文字。

ここを入った突き当たり左側に芥川龍之介の墓がある。

それはいいのだが、この案内表示柱の右側の墓域は谷崎家の墓で、谷崎潤一郎の墓があることは何も教えてくれない。

谷崎潤一郎の墓は京都の「法然院」にあるのだが、ここには谷崎家の墓があるので分骨されてきている。

谷崎潤一郎の墓

あるいは、谷崎家の意向で案内表示がされていないのかもしれない。

そうであるのかもしれないが、芥川家の場合、龍之介と長男比呂志の墓は案内されているが、作曲家の三男也寸志の墓はすぐ近くにあるのに何の案内もないのは、芥川家の意向というより、寺が不親切なだけではなかろうか。

 芥川也寸志の墓

谷崎家の墓所の先には、江戸後期の洋画家・蘭学者の司馬江漢や儒学者の斎藤鶴磯の墓があり、こちらは詳細な解説板が立っている。

       司馬江漢の墓           斎藤鶴磯説明板

このブログのタイトルは「石仏散歩」。

だが、この「豊島区西巣鴨」と「豊島区巣鴨5丁目」にはこれという石仏はない。

墓標の地蔵や如意輪観音もほとんど見られない。

石仏愛好家には見向きもされない寺町である。

最後に、私ごとをひとつ。

「本妙寺」と「慈眼寺」の間に「すがも平和霊園」がある。

義弟がここに眠っているので、本堂の前で手を合わせてきた。

 彼は、ここのハイテク墓苑「電脳墓」に祀られているのだが、遺骨は大分県にある寺の本院の方に納められている。

寺から配られたICカードを挿入すると義弟の写真と位牌が仏壇風画面に現れるという仕掛けになっている。

我々は墓の前で手を合わせる時、個人の霊に語りかけているはずだ。

遺骨とともに霊もそこにいると思うからである。

「電脳墓」の彼の写真の背後には、大分県からその瞬間飛んできた霊がいるのだろうか。

霊だから瞬間移動が可能なのだといわれるとそんな気もするのだが、現代テクノロジーの斬新さとスピードに、霊が戸惑っているように思えてならない。

一方、 「何を血迷ったことを言うのか。電脳墓は現代のラントウバであり、詣り墓。これは見事な両墓制の復活です」と指摘されそうでもある。

 

 

 


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