石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

46 賀春!西新井大師の石造物

2013-01-01 14:58:55 | 寺院

明けましておめでとうございます。

新春の初詣は、西新井大師へ。


                  2013年元旦10時30分撮影

去年は、初詣に行った浅草寺の石造物が年明け1回目の記事でした。

だから、今年の1回目は、西新井大師の石造物です。

正月は人出が多いので、石造物は、去年の暮れに撮影済み。

西新井大師は通称で、正式寺名は「五智山遍照院総持寺」。

弘法大師を本尊とする真言宗豊山派の寺院です。

山門を入るとすぐ左の祠の中におわすのが塩地蔵、別名いぼとり地蔵といって、ここの塩を塗るといぼがころりと取れる、というのが謳い文句。


           塩地蔵堂

霊験あれば塩を倍返しするのは、どこの塩地蔵にも見られる習い。

師走の塩地蔵の足元に塩がないのは、無垢で新年を迎えるための装いだろう。

 

   2012.12.14撮影         2012.04.27撮影

ちなみに右は、去年、4月に撮影した塩地蔵。

現代塩地蔵の怪は、塩を供える信者の姿を見ることがないのに、大量の塩があること。

「東京とその周辺の塩地蔵図鑑(1)、(2)」(*カテゴリーで地蔵菩薩を選択、プルダウン)で24カ所の塩地蔵を回ったが、塩を供える人に一度も出会わなかった。

もしかしたら、お寺が?と思うのは、ゲスの勘ぐりだろうか。

塩地蔵の対面にあるのが「厄除弘法大師」碑。

 厄除弘法大師碑(文政9年・1826)

ここでクイズ。

「関東の3大厄除け大師はどことどこ?」

「佐野、川崎、西新井」と答えたあなたは、立派な現代人です。

宣伝、広告に見事に乗せられているから。

自らを「関東三大師」とうたう佐野厄除け大師の宣伝が行き届いているからだが、通常、大師といえば、弘法大師を指し、佐野厄除け大師の本尊は元三(がんさん)大師なので、弘法大師を祀る西新井、川崎大師と一緒にはなりません。

混乱の元は、括り方。

本来、厄除けを本業とする元三大師を祀る川越、青柳、佐野大師を「関東三大厄除け大師」と括ればスッキリするのですが、弘法大師を祀る西新井、川崎、観福寺大師堂が「三大厄除け大師」とうたっていたため、元三大師を祀る方が「三大師」を呼称するようになったからです。

ややこしくて、頭が痛くなるので、これでクイズは終わり。

しかし、では、なぜ、西新井大師は「厄除け」をうたうようになったのだろうか。

その答えは、「厄除弘法大師」碑の隣の「西新井総持寺碑記」にあります。

 

 西新井総持寺碑記(天保7年・1836)    上部タイトル(右から2字ずつ縦に西新井総持寺碑記)

「天長三年大師巡行諸州為衆生説法遂来経此地」(天長三年、大師諸州を巡行し衆生の為に説法し、遂に来たりて此の地を経)偶憩一松樹下忽見十一面観世音現干枝上」(偶(たまたま)一松樹の下に憩ひ、忽として十一面観世音の枝上に現はるを見る)「謂大師曰爾応遇厄難爾命殆危矣宜謹祈祷焉」(大師に謂ひて曰く、爾(なんじ)応(まさ)に 厄難に遇ふべし。爾の命殆ど危ふし。宜しく謹みて祈祷すべしと

この十一面観世音のお告げを受け取った大師は、一刀三礼、十一面観音の尊像を刻み、その残材で自らの像をも作って、これを枯れ井戸に投じ、一切の厄災はこの像が万民に代わって負うべく祈願した。

奇跡は起きた。

碑文の一部

「方此時遠近病難災害頻行人民詣寺祈之無不応」(此の時に方(あた)り、遠近に病難、災害頻行す。人民寺に詣でて之に祈る。応へざるなし

これが、「厄除弘法大師」の由縁ですが、この碑の建立年が天保7年(1836)であることを考えると、「厄除け」の言葉の重みが一層増します。

なぜなら、天保4,5,6年は、3年連続の全国的大飢饉、餓死者続出で、天から降る厄災を払うのに人々は神仏に祈るしかなかったのです。

この天災に、幕府の無策という人災が事態をさらに悪化させた。

財政破綻に窮した幕府は、貨幣改鋳の一時逃れを繰り返し、それがインフレに拍車をかけた。

3.11東日本大地震と政権交代で希望を担った政府の無策があいまっての現代日本の混迷と、どこか似通っていると言えなくもない。

不幸中の幸いは、どじょう宰相は、将軍家斉ではなかったこと。

能天気、あほ馬鹿将軍家斉は、世の窮状をよそに多数の妾と悦楽に耽り、50人もの子をなしたのですから。

話が横道にそれた。

この「西新井総持寺碑記」の撰文は、松本子邦という文化人ですが、その松本子邦の人となりを讃える碑が「持寺碑記」の先にあります。

  松本子邦寿石(嘉永3年・1850)

碑文とその碑文の作者の石碑が並ぶのは、珍しい。

「松本子邦寿石碑」によれば、その人となりは「親に孝に、友に篤し。読書を好み、書万巻を購ひ、別業に庫づくりして以て貯ふ。窮生に貸して之を読ましむ」。

どうやら個人図書館を開放していた人物らしい。

「松本子邦寿石碑」の奥に鐘楼がある。

 

傍らに英語の解説文。

鐘楼は石造物ではないが、数奇な運命をたどったもののようで、とり上げておく。

「During the World War Ⅱ、it was offered to the Japanese Army,and its whereabouts was not known.Later it was learned that,shortly after the end of the war,the bell had been sent to Pasadena,California,on bord the US cruiser Pasadena and hung in Pasadena City Hall」

戦勝記念品として、アメリカのパサデイナ市庁に飾られていた鐘が、昭和30年(1955)、日米親善の絆として西新井大師に返還された、めでたしめでたしというお話。

めでたい話には余話が付き物。

寺に鐘楼がなくては困ると云う事で、実は昭和27年、新しい鐘が鋳造されたばかりだった。

その鐘は、どうなったのだろうか。

ただ、鐘楼奉納記念碑が立つのみです。

梵鐘奉納記念碑(昭和27年・1952)

奉納したのは、「三郡送(おくり)大師講」。

「送り大師講」とは、四国八十八ケ所霊場を模したミニ霊場を大師の絵や像を持ちながら回る集団のことで、回るのが北足立、南足立、南埼玉の3郡に設置された新四国霊場なので、「三郡送大師講」。

西新井大師には、数え切れないほどの大師講とその奉納品がありますが、それについては、改めて後述します。

 

 鐘楼から 蓮池をはさんだ参道脇に立つのが、「延命地蔵尊」だが、石仏ではないので、パス。


   50が延命地蔵、55が庚申塔

「延命地蔵尊」と参道を挟んで反対側にも石造物群がある。

その中に西新井大師境内唯一の庚申塔がある。


 境内唯一の庚申塔

設置理由を知りたいところだが、その造立年すら不明の?に包まれた庚申塔なのです。

西新井大師は祈願寺なので、檀家は少ない。

それでも墓地はある。

高い塀に囲われて、墓は見えないようになっている。

正面が大師堂。その背後、白壁の向こうが墓地。

入り口は、庚申塔の近く。

施錠されていないので中に入ってみた。

墓地奥に歴代住職の墓域。

 歴代住職の墓域。中央五輪塔は中興三十二世秀円大僧都の墓(文政8年・1825)

歴史ある寺にしては数が少ないのは、住職の多くが昇任転出したからだという。

西新井大師総持寺が、出世寺と云われる由縁です。

僧侶墓域の一角に見事な彫りの阿弥陀様。

     説法印阿弥陀如来座像

胸元の両手は、説法印。

大きな蓮華座と反花の上に、おだやかに、かつ凛として座していらっしゃる。

大寺ならではの佳作と言えるでしょう。

もう1基珍しい墓石がある。

五輪法界真言の梵字を図案化した五輪塔墓標

梵字を左右対称に図案化し、五輪塔に見立てた墓石。

私は初めて見た。

この僧侶墓域の塀の向こうにあるのが、三匝堂、通称さざえ堂。

   三匝堂(さざえ堂)

さざえ貝のように階段をぐるぐる回りながら上る仏堂で、都内ではこのお堂だけになった。

四国八十八ケ所の本尊摸刻が祀ってあります。

その横にあるのが、加持水井。

 

     加持水井                   神田蝋燭講寄進

弘法大師が自らの像を刻み、これを枯れ井戸に投じて万民の厄除けを祈願した故事は前述したが、この話には続編がある。

枯れ井戸に投じた大師の自像は、ある日、突然飛び出して、枯れ井戸からはこんこんと清水が湧きだしたというもの。

その井戸が、この加持水井です。

ここで、再びクイズ。

「西新井大師に対する東新井大師がある。○か×か」

答えは、×。

寺の西しく湧きでた戸のあるお大師さんだから、西新井大師なのです。

大師が関わる清水だから、いわば聖水。

信者は飲んだのだろうか。

『遊歴雑記』(文化2年・1829)には、こう書かれている。

「此大師堂の西に加持水と号せるありて、井戸屋形を作り小茶椀弍ツ三ツ並べてあるにぞ。参詣の徒、目を洗ふあり、飲人もありけり。ただし此加持水の色、白赤く濁りて中々服しがたし」

境内には、賽の河原もある。


左、加持水堂、右、加持水井、奥が賽の河原の水子地蔵堂

加持水井に相対して大きな覆い屋があり、奥にひときわ高い地蔵。

その前には無数の小さな石仏地蔵が所せましと並んでいる。

      水子供養の賽の河原

夭折した子どもは親不孝の罪で地獄に堕ちる。

地獄の賽の河原で子どもたちは、親不孝を詫びながら石を積んでは塔にする。

その塔を鬼が来ては、蹴散らかす。

逃げ回る子どもたちに救いの手を差し伸べるのが、地蔵菩薩だと信じられてきた。

 真新しい塔婆が並んでいる

観光資源と堕した増上寺の水子地蔵群に比べれば、このお堂には宗教的雰囲気が濃厚で、好感が持てる。

賽の河原の隣が、本堂に次いで重要な不動堂。

その不動堂の前を、右手に本堂を見ながら行くと弘法大師立像がある。

 

台石に「東京千住睦」の文字。

寄進した講名です。

そこを左折すると石碑群にぶつかります。

これら全ては、各種講中の碑。

講とは、大師講のことで、弘法大師を奉賛する信者の集団。

職能集団だったり、地域集団だったりします。

西新井大師の境内には、各講中により寄進された建造物、石造物が多数ある。

下の写真、3基の石造物は「木魚講」と銘記されているが、真ん中の灯籠は境内の石造物で最も古いもの。

寛文9年(1669)造立とされている。

歴史のある寺なのに、最古の石造物が寛文年間というのは意外だが、この頃から講があったことが分かります。

境内にある講名のある石造物を時代順に列記しておく。

全部、写真があるのですが、掲載すると記事の容量を超えるので、2基のみにします。

1 木魚講燈籠 寛文9年(1669)
2 西新井弘法大師道(道標) 安永6年(1777)
3 宝筐印塔(浅草真心講中) 寛政元年(1889)
4 百八十八ケ所供養塔(奥之院御橋講) 文政12年(1829)
5 厄除弘法大師一千年忌供養塔(千住掃部宿講) 天保5年(1834)
6 毛塚(火消し組合谷組) 明治6年(1873)
7 東京大栄講碑 明治40年(1907)
8 戦没者供養塔(魚河岸明治講) 明治40年(1907)
9 鐘楼大修繕記念碑(東京鉄仲講) 明治40年(1907)
10 西新井弘法大師(月参講他) 明治42年(1909)
11 五老井宗雄句碑(巴蓮) 大正4年(1915)
12 廿二日護摩講記念碑(護摩講)大正11年(1922)
13 納札塚(東都納札会) 大正11年(1922)
14 下谷木魚講碑 昭和3年(1928)
15 奥之院道標(海講) 昭和4年(1929)
16 高野明神開帳祈念碑(大師念仏講) 昭和4年(1929)
17 弘法大師立像(千住睦講) 昭和4年(1929)
18 弘法大師千百年大遠忌碑(大和講) 昭和9年(1934)
19 奥之院清浄並池畔改修之碑(両河講) 同上
20 弘法大師千百年大遠忌記念碑(念仏講) 同上
21 弘法大師千百年大遠忌記念碑(三郡送大師講)同上
22 弘法大師千百年記念碑(千住念仏講)同上
23 弘法大師千百年遠忌記念碑(東京真心講)同上

 
  千住念仏講              東京真心講
24 両河講代々講元碑 昭和16年(1941)
25 梵鐘奉納記念碑(三郡送大師講)昭和27年(1952)
26 本堂落慶記念碑(大師出入睦会) 昭和47年(1972)
27 木遣塚(木遣睦北声会) 昭和50年(1975)
28 おくのいん道碑(海講)年不詳
29 奥院・石橋敷石女人堂建築・開帳・護摩供養記念碑(海講)年不詳
30 西神田木魚講碑 年不詳
31 御府内八十八箇所巡礼記念碑(南無大遍照金剛十八日講)年不詳
32 加持水井井戸枠(蝋燭講)年不詳

西新井大師発展の契機は、天保5年(1834)の大師一千年大遠忌でした。

記念事業として本堂が改築され、今日の大伽藍の原形ができたのです。


        江戸名所絵図(西新井大師)天保5年(1834)

時代は、江戸町人文化の爛熟期。

ご開帳、縁日の度ごとに参詣者は増大し、門前町は賑わいを増していった。

関東一円から参詣に来る大師講を迎える料理茶屋には、なじみの大師講の名入り暖簾がはためいて、呼び込みの甲高い声が繁華の喧騒に輪をかけていた。

寄進を競い合った講とは別に、個人の大檀那の存在も見逃せない。


   北斎「弘法大師修法図」

北斎が寺に籠って書き上げた「弘法大師修法図」のスポンサーは、江戸の高級料亭八百善の栗山善四郎であり、

大師一千年遠忌記念に建てられた三匝堂(さざえ堂)もまた、江戸の町民伊勢屋彦兵衛の寄進によるものでした。

池の中の弁天さまを見ながら石橋を渡ると、本堂裏の霊域に入る。

 
    きよめ橋                           弁天堂

鬱蒼とした木立に覆われて薄暗い。

小詞、小堂が並んでいる。

手前が、権現堂。

           権現堂

寺の開山にあたり、山内地鎮のために祀られた。

その隣が如意輪堂。

 
       左 如意輪堂     右 奥の院

如意輪観音をお参りするのは断トツに女性が多い。

だから別名「女人堂」と呼ばれている。


   如意輪観音

女人堂の次が奥の院。


            奥の院

高野山奥の院の代拝所としての聖地だが、残念なことに薄汚く、霊域としての清冽さに欠けている。

建物は古くても、清潔にして峻厳な霊域としての維持、管理は不可能ではないだろう。

少なくとも千社札など厳禁にすべきではないか。

奥の院の右横の小道を入ると無縁墓標群がある。


        無縁仏群

中で目を引くのは、阿弥陀三尊像。

間隔をあけることなく、びっしりと並べられていて、前の石仏が邪魔をして像容の全体は見られない。

カメラを突っ込んで、部分撮影をしてみた。

 
 阿弥陀如来三尊庚申塔

どうやら、阿弥陀如来を中央に日天子、月天子を両脇に配する三尊像で、下部の刻文には、二十三夜講供養とあるようだ。

後日、別用で大護八郎『庚申塔』(昭和47年)をめくっていたら、偶然、この三尊像に出くわした。

見ると三尊像の下には台座があり、その台座には、三猿が浮彫りされているのです。

つまりこの石仏は、阿弥陀三尊を本尊とする庚申塔ということになる。

『庚申塔』の初版発行は、昭和33年。

55年の間に、境内のあちこちを移転させられ、いつの間にか、台座を失って、自らが庚申塔であることを証明できなくなってしまった阿弥陀三尊像、一抹の侘しさを感じざるをえません。

奥の院を出れば、裏門は目の前。

裏門の手前に境内唯一の宝筐印塔がある。

  
    宝筐印塔と本堂の奥に奥の院               八角堂と四国八十八ケ所本尊石仏群

この辺り、以前は五輪塔、宝筐印塔、多宝塔など6基の石造物が立ち、傍らに四国八十八ケ所の本尊摸刻石仏が所せましと並んでいたが、現在は光明殿前の第一ぼたん園と八角堂の周りに移転されて、残っているのはこの宝筐印塔ただ1基のみ。

北門の傍らには、お稲荷さん。


       出世稲荷

別名、出世稲荷というのだが、それは西新井大師が出世寺だからだという。

この出世稲荷を右折して境内に向かってゆくと、本堂正面に出る。


  北門から境内へ。右手に本堂

不動堂から歩き始めて、これで本堂をぐるっと一周して来たことになります。

今度は、本堂を背にして山門方向へ。

左の建物は、書院。

その前に梵鐘が置かれている。


     書院前の鐘楼と力石

現在の梵鐘がアメリカから返還される前に作ったのが、この鐘だったのだろうか。

鐘の周りを囲んでいるのは、力石。

その昔、力石を持ち上げる男たちの力比べは、娯楽の一大イベントだった。

これが往時の力石だと気づく参詣者は、果たして何人いるだろうか。

その隣に聳え立つのは、道標。

「奥之院道」と刻されている。

境内の、どこに立っていたものか、さほど広くない境内で道標があるのは大げさな感じがする。

道標の上に丸で囲った「海」の文字。

奥之院講の名前です。

道標といえば、「弘法大師道」だろう。

  
     光明殿前の道標「弘法大師道」

西新井大師への道標が「弘法大師道」として4基残されている。

2基は、光明殿前に、残りの2基は、足立郷土博物館前庭にある。

道標「奥之院道」の前に池。

 池のほとりに立っているのが「弘法大師巳呂波歌之碑」。


   弘法大師巳呂波歌之碑

いろは歌の作者は空海であることを、この碑で初めて知った。

恥ずかしい。

でも、調べてみると、どうやら否定的見解の方が多いようだ。

天才ゆえの、名誉ある誤解というべきか。


 36は道標、23、いろは歌碑、11、蕉雨句碑

これで西新井大師の主な石造物を一巡したことになる。

芸能色の強い浅草寺の石造物に比べると、講中碑ばかりで面白みに欠ける気がする。

句碑もわずかに2基。


    芭蕉句碑(光明殿前)

「父母のしきりにこいし雉子の声 芭蕉」

句碑があるからと云って、芭蕉が西新井大師を訪れたわけではない。

高野山で詠んだもの。

当山が東の高野と呼ばれるので、選句されたまでのことです。

西新井大師といえば、牡丹。

当然、牡丹の句もある。


   蕉雨の句碑(第2ぼたん園)

「一輪の牡丹終日(ひねもす)散にけり 八巣蕉雨」

資料によれば、蕉雨は、一茶と肩を並べる化政期の代表俳人とあります。

本年も「石仏散歩」、御贔屓の程、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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