団子坂を上る。
「団子坂上」の信号を左折、すぐ右手に見えるのが「文京区立森鴎外記念館」。
◇沙羅の木の詩碑(千駄木1-22 森鴎外記念館)
最初、通り過ぎてしまったのは、「区立」にしてはあまりに瀟洒な建物だったからです。
ここは森鴎外の住居跡だが、2階から東京湾が見られたということで「観潮楼」と名付けられたのだという。
今、道路際に立って、東の方を見ても、屋根とビルばかりで、とても海が見えるようには思えない。
観潮楼跡
森鴎外(1862-1922、医学博士、文学博士)は、明治25(1892)
年、30歳の時に駒込千駄木待ち21番地に居を構え、増築した2階
部分から東京湾が眺められたとされたことにより、観潮楼と名付
けた。
鴎外はこの地において半生を過ごし、『青年』、『雁』、『阿部一族』
『高瀬舟』、『渋江抽斎』など代表作を執筆した。その後、建物は
火災や戦災により消失したが「胸像」「銀杏の木」「門の石畳」
「三人冗語の石」は残り、当時の姿を偲ぶことができる。
戦後、文京区はこの地を児童遊園地として開放し、東京都指定史跡
の認定を受けた。さらに鴎外生誕100年に当たる昭和37(1962)年
に鴎外記念室を併設した文京区立鴎外記念本郷図書館を開館し、
平成24(2012)年に鴎外生誕150年を記念して、文京区立森鴎外記
念館を開館した。
森鴎外住居跡 千駄木1-23-4 東京都指定史跡
入口を入り、壁ぞいに進むと突き当りの壁面に詩碑がはめ込まれている。
沙羅の木
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりしさらの木の花
森林太郎先生詩
昭和廿五年六月 永井荷風書
父鴎外森林太郎三十三回忌にあたり
弟妹と計って供養のためこの碑を建つ
昭和二十九年七月九日 嗣 於菟
沙羅の木は、夏椿の別名で、記念館の木も6月、白い花をつけるということです。
森鴎外はここ観潮楼で生涯を送った。
毎月催した観潮楼歌会には、佐々木信綱、与謝野鉄幹、伊藤佐千夫、北原白秋、吉井勇らが参加、上京したばかりの石川啄木も顔をだしたことがあるという。
団子坂を下り、最初の小路を左折して進むと小さな公園がある。
須藤公園。
◇入江為守歌碑(千駄木3-4須藤公園)
今世の中の話題の一つは、近づく元号改定と平成天皇の退位だが、平成天皇の誕生は昭和6年12月23日だった。
須藤公園の右奥の一画に奇妙な形をした自然石の石碑がある。
鶴が天に向かって一声鳴いているかのようだ。
それが皇太子誕生を祝う歌碑。
詠み人は入江為守。
子爵で東宮大夫、御歌所長を務めたという歌人です。
「加しこくも親王(みこ)あれませり九重(ここのえ)の
御そのの松に月の昇る頃
従二位為守」
碑裏には
「東京市聯合青年団本郷区林町分団ニテ
皇太子殿下御降臨を慶祝シ奉リ
御歌所長子爵入江為守閣下ニ和歌ヲ乞ヒ
茲ニ碑ヲ建テル孫樹ヲ植シ以テ記念トス
昭和十年二月十一日
団長 子爵 大給近孝」
歌碑の背後に大きな木の切り株がある。
これが記念樹のイチョウの木だったのだろうか。
「青年団」という文字を久しぶりに見た気がする。
終戦後ぱたりと見かけなくなったのは、軍事力補填組織として存在していたからです。
団子坂を上り、白山方向に進むと右側、ちょっと奥まった場所に小さな神社がある。
「青年団」と同じように、戦後見かけなくった「忠魂碑」がここにはあります。
◇忠魂碑(千駄木5-6 天祖神社)
狭い境内に似合わず大きな石碑で2m近くある。
忠魂碑は戦死者を顕彰する碑。
碑裏には、発起人として、本郷区長、駒込警察署長、町会長などの「オエライさん」の名が並ぶ。
この碑が建てられたのは、昭和7年。
太平洋戦争初期の上海事件での戦死者の忠魂碑です。
まだ忠魂碑を建てる余裕があったことが見て取れる。
これ以降忠魂碑建設がぱったり途絶えるのは、戦死者が急増し、いちいち顕彰していられなくなったから。
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