白山神社には、2基の石碑がある。
一つは、鳥居をくぐって、左側の「孫文先生座石」碑。
「由緒記
明治43年5月中旬、神社近くの旧原町の盟友宮崎滔天宅に奇遇していた孫文は、滔天と共に白山神社の境内の石に腰掛けながら語り合った。中国の将来と方策について論じて、時の経つのも忘れた。その時、たまたま夜空に光芒を放つ一条の流れ星を見た。この時、祖国の革命を心に誓ったという。そして彼は、清朝を倒して辛亥革命の最高指導者になり、中国国民党の創設者となった。
白山神社の清水宮司を中心に有志は、孫文が流星を見て清朝を打倒して新中国国民を救済せんとの決意を固めた場所を、後世にまで明らかにしようとして記念碑を建立した。
昭和58年6月 白山神社総代 各町会有志建立」
碑文にしては、こなれない文章だが、文意は判る。
境内の石に座りながら宮崎滔天と祖国中国の将来を語り合っていた孫文は、たまたま見た一条の流星に革命者になることを心に誓った、いうもの。
だが、肝心の孫文が座った石がない。
白山神社近くに住んでいた二人だから、夜、境内で話し込んだ可能性はある。
何の確証もない話を「後世にまで明らかにしようと」石碑を建立するとは、なんと大胆な。
こうした「こじつけ伝説」は神社の得意技のひとつで、境内のもう一つの石碑には、その伝説が読み取れる。
◇旗桜の碑
境内社の八幡神社の御神木は、白旗桜と呼ばれる。
白い花で、突然変異なのか花弁の一つがピョコンと立って、まるで旗を立てたかのように見えるので、「白旗桜」。
写真はいずれも他サイトからの無断借用。
(気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録 より)
ごめんなさい。
白旗桜の樹下に由緒記碑がある。
「人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり・・・・・・」
要するに、永承6年(1051)八幡太郎義家が奥州平定の途中、この社に寄り、義家が旗を立てて祈願せられた時の桜ということで「旗桜」だということらしい。
しかし、白山神社が江戸時代初期、小石川植物園の地から当地に移転してきた歴史的事実からすると、八幡太郎義家が旗を立てて祈願したという伝説は、でっちあげというしかない。
旗桜は、江戸三名桜のひとつに数えられ、昭和10年には国の天然記念物に指定された。
しかし、そのわずか2年後に枯死してしまう。
現在あるものはその後継樹です。
◇鶏声の井記念碑(白山5-13-5 京華女子高前)
白山通りに面して京華女子高があり、道路側の植え込みの中に石碑が1基ある。
碑表には、縦書きで
鶏声の井旧跡
白河楽翁公が酒井家隣地一橋
邸に参向の砌鶏声の井戸を
見て詠める歌
筒井筒 いつの暁くみ初めて
鶏の八声の 名にや立つらん
そして右側面には
「伝ふる所の鶏声の井はこれより正南二十五尺の地点にして人家の床下にあり、原町自治会は久しからずしてその殲滅せんことを慮り昭和3年4月この碑を建つ。伯爵 酒井忠正書」
石碑は、寿命が長い。
時には、対象の記念物がなくなって、碑だけが残ることもある。
この「鶏声の記念碑」が建てられたのは、昭和3年(1928)だったが、その時既に井戸は、人家の床下に埋まって、人目につくことはなかった。
「このあたりに鶏声の井があったことを喚起するために」建立された石碑は、その後、2回、移転を余儀なくされ、昭和49年、この地に落ち着いた。
「鶏声の井」があった場所とは無関係な場所に立つ記念碑は、存在理由があるのか、疑わしい。
記念碑の傍らの説明板によれば、「その昔、夜、鶏の鳴き声がするので、その葉所を掘ったら、金の鶏が出てきたので、その井戸を鶏声の井と呼び、界隈は「鶏声ケ窪」と呼ばれた。明治2年(1869)、「鶏声暁に告ぐ」から町名を「暁町」にした」とある。
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