石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

137文京区の石碑ー28-童謡関連顕彰碑2基(吉祥寺 本駒込3-19-17)

2019-07-14 08:31:38 | 石碑

 

本駒込の吉祥寺は、曹洞宗の檀林としての巨刹で、墓地に五輪塔が目立つのは、大名家の墓域が多いからだとは知っていた。

だからそうした格式とはちょっと無縁な、童謡関連の顕彰碑が2基も境内にあるとは意外だった。

2基の石碑は、本堂に向かって右の墓域の前面に前後するように立っている。

前のやや小ぶりな自然石は、作曲家・河村光陽記念碑。

表面は横書きで

 

河村光陽先生記念碑

童謡一路

 かもめの水兵さん

     武内敏子作詞
     河村光陽作曲

この武内、河村コンビの作品は、「赤い帽子白い帽子」、「うれしいひなまつり」、「グッドバイ」、「船頭さん」、「りんごのひとりごと」など多数。

その大半は、河村の長女が歌ってレコードになったが、次女のピアノ、三女のバイオリンを加えた

フアミリー演奏会の四季をするのが、晩年の彼の楽しみだったという。

この碑の造立は昭和33年(1958)、その30年後、後方の小出浩平顕彰歌碑が建てられた。

高さ160cm、幅190cmの堂々たる石碑の前面には、童謡「こいのぼり」の譜面がはめ込まれている。

作詞・作曲者は小出浩平とあるのは、この碑が小出浩平顕彰碑であるのだから当然のことだが、実はこれには異論があって、作詞・近藤宮子、作曲・不明とするのが、現状では正解らしい。

というのは、この作詞作曲をめぐって裁判が行われ、小出氏の関与が否定されているからです。

この裁判については、池田小百合「なっとく童謡・唱歌」http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00showa1.htm

 に詳しく解説されているので、参照ください。

 

顕彰碑にケチをつけた形になったが、氏の略歴が碑裏に刻されているので、そのまま載せておきます。

 

1、明治30年8月14日、新潟県南魚沼郡塩沢町仙石に生まれた。舞子小学校、高田師範学校を経て、大正14年東京音楽学校卒業。
1 南西小学校、香川師範学校、東京赤坂小学校、城東小学校歴任。昭和12年学習院大学教授になり、皇太子殿下(昭和天皇)、義宮電化の音楽御教育係りを拝命、昭和39年三室戸学院理事、東邦音楽大学副学長の要職につき、日本音楽協会を始め、多数の会の会長として活躍。
1、この間に、日本で最初の学年別基礎獅童 レコードによる鑑賞指導、楽器指導、創作指導を音楽教育に取り入れ、わが国音楽教育を一変させた。
また、唱歌新教授法、合唱曲集等の多数の著書や雑誌を編集、こいのぼり、おしし等の愛唱歌、900余の校歌の作曲、NHK、TBSその他多数のコンクールの創始、審査、更に放送、講演等により、日本の音楽教育を今日あせしめた功績は絶大である。
よって茲に歌碑を建立し顕彰する次第である。
   昭和54年11月18日 小出浩平先生顕彰碑建立実行委員会 合成青出書

 

経歴を書き写しながら疑問を抱いたのは、これだけの要職を経た人物が、作りもしない童謡「こいのぼり」の作詞作曲者として認めるよう裁判を起こすものだろうか、ということ。

複雑な事情が背後にあるようだが、深入りするつもりはない。

 

◇松尾水(南谷寺 本駒込1-20-20)

 南谷寺は、目赤不動としてよく知られている。

本堂左の墓地の中に「松尾水」碑がある。

「松尾水」が酒作りに最適な水であることを知る者は、そう多くはなさそうだ。

「松尾」は、京都の酒の神「松尾神社」の松尾です。

墓地の一画に八角形の金属製の蓋をかぶせた井戸があり、この井戸の水が松尾水だというもの。

深さ約13mの井戸は、今は枯れてしまっている。

地下鉄工事が影響したものとみられている。

この石碑が珍しいのは「松尾水」なる碑文だが、この井戸の寄進者と碑文の書家が、明治時代の東京の有名な起業家であることも忘れてはならない。

井戸の寄進者神谷傳蔵は醸造家で、あの「電気ブラン」の生みの親。

浅草の神谷バーでは、今なお、電気ブランが売られている。

一方、碑文の書家は、守田宝丹。

「宝丹」は商品名でもあって、芳香解毒剤「宝丹」は、明治時代爆発的に売れた。

実業家として成功した守田治兵衛(宝丹)は、東京府会議員になる。

彼は書家としても有名で、神谷傳蔵とともに南谷寺本尊の目赤不動の熱烈信者だった関係で、この「松尾水」碑が造立されることになる。

 

 

 


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