東大農学部の正門を入ると、すぐ左に、立ち上がった犬の前足を両手でしっかりと受け止めて、慈しむ男の像がある。
渋谷のハチ公とその飼い主です。
ハチの美談は、毎日、主人を渋谷駅まで送り迎えしていたハチ公が、主人亡き後もずっと駅に通い続けていたという話。
しかし、ご主人が東京帝大農学部教授であったことは、余り知られていない。
それを周知するために、この銅像は建てられたのだという。
ハチが渋谷駅へ通い詰めたのは、上野博士が井の頭線の駒場にあった東京帝大農学部に通うのに、渋谷駅を利用したからでした。
ここで「おやっ」と思ったあなたは鋭い。
駒場東大は教養学部で、農学部は本郷ではないの?
実は、昭和11年、ここ向ヶ丘にあった旧制一高と駒場にあった東大農学部は、相互にキャンバス交換をしたのです。
それを記念した石碑「向陵碑」が、構内の一隅にある。
◇向陵碑
「向陵」とは、ここ向ヶ丘の中国風呼び方。
碑裏に碑建設由来が刻されているが、全文漢文で読めない。
碑の横に、書き下し文のスチール板があるので、全文を転載しておきます。
我が第一高等学校は初め東京英語学校と称し、神田一ツ橋に在りき。明治8年創立す。10年、大学予備門と称し、19年、第一高等中学校と称す。本郷向陵に遷り、25年、今の名に改む。法学博士木下広次先生、校長に任ぜらる。此の時に当たり、欧米綺靡(あでやか)の風上下に弥漫(げまん)し、殆ど国礎を危くせんとす。先生之を憂ひ、四大綱領を掲げ、自治規則を制定し、以て天下に倡道せらる。是に於いて全校学生頓(とみ)に面目を改め、奮励踊躍、人々国士を以て自任し、向陵健児の名四海を衝動す。爾来46年、時に汚隆無きに非ずと雖も、向陵精神は一貫して今に更(かわ)らず。
浮説世を惑わし、人心動揺し、其の禍(わざわい)将に往日の如からんとす。吾輩国士の遺風を追ふ者、寒心恐懼せざるべけんや。
数年前、当局我が高校と駒場農科大学と其の地相易(か)へんとするの議あり、事已(すで)に緒に就き、今茲に8月、吾輩将に向陵に永訣せんとす。嗟夫(ああ)、向陵よ、汝が精神は長く我が高校と相終始せん。固より地の東西を以て其の説をかえざるなり。然れども、我校汝と相親しむこと40余年、其の去るに臨んで忍びず、決然一片の貞石を留め、以て遺蹟を表す。乃ち之を繋ぐに辞を以てす。
我が石磨くべし 志は奪ふべからず 彼の嶢(た)つ者は丘
焉んぞ其の蹶(たおれること)有らんや
昭和10年2月1日
第一高等学校寄宿寮
前第一高等学校教授 安井小太郎 撰
同 管 虎雄 書
四大綱領とは、1、自重、廉恥心の養成、2、親愛・共同の養成、3、辞譲心・静粛の習慣、4、衛生・清潔。
もちろん駒場には、キャンバス交換記念碑「駒場農学碑」が立っている。
東大農学部には、もう一基石碑がある。
◇朱舜水先生終焉之地碑
言問通りを跨いで本郷キャンバスと弥生キャンバスを繋ぐ歩道橋脇に立つのが、「朱舜水記念碑」。
その人となりを、東京都教育委員会による説明板から引用しておきます。
朱舜水(1600-82)は日本に帰化した明の遺臣です。名は之瑜、瞬水は号です。祖国明の復興を張るが果たせず、万治2年(1659)長崎に来た際、柳川藩の儒学者安東省庵の援助を受けて亡命しました。漢文5年(1665)小宅生順の推挙で水戸藩の賓客となり、水戸藩徳川家の中屋敷(現在の東京大学農学部の南東側)に入り、生涯この地で過ごします。学風は朱子学、陽明学の中間といえる実学で、空論を避け、道理を重んじ、水戸光圀、木下順庵らに大きな影響を与えます。天和2年(1682)に83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られました。
この記念碑は、日本渡来250年祭にあたり水戸藩邸内に朱舜水記念会が建てたものですが、農学部内で移転をしています。
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