石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

125 シリーズ東京の寺町(9)谷中寺町-20(谷中7丁目のロ)

2016-11-06 05:29:09 | 寺町

71 天台宗護国山尊重院天王寺(谷中7-14-8)

谷中寺町めぐりの最後が天王寺となった。

上野が寛永寺の影響下にあるとするならば、谷中は天王寺(旧感應寺)の影響下にあると云えよう。

谷中寺町を紹介するならば、冒頭取り上げるべき、それほどの歴史と寺格を有する古刹であり、巨刹です。

たまたま谷中1丁目からスタートしたので、7丁目にある天王寺が最後となったが、谷中寺町の締めくくりとしても十分有意義な存在でもあります。

山門をくぐると、掃除の行き届いたきれいな「広い」境内が目の前に広がる。

広いと言っても谷中寺町の寺にしては、のつもりだが、江戸時代の天王寺を知る人ならば、その無頓着な発言にあきれるのではなかろうか。

なにしろ、谷中霊園の大半は天王寺の境内で、その寺域は谷中寺町にも深く及び、最盛期には子院26坊を数えるほどでした。

 

境内左側の石仏群の中に一際高く、大きく坐していらっしゃるのは、お釈迦さん。

造立年は元禄3年(1690)、造立者は、感應寺第十五世住持日遼と刻されている。

しかし、日遼上人は、この翌年、島流しとなり、感應寺は、幕府から改宗、改名を命じられます。

なぜ、改宗を迫られたのか、なぜ、寺域は数百分の一に縮小されたのか。

「波乱万丈」は普通「人生」とか「生涯」の形容に使われるが、天王寺の「波乱万丈」な「寺歴」を紐解くことで、その答えを見つけてゆきたい。

感應寺の創立は、鎌倉時代の文永11年(1274)、開基者は、関長燿という武士でした。

流罪を赦免されて、佐渡から鎌倉に帰る日蓮が一夜の宿を求めたのが長燿の家。

折しも彼の妻は難産で苦しんでいた。

日蓮がしゃもじに書いた曼荼羅を与えると、うそのように楽々と子が生まれた。

感激した長燿は、小庵をもうけ、しゃもじを祀った、これが日蓮宗感應寺の起源です。

かつて「長燿山尊重院感應寺」と号した山号の「長燿」は開基者の名前だったことになる。

寺を大きくし、隆盛した中興の祖は、日長上人。

元和から寛永にかけての事です。

鷹狩りに来た家光は、日長に心酔し、3万坪の土地を寺域として与えます。

谷中のシンボル・五重塔を建てたのも日長上人でした。

こうした感應寺の豪勢に陰りが見えだしたのが、元禄4年。

幕府により、日蓮宗から他宗への改宗を命じられ、日遼上人は、伊豆八丈島へ遠流となる。

原因は、幕府の禁令に背く不受不施派と目されたこと。

不受不施とは、日蓮の教えの一つで、不受は「法華経を信じない者から施しを受けない」こと、不施は「信者は法華以外の僧に供養をしない」ことを意味する。

この法華経に対する純粋な姿勢は、しかし、現実社会でいろいろと齟齬をきたすことになる。

とりわけ、権力者である為政者が他宗信者の場合、問題が起きやすい。。

「領主の供養が受けられないと云うのか、土地も米も水も俺のものなんだから、いやなら改宗するか、廃寺せよ」

この圧力は、秀吉、家康と次第に強くなり、寛文9年(1669)には、ついに寺受け制度から不受不施派を締め出し、徹底的な弾圧を加えることになる。

法華宗側も、為政者からの供養は受けようとする現実派の「受不施派」とあくまで理念的に行動しようとする「不受不施派」に分裂して、理念派は「隠れ法華」としての活動を余儀なくされます。

「不受不施」について書けば、切りがないので、この辺で終わりに。

そうした動きの中で、感應寺の事件は起きた。

寺は、天台宗に改宗して、寛永寺末寺となる。

寺宝の祖師の曼荼羅しゃもじは、谷中の日蓮宗瑞輪寺に移された。

(このブログ谷中寺町NO37「安産飯匙の祖師」  http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=ffc31cdca40d3aa572dc8f0f0a1cf149&p=1&disp=30

をご覧ください。)

改宗は命じたものの、将軍綱吉は感應寺領38万石は減じなかったので、境内の風景は変わることはなかった。

しかし、日蓮宗から天台宗への改宗は、当然、檀家数の激減を招き、寺の台所は目に見えて悪化する。

窮余の一策として寺が編み出したのが、富くじの実施。

幕府に許可を求めたら、すんなりとOKが出たというから、面白い。

「江戸の三富」といえば、湯島天神、目黒不動尊、谷中感應寺を指すが、最盛期の化政時代には、31か所で富突きくじが行われていたという。

中でも谷中感應寺が一番人気で、札の発売日には、一攫千金を夢見る人たちで、谷中は賑わった。

(*改宗はしたが、寺号「感應寺」の改名には時間がかかり、現在の「天王寺」となったのは、140年後の天保4年。化政時代は、感應寺のままだった。)

感應寺での抽選は、般若心経を坊主が誦するなか、キリで箱の中の木札を突き刺して当たり札を決める。

1等は300両、2等20両の他前後賞など各賞があったが、当選者はその1-2割を冥加金として、寺に納めた。

富くじが終われば、谷中のいろは茶屋に繰り出して、当選者は祝杯を、大多数はやけ酒を呑んだ。

「いろは茶屋 中腹まぎれ上がるとこ」
「しっかりと握って通るいろは茶屋」。

いろは茶屋は、感應寺の門前町にあった。

初めは、文字通りの茶屋だったが、次第に私娼窟として賑わうようになる。

実はこの茶屋町も、感應寺財政立て直しの一環として、寺が申請し、幕府が許可したものだった。

富くじといろは茶屋の隆盛は、寺の懐を豊かにした。

いろは茶屋の客筋を揶揄する川柳がある。

「武士はいや町人すかぬいろは茶屋」
「円いのを専らに呼ぶいろは茶屋」。

感應寺の坊主を指してのことではなく、谷中、下谷、浅草、本郷の僧侶を指してのことだが、坊主がメインの客筋だったことが判る。

こうなると宗教とは何ぞや、信仰とは何ぞや!と、???疑問符だらけの世界に舞い込んでしまうが、寛政8年(1796)には、悪所帰りを一網打尽にされた僧70人が日本橋で晒し者になるという事件があった。

それほど仏教界は、堕落しきっていたということになります。

 

上野戦争では、天王寺は彰義隊の陣営となり、官軍の砲撃の的となった。

戦火で大半が焼失、残ったのは本坊と五重塔のみ。

しかし、官軍による大打撃は、維新後に炸裂する。

まず幕府からのお墨付きの境内地1万6000坪が明治政府に取り上げられ、更に共同墓地用に寺域を削られて、さしもの大寺も昔の面影を失くしてしまうこととなる。

以上が、「波乱万丈」の天王寺の寺暦。

短く書いたつもりだが、「波乱万丈」なだけに、どうしても長くなってしまう。

この谷中寺町シリーズでは、異例の長さだが、天王寺を理解するには不可欠な事柄ばかりで、短くしようがない。

 

では、本来の石造物紹介へ。

山門から境内に入ると左に地蔵銅像。

台石に「学童守護」とあって、制服の小学生群像が刻されている。

昭和10年(1935)、小学校の校庭で不慮の事故で亡くした二人の息子を悼む供養塔。

作務衣姿の男が手押しポンプで水をくみ上げている。

谷中寺町で見たポンプは、これで何台目だろうか。

ポンプの密集度では、谷中がダントツの都内NO1といえそうだ。

本堂に向かって左の木蔭に石造物が多い。

すらりと伸びやかな石仏がおわして、標石には「若柳観音」とある。

石仏図典で調べても「若柳観音」はない。

日本舞踊の若柳流と関係があるのだろうか。

銅像の釈迦牟尼仏は、先述したように、日蓮宗寺院だった頃の最期の造仏。

釈迦牟尼仏の前にあるのは、賽銭箱か。

不受不施派の日遼上人造立ならば、信者でない人が布施する可能性のある賽銭箱は置かないはずなのに、どうしたことだろうか。

後世、天台宗に改宗してから付け加えたのだろうか。

これは、宝塔だろうか、宝篋印塔だろうか。

判らないといえば、その隣の石造物も見たことがない。

お分かりの方、教えてください。

これは、六地蔵石幢。

石幢の右後方に見えるのが、庚申塔群。

なんと8基もある。

谷中寺町全体で3基とか4基しかなかったのに、これはどうしたことか。

中央の一際高いのには、寛文三年(1663)とある。

都内で最も古いものの一つといえよう。

六地蔵石幢の近くの暗がりに青面金剛が潜んでいる。

素朴な像容で古そうだが、目を皿にして探しても年代は不明。

本堂前に石標がある。

 近寄って見たら「沙羅双樹」とあり、木の説明だった。

お釈迦さまの前に沙羅双樹。

去年行ったスリランカの仏教寺院を懐かしく思い出した。

そこでは、沙羅双樹ではなく、菩提樹が聖樹だったが。

塀沿いに奥へ。

聖観音と如意輪観音がポツンと忘れられたようにおわす。

いずれも墓標で、如意輪観音には、寛永廿年の文字が読み取れる。

寛永年間の石仏は、都内では、そう多くない。

さすがに都内きっての古刹だと感心する。

付け加えれば、墓地にも寛永期の五輪塔がある。

 

塀越しに日暮里駅のホームが見下ろせる。

新幹線が天王寺境内の下を走り、日暮里駅の先から地上に出ると聞いたことがある。

新幹線が通る度に振動でもあれば、実感するだろうが、勿論そんなことはないから、絵空事のように現実感がない。

ぐるっと本堂と庫裏を一周して、モダンなステンレススチールの「新山門」を出る。

この辺りいつでも観光客が絶えない。

外人の姿も多い。

おそらく谷中寺町で、一番集客力のある寺ではなかろうか。

左に小堂があって、地蔵と青面金剛がおわす。

千羽鶴が吊り下がり、千社札が所狭しと貼られて、朱色の頭巾を被ったお地蔵さんは涎かけをして、草鞋を持っている。

ここだけは、江戸か明治、そんな時代錯誤を覚える一画です。

寺の塀沿いに日暮里駅方向へ。

消火栓の傍に戦時中の防火用水がある。

寛永の如意輪観音も珍しいが、この防火用水や現役の手押しポンプも貴重だと私には思われる。

より便利な新製品がどんどん登場する現代、捨てられないでこうしてあることが、奇跡的だからです。

防火用水の向かいの民家には、なぜか、タヌキが睨みをきかせている。

 「谷中寺町」は、今回で終了。

次回からは、「成田街道の石造物」です。

更新は、11月11日の予定。

 

≪参考図書≫

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

 ◇石田良介『谷根千百景』平成11年

 ◇和田信子『大江戸めぐりー御府内八十八ケ所』2002年

◇森まゆみ『谷中スケッチブック』1994年

 ◇木村春雄『谷中の今昔』昭和33年

 ◇会田範治『谷中叢話』昭和36年

 ◇工藤寛正『東京お墓散歩2002年』

 ◇酒井不二雄『東京路上細見3』1998年

 ◇望月真澄『江戸の法華信仰』平成27年

 ◇台東区教委『台東区の歴史散歩』昭和55年

▽猫のあしあとhttp://www.tesshow.jp/index.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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