石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

87 越後の石工・太良兵衛の石仏(後)

2014-09-16 05:42:43 | 石工

夜通し降り続けた雨が上がって、旅館を出る頃は快晴だった。

ひたすら三国(さぐり)川沿いに上流へ向かう。

三国川ダムの堰堤に立つと谷筋のようすがよく分かる。

よく分かる、と言っても見えるのは、最奥の集落・清水瀬だけ。

張り出した山と山の向こうに、これから行く舞台集落が見えるが、その向こうに広がっているはずの六日町市街は見えません。

幾重にも左右から山がせり出すということは、多くの沢が流れ込むことであり、「多い」=「五十」で、五十沢(いかざわ)という地名になった。

水が豊富だからダムが建設されたのだが、なんと石も豊富な土地なのです。

堰堤からダム湖を見下ろすと、コンクリートのはずが石垣になっている。

あり余る石を使っての、流行りことばで云えば「地産地消」。

太良兵衛も石材には苦労しなかったはずです。

①石仏・石碑(野中の観音堂)

ダムから下って、新清水瀬橋を渡るとそこが野中集落。

無人野菜販売所に老女が3人。

「観音堂はどこ?」と訊くが、「知らない」とそっけない。

何度とかやり取りしていると「観音堂は知らないが、観音さんなら知ってる」ことが分かってきた。

「頭の固いばばあは嫌いだ」と心の中で悪態をつきながら「観音さん」に向かう。

30mも離れてないすぐ裏手が観音さんだった。

田んぼに向かって石造物が2列に並んでいる。

現場にいるときは知らなかったので、アップを撮ってなかったが、どうやら後列右から3番目が太良兵衛作品らしい。

しかし、アップにしたところで、文字が読めるはずもなく、無意味なような気がする。

帰りに無人野菜販売所を覗いたが、誰もいなかった。

ナスを買って、100円を籠へ。

売り手の「頭は固かった」けれど、ナスは柔らかくてうまかった。

2 二十三夜塔、蠶霊大神(舞台入口)

野中から下ってゆくと「舞台入口」の標識がある。

その少し先に4基の石塔。

3基は二十三夜塔で、1基が蠶霊大神。

二十三夜塔の真ん中は、畦地観音堂の二十三夜塔に文字が似ている。

養徳寺住職・専頂代の書ではないか。

蠶霊大神があるということは、養蚕もしていたことになる。

農地が狭いから、林業も養蚕も機織りも何でもやらなければ、生活が成り立たなかった。

石工専業の太良兵衛は珍しい存在だったことになる。

4基とも太良兵衛の作品だが、当然だろう、なにしろこの左上に彼の家があるのだから。

集落全部が小高い丘にあるから「舞台」というのだそうだ。

 墓地の背後、丘陵の集落が舞台。下を走る道路から家々は見えない。

市の有形文化財に指定されている『大福細工覚帳』は、太良兵衛の家にそのまま残されている。

本物を見たい気持ちは山々なれど、研究者でもない素人がお願いする筋合いでもなさそうなので、子孫が住む家には近寄らなかった。

前回の前篇でも書いたが、太良兵衛は石工として格段に技量が優れているわけではない。

名工で名高い、高遠の守屋貞治などと比較すべくもない。

太良兵衛に存在価値があるとすれば、多作であることとそのすべての記録を残したこと。

では『大福細工覚帳』には、どんなことが書かれていたのだろうか。

曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』に太良兵衛が記録をつけだした文化6年(1849)の、最初の記録があるので、転載しておく。

当然、原本は縦書きです。

なお、〇 一両事也
   ☐ 一分事
   ▲ 一弐朱事
    ● 百文事

文化六年

1 地蔵  一  ●●     舞台    杢右衛門

1 石塔  三   
         ☐●●    畦地新田  七兵衛
1 観音  三

1 石塔  一   ●●●    京岡村   新兵衛

1 観音  一   ●●三十文  水堀    平吉 

1 石塔  一   ●●●●●   長松    五右衛門

1 石塔  二   ●●●●●●   水堀    治郎右衛門

1 石塔  一   ●●五十文  長松    三之助

1 四面石塔 一
          ☐     畦地    久右衛門
1 観音  一

1 観音  一   ●●      同村    太郎助

1 石宮  一   ●●●●●    同村    山ね

1  石塔  二
          ●●●●●●●  清水瀬   清右衛門
1 観音  一

1 石塔  一   ●●●     同村    儀兵衛

1 観音  一   寄進     舞台    長兵衛娘はる

1 石塔  一
          ●●●五十文  同村    吉右衛門
1 観音  一

1 石塔  一   ●●      新屋    太兵衛

1 石塔  一   ●●●      宮村    安佐衛門

1 石垣  一   ●●●     新屋     重兵衛

1 石塔  四
          ●●●●●●    土沢     光明院
1 二十三夜塔 一

1 石塔  二   ●●●●●●    宮村     仙五郎

1 観音  一   ●●五十文   干溝      庄右衛門

1 石塔  一    ●●●     水堀     磯右衛門

1 観音  一    ●●●七十文  畦地新田   清右衛門

1 石塔  一    ●●●     蕨野     助右衛門

1 観音  一    ●●●     一ノ又度   庄蔵

1 石塔  一
          ●●●●●    蕨野      弥右衛門
1 観音  一

1 石宮  一    ●●●●●    野中     林

1 石塔  一
           ●●●     土沢     平治郎
1 地蔵  一

1 観音  一
           ●●●●     舞台    武左エ門
1 地蔵  一

1 石塔  一    ●●●●●     野中    治右衛門

1 道祖神 一    ●●●●     蕨野     弥右衛門娘おとい

1 馬頭観音 一   ●●四十文    舞台    幸右衛門 

1 地蔵  一    ●二十文    同      与左衛門

1 石塔  一    ●八十文    蕨野     太良兵衛

1 石塔  三
           ●●●●●五十文 畦地      孫左衛門
1 観音  一

1 石塔  一     寄進    同村       徳右衛門

1 地蔵  二    ●●十文    清水瀬      松右衛門

1 石塔  一    ●●五十文   中川       利左衛門

太良兵衛が独り立ちした最初の年、制作、販売した基数58基。

1週間に1基強というハイペースです。

40年間の平均ペースは、5日で1基。

果たして独りでやっていたのか、疑問が残る。

石工の仕事は、彫るだけではなく、石材を山から切り出すことも含まれるからです。

ちなみに高遠の名工・守屋貞治の生涯制作点数は336点。

貞治の作品は大型の石仏で芸術色が強いのに対して、太良兵衛作品は小さな半肉彫りや文字塔が多い。

だから、制作しやすいということはあるにしても、生涯3000点という数字は、驚異的だといわねばなりません。

『大福細工覚帳』の特色の一つは、価格が書いてあること。

石工・太良兵衛の年収はどれほどだったのか。

因幡純雄氏の計算によれば、天保3年(1832)の制作点数52点の売り上げは、5両2分400文。(1両が4分、16朱、4000文として計算)

同じ年、塩沢全体の、塩沢縮1万6000反の売り上げは、1万1000両だったから、1反は1両に満たなかったことになる。

一人で、どのくらい織ることができるかと云うと、冬季だけだと1反、通年で3反がいいところだそうだ。

太良兵衛は、機織り人の2倍の収入があったことになります。

 

太良兵衛の墓があると聞き、寄って来た。

「先祖代々の墓」の下に屋号の「吉右衛門」。

吉右衛門は、太良兵衛の父親の名前でもあります。

太良兵衛本人の墓は、家の墓域の背後にせせこましく並ぶ5基の石造物の真ん中。

この墓地で目を引いたのは、石室の六地蔵。

雪に埋もれない配慮でしょうか。

豪雪地帯ならではの石造物です。

3 石宮、猿田彦像(宮の坂本神社)

 境内片隅に4基の石造物。

左は大小の石宮。

とりわけ小さい石宮は、まるで素人の作品みたいだが、れっきとした太良兵衛作。

裏に刻されたマークが彼の作品であることを物語っています。

「素朴な 」という形容詞は、この石宮のためのことば、と云いたいくらいです。

猿田彦像は、曽根原氏の見立て。

「役行者像ではないかと思ったが、上部に雲形が刻んであるので、すぐ猿田彦の石像と分かった。猿田彦は、天孫降臨の際天照大神を案内した神であるから、日本人にとっては、なじみ深い神であるが、石に彫ったものは、ほとんど見られない。多作の太良兵衛にしても、猿田彦像はこの一体しかつくっていない。」(『太良兵衛の石仏P188』)

4 二十三夜塔、石橋(田崎の日吉神社)

 五十沢から昔の隣村、城内地区へ。

石工としての年を経るごとに、太良兵衛の顧客範囲は広がって行った。

五百沢村外の初めての注文は、隣村の城内村からだった。

城内・田崎の日吉神社には、太良兵衛作の他に、注目すべき作品がある

上の写真で中央に位置する鳥居がその注目石造物。

曽根原氏によれば、太良兵衛の父吉右衛門の造立したものという。

曽根原氏もその出所を明示していないので、定かではないが。

父吉右衛門は、高遠の旅稼ぎ石工だった。

その腕を見込まれ、舞台の大塚家に婿入りし、地つきの石工になった。

この写真では見にくいが、鳥居の奥の石橋は、太良兵衛の作。

この石橋は人しか渡れないからそのまま残っているが、車が通れる石橋は、石工の計算以上の重量に堪えられず、折れたり、へこんだり、使用不能になってしまっているのが多い。

すっきりと洒脱、太良兵衛の持ち味か。

左の燈籠と狛犬の奥の二十三夜塔も太良兵衛作。

裏の印がその証拠。



 こんなにはっきり見えるのも珍しい。

それにしても二十三夜塔の書体は、養徳寺住職専頂代のものではないだろうか。

養徳寺前の二十三夜塔の書を、その後もあちこちで流用しているように思われる。

5 百八十八番供養塔(田崎の亀福寺)

亀福寺の本堂が、私は好きだ。

火灯窓があるので、禅寺かと思ったが真言宗寺院だった。

軒下に冬用の薪がうず高く積み重ねられている。(写真では、日陰になって見えにくい)

無数の丸い年輪は、まるでデザイン画のよう。

その亀福寺への参道わきに立つのが、百八十八番供養塔。

 

「四国、西国、坂東、秩父供養 法印泉能」と刻されている。

「台石は畦地石」と『大福細工覚帳』に書いてあるという。

江戸時代後期、経済的余力のある庶民はやたら旅に出始めた。

太良兵衛もその一人。

彼は、生涯に3度、おおきな旅をしている。

最初は、文政10年(1827)、太良兵衛38歳の時で、伊勢神宮から大峯山へ入り、大坂、京都を観光して帰国。

二度目は富士登山。

小川養徳寺の隠居坊主能寿師と富士山に登り、その後、秩父霊場を巡り、江の島、鎌倉、江戸、日光を遊山しています。齢55歳でした。

最後は、弘化4年(1847)の善光寺参り、この翌年、逝去。

太良兵衛は、旅の記録を残してはいない。

以上3度の旅は、蔵書の裏書の購入場所からの推定。

もしかしたら、もっと旅に出ているのかもしれません。

6 地蔵座像(藤原の墓地)

 広大な水田をバックにデンとお地蔵さんが座して在す。

文政3年(1820)、太良兵衛31歳の作品。

逆光で、私のカメラ技術では、顔の表情まで捉えられない。

ふっくらとした丸顔に穏やかな顔立ちは、太良兵衛に違いない。

印も見える。

太良兵衛は、地蔵を533点制作している。

二世安楽を願う人々の気持ちがいかに強かったか、その反映と云えなくもない。

ちなみに一番多いのは、如意輪観音で、731点だった。

7 二十三夜塔(下原の集会場)

 集会場の小屋の後ろに、大きな体を小さくして居心地悪そうに佇んでいる。

曽根原氏の『太良兵衛の石仏』には、四辻の一角に立っているとある。

『太良兵衛の石仏』は、1971年刊。

43年も経てば、有為転変は当然、四辻からここに移転してきたらしい。

文字はこれまた養徳寺住職泉頂代の書。

変わっているのは、上部に勢至菩薩が浮彫されていること。

元々は彩色されていたようで、朱色がかすかに残っている。

石塔の大きさから、この地での二十三夜講の賑わいが偲ばれる。

 

8 千部塔(長森の善照庵)

向こうの朱色の屋根が善照庵。

長い参道入口左に「法花千部塔」は立っています。

千部塔とは、大乗妙典(華厳経、大集経、般若経、法華経、 涅槃経)を一千部読誦した供養塔のこと。

台座の刻字は「経曰若有聞法者無一不成仏」。

太良兵衛の『大福細工覚帳』には、この塔の細工日数126日と記載されているとは、曽根原氏の言。

多作の太良兵衛にしては、手間暇がかかりすぎているようだが・・・

寺の赤い屋根が見える写真に戻ってほしい。

塔の下の花立は、太良兵衛が寄進したものだそうです。

 

以上で、太良兵衛の石仏紹介は終わり。

短い滞在時間の中で、これだけ見て回れたのは、市役所から提供された克明な資料があったからです。

改めて、南魚沼市社会教育課文化振興係の担当者にお礼申し上げます。

太良兵衛が石工として活動した江戸後期は、天災による慢性的飢饉が人々を苦しめていました。

しかし、それでも全体的には庶民の懐は緩やかに上昇し続けていました。

土葬の上に自然石を置く墓から石柱墓標や石仏墓標への移行は、庶民の経済的余裕の現れでした。

『太良兵衛の石仏と六日町の近世』の筆者、因幡純雄氏によれば、五十沢地区畦地集落の場合、太良兵衛の現役40年間に畦地からの注文は118点、畦地の戸数は30軒ですから、1軒あたり4点、つまり10年に1点は各家から注文があったことになります。

石造物の寿命を考えると、前のがなくなったから、ではなく、新たな追加注文であり、そこには庶民の豊かな台所事情と信仰心の篤さが伺えます。

こうして越後の農村の台所事情が、石造物を通して、具体的に知ることができるのも、太良兵衛が制作ノート『大福細工覚帳』を残したからでした。

六日町の産業史の貴重な史料として、「大福細工覚帳」は南魚沼市の文化財として指定され、太良兵衛の子孫・大塚家に保管されています。

原本の管理は厳重にする一方、『大福細工覚帳』の原本コピーを市立図書館で自由に閲覧できるようにしてはどうか、これは私のささやかな提案です。

自由な閲覧は、太良兵衛石仏への興味関心を広げ、研究の深度を「深める」ことになると思うからです。

 ≪参考図書≫

☐曽根原駿吉郎『太良兵衛の石仏』講談社 昭和46年

☐新潟県立歴史博物館『石仏の力』平成25年

▽駒形宏「太良兵衛の石仏を尋ね歩いて」(1)(2)

▽因幡純雄「太良兵衛の石仏と六日町の近世」

▽池内紀「かくれ里」

*▽はいずれも掲載誌失念。


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