石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

54 那須の多頭馬頭観音

2013-05-01 05:43:11 | 馬頭観音

情報化社会下の現代人の不幸は、何を見ても驚かないことだろう。

事前に写真やビデオで見ているから、現場では初めて見る気がしない。

でも、去年の秋、木曽の開田高原ではびっくりした。

頭が二つも、三つもある馬頭観音を、初めて見たからです。

  

                    木曽町開田高原の多頭馬頭観音

頭が三つと云っても儀軌にある三面馬頭観音ではなく、観音様の頭の上に馬の首が並ぶもの。

帰宅してから調べてみたら、開田高原の多頭馬頭観音は有名で、知らなかったのが不思議なくらいでした。

この時、同時に知ったのは、同じ多頭馬頭観音が那須地方にもあると云う事。

ならば行って見なくては、と4月中旬、車で出かけた。

東北自動車道を矢板ICで降りる。

矢板から那須まで一般道を走り、どこから多頭馬頭観音が出始めるのかを確認したい為。

まず、向かったのが矢板市上伊佐野にある矢板市郷土資料館。

    矢板市郷土資料館

ここで『矢板の石仏と塔碑(矢板市教育委員会)』を購入。

開いて見て、郷土資料館の敷地にも石仏があることを知る。

早速、行って見る。

昔の塩原への街道に面した土手に石仏群がある。

廿三夜塔や庚申塔に交じって、半数は馬頭観音。

文字塔と像塔の割合は、半分ずつくらい。

文字塔には「牡馬頭観世音、牝馬頭観世音」と刻した碑があり、像塔には寒念仏供養塔を兼ねたものがある。

 

「牡馬頭観世音 牝馬頭観世音」       寒念仏供養塔の馬頭観音

文字塔でも像塔でも、施主名と像立年月はきちんと銘記されているが、肝心の多頭馬頭観音はなし。

 

64基もの馬頭観音が一か所にあると聞き、平野集落へ。

集落の入り口の道路際の広場に馬頭観音が一列に整列している。

         矢板市平野東野の馬頭観音群

大半は文字塔で「馬頭観音」か「馬頭尊」。

像塔は64基中、わずか5基を数えるのみ。

1基「牛頭尊」があり、異彩を放っている。

昭和51年10月という設立念時は、64基中最も新しい。

解説板によると、この道は塩原、会津への道筋で、木材運搬に馬たちは従事していたらしい。

昭和50年代にはトラック輸送が主流となり、馬は皆無となって、飼育されるのは牛だけになっていたはずである。

この道筋には、何カ所もこうした馬頭観音群があるというので、進んで見る。

500mも行かない場所に、それはあった。

二股分岐点に20基ほどの馬頭観音群。

          矢板市平野上坪

中央の像塔の他は全部文字塔ばかり。

当然、多頭馬頭観音はありません。

 

ここらで馬頭観音について復習をしておこう。

馬頭観世音菩薩は、仏教における六観音の一つ。

六道のうち畜生道に配されるので、馬の無病息災を祈願し、死馬を供養する仏とされるが、本来は人間の守護仏で、儀軌の三面憤怒身はその呪力の強力なることの表現だとされています。

しかし、石仏としては、こうした憤怒馬頭観音像はごく少数で、温和な慈悲菩薩相馬頭観音が圧倒的に多いのです。

 

 三面忿怒馬頭観音 大円寺(杉並区)   慈悲菩薩相馬頭観音 岩屋堂観音(本庄市)                

これは、近世以降、馬が農耕や運搬に重要な存在となると、日本古来からの作神としての馬信仰が仏教本来の教義から逸脱した民間信仰としての馬頭観音信仰へと発展したことを表しています。

石仏として像立され始めるのは、近世中期。

死馬の墓標として造立されるようになります。

場所は、馬捨て場、血取り場、峠や山道、村はずれの追分など。

初期は像塔が多いが、次第に文字塔に移り変わってゆく。

ピークは明治時代。

大正、昭和になっても造立されるが、昭和も30年代の車時代到来と同時に馬が激減、馬頭観音造立も皆無となる。

開発ブームとともに邪魔者となった石仏は、一か所に集められることに。

こうした石仏群としては、馬頭観音が圧倒的に多い。

ちなみに矢板市では、地蔵208、十九夜塔82、庚申塔74基に対して馬頭観音363基とダントツの一位。

 

矢板市から県道30号線を走り、那須塩原市に入る。

那須塩原市に入ってすぐ左の嶽山箒根神社へ。

神社前に馬頭観音群がある。

  

            嶽山箒根神社前(那須塩原市)

きちんと整列した石仏の前には、道路。

道路の向こうには水田が広がり、右手奥には集落が見える。

生前、どの馬もこの道を行き来していたのではないか。

石仏群の横に、ひときわ大きな石碑。

「愛馬之碑」とある。

さらにその横にちょっと離れて庚申塔が1基。

像塔と文字塔が半分ずつくらいか。

文字塔には、「馬力神」や「先馬代々馬頭尊」がある。

「馬力神」は、力強い馬を讃えて神の字を贈ったものという。

「馬頭観世音」、「馬頭尊」以外のこうした文字塔については、後でまとめて表示します。 

ここまで目的とする多頭馬頭観音は見かけない。

 

午後1時過ぎ、ポツンと佇む蕎麦屋で昼食。

勘定をしながら「ここはどこか?」と訊く。

「高林」という地名を耳にしながら車を走らせたら、左手に石碑があるのに気付いてストップ。

馬小屋でもあったのだろうか、それらしき広がりの奥に2基の石碑が立っている。

近づいて見たら、探していた三頭馬頭観音だった。

 

馬頭観音だから、馬頭を頭上に頂くのは当然だが、普通は一馬頭のみ。

複数の馬頭を乗せるのは、事故か病気で一度に2頭も3頭も亡くした場合だと言われている。

ほのぼのしたデザインの蔭に飼主の悲痛な思いが込められているのです。

 

この後のことは思い出したくもない。

馬頭観音群があるという場所を2,3か所探すも見つけられない。

標識がない上に、訊きたいけれど人影は見当たらないからまったくのお手上げ。

気が付いたらいつの間にか、那須町へ入り込んでいた。

偶然見つけた馬頭観音を撮っていたらお年寄りが来て、立ち話。

 

自分の家の馬頭観音だが、明治のころのことで、馬の死因は分からないとのこと。

「ここへ行けば馬頭観音が沢山あるよ」と親切に教えてくれた。

言われたとおりに?行って見るが、行きつけない。

右左折を一本間違うととんでもない方向に行ってしまう。

茫漠たる荒野の中で途方に暮れて、この日は終わり。

雨が降り出した。

弱り目にたたり目とは、このことか。

 かつての馬の放牧場。場所がどこか、まったく不明

 

翌朝、5時半起床。

ペンションの朝食は8時半からだというので、車で出かける。

目的地は、小深堀地区。

石仏愛好家の間では、「馬頭観音通り」で知られる名所。

道路際に馬頭観音が群れを成しているから、昨日のようなことはなくすぐ分かるはずと思っていたが、その通りだった。

最初の群は、火の見櫓の下に20基ほどが雑然と座していらっしゃった。

         那須町小深掘

 20基のうち8基が多頭馬頭観音で、内訳は3馬頭が5基、5馬頭が2基、7馬頭が1基。

細長い自然石に草書体で「馬頭観世音」と刻し、上に3馬頭を配する優雅な石碑がある。

5馬頭の1基は、慶応4年造立で、7馬頭は文久2年とある。

 

何があったのだろう。

全財産を失う悲劇から馬主は立ち直れたのだろうか。

文字碑にも面白いのがある。

「馬頭観世音」の併記は、2馬頭と同意義ということだろう。馬頭観音群の前は牧場で、柵で囲ってある。

 柵の向こうは馬房のようだが、馬の代わりに車が入っていた。

 

次の群は100メートルも離れてなく、あった。

駆けあがりの裾に煤けた感じで一列に並んでいる。

 

       那須町小深堀

向こうに鯉のぼりが見える。

マンションのベランダから垂れ下がっている鯉のぼりを見慣れた目には、広大な屋敷にへんぽんと翻る姿は鯉のぼりのイメージそのもの。

 単頭馬から7頭馬まであるが、7頭馬頭観音は「馬」の文字が7個並ぶというユニークなもの。

 「馬」を頭にした7頭馬頭観音

 ここにも「馬頭観音」併記の文字塔がある。

 

 草書体馬頭観音併記の墓標

変わっているのは双体馬頭観音があること。

 

      双体馬頭観音

双頭馬頭観音ではなく、双体にしたのは何故だろう。

横並び思想が強い水田単作地帯に比べて、馬農家には個性の強い施主がいたようだ。

馬への愛情の強さを競い合った結果の表現に思える。

線彫りの馬もいる。

     線彫り馬の馬頭観音

風雨に晒されてすっかり色が落ちてしまっているけれど、元は鮮やかな朱色だったはずである。

晴天を祈願して朱色に塗ったと伝えられている。

これが黒だと雨を祈願するのだそうだ。

簡単な線画のようだが、躍動感溢れる佳品だ。

像塔は江戸期の造立が多く、文字塔は明治以降が多いが、ここの文字塔には馬の名前を彫ったものが散見できる。

 

これも馬主の愛情表現なのです。

 

小深堀から大深堀へ。

桜の古木があり、その下に22基の馬頭観音がいらっしゃる。

 

           那須町大深堀

念仏塔と庚申塔がひと際大きく、馬頭観音は小さいのばかり。

黒っぽいのは、野焼きの痕。

22基の内訳は、単頭2、双頭5,3頭7、4頭1,5頭6、馬の浮彫1。

文字塔はない。

いかにも那須の馬頭観音群らしい。

単頭の1基は、朱色がまだ少し残っている。

元はみんな朱色だった。

華やかだったにちがいない。

5頭の頭の配置がそれぞれ異なるのも面白い。

  

 

他と同じようにしようという配慮はないようだ。

むしろ他と違う独自色を模索しているかに見える。

唯一の馬の浮彫は、種付馬。

「種馬幸雲號」と名刻されている。

 種馬だから別格扱いなのだろう。

石工は似せるのに苦労したに違いない。

 上手くはないが、躍動感がある。

 

地図に「生駒神社」があるので、探しさがして行って見る。

長い参道の曲がり角に馬頭観音碑が5基。

  石碑の右の道路の奥が神社

「馬」文字頭もある。

本殿周りにはもっとたくさんあるかと期待していたが、何もない。

    生駒神社(那須町小深堀)

最盛期には馬を連れて参拝したのだろう、それらしい広場がポカンと広がっていた。

 

ペンションに戻り、朝食を食べる。

9時、さて、どこに行こうか。

昨日、行き着けなかった場所をもう一度トライすることにして、教えてくれた老人の家を尋ねる。

道筋を再確認して慎重に雑木林の中を進む。

人家は一軒もない。

こんな所に馬頭観音群があるのだろうかといぶかり始めていたら、あった。

道路際の広場に面して、32基の馬頭観音がひっそりと佇んでいた。

   馬頭観音群(那須町高久乙のどこか)

文字塔はたった1基、大半は像塔です。

単頭5、双頭4、3頭10、4頭2、5頭8、不明1(上部破損で)、文字塔1。

なぜか聖観音立像が1体いらっしゃる。

 

     聖観音           

馬というよりは、ネズミに見える石碑もある。

倒れたり、苔が生えたりしてはいないのは、定期的に管理する人がいるからだろう。

 

念願果たせて大満足。

集落まで下りて、農作業中の人に話を聞く。

戦前は軍馬の放牧場が近くにあり、各農家でも数頭の馬を飼っていたとのこと。

朝、放牧場まで連れて行って放し、夕方、連れ戻すのだが、利口な馬はさっさと家に帰って来ていたそうだ。

那須地方は火山灰土で地味が悪く、今は農業技術の躍進で田畑も開墾されているが、戦前は放牧場としてしか価値がなかった。

農家にとっては馬の飼育だけが現金収入の唯一の手段だったわけです。

馬は大切な財産で、大切に飼育し、死ねば石碑を建てて供養したので、馬頭観音碑は増えるばかり。

だから、馬頭観音群はあちこちにある、というので、一か所教えてもらう。

今回も途中で道を誤ったようだ。

何キロも走りまわって、馬頭観音群にぶつかったが多分、教えてもらった群ではないだろう。

三差路の角、畑をバックに松並木の下に整然と並んでいた。

  馬頭観音群(那須町高久乙)

ここの特徴は、5頭以上の多頭馬頭観音が多いこと。

なんと10馬頭や12馬頭馬頭観音がおわす。

 

   10頭馬頭観音             12頭馬頭観音

馬頭観音1万5000基を調査した栗田直次郎『馬と石造馬頭観音』でも、9頭馬頭観音を珍しいと紹介しているのだから、これは新発見か。

ここにも「牛頭観世音」が見える。

    牛頭観世音

昭和54年造立だから、この中では最も新しい。

世の中は広い。

像塔の「牛頭観音」もある。

私が見たのは、長野県松本市山辺。

    角のある牛頭観音(松本市山辺)

耳が4つある変わった馬頭観音だと思っていたら、上の二つは耳ではなく、角だとのこと。

だから、馬ではなく、牛だというのだが、石工がへたくそで牛に見えないのが惜しい。

横道にそれたついでに言うと、「豚頭観音」があるということで、所沢まで出かけたことがある。

探しても見当たらない。

畑の区画整理で邪魔になり、2か月前廃棄したということだった。

「豚頭観音」は、他にもあるようだが、まだ確認していない。

 

那須の多頭馬頭観音を見たいという願望は、これで果たせたことになる。

まだ探せばいくらでもあるだろうが、私はこれで大満足。

那須町役場で教育委員会発行の『那須の石仏』でも入手して帰るつもりで、役場のある黒田原を目指す。

途中、道路際に石仏群があるので、急停車。

  道路際の馬頭観音群(那須町寺個丙)

全部、馬頭観音で、7「馬」文字馬頭観音も7頭馬頭観音もある。

 

   7馬馬頭観音                 7頭馬頭観音

これが昨日だったら興奮しただろうが、今日は落ち着いたもの。

我ながら感情の起伏の激しさに驚いてしまう。

この場所は、神社の跡地なのだろうか。

少し奥まった場所に笹と縄で囲われて、馬頭観音が2基おわす。

 黒田原に着いたが、役場に直行せず「長久寺」へ。

   長久寺(那須町豊原甲)

資料では馬頭観音群があると書いてある。

山門を入って右に石仏が列を成している。

夜待塔や庚申塔、地蔵などもあるが、馬頭観音が圧倒的に多い。

先に挙げた栗田直次郎『馬と石像馬頭観音』で紹介されていた9頭馬頭観音がある。

 

 9頭馬頭観音            彩色馬頭観音

色彩馬頭観音がきれいだ。

昔は、みんなこんなに色鮮やかに立っていらっしゃった筈である。

こちらは 川越市で見かけた彩色馬頭観音。

 彩色馬頭観音(川越市)

土地は変われども、朱色は同じようだ。

石仏群の一番奥にひと際大きく聳えるのは「産馬大神」。

墓標として使われる「馬頭観音」や「馬頭尊」に対して、馬を神として敬う言葉がある。

「産馬大神」もその一つで、財産である仔馬の安産を祈願する神。

那須塩原市の嶽山箒根神社前の馬頭観音群の中にあった「馬力神」も馬を神としている。

    馬力神(那須塩原市)

「馬力神」はあちこちでよく見かける神だ。

 

  馬力神(大田原市)     馬力神(太子町)

那須町高久乙にあるのは「 生駒大神」。

矢板市玉田の生駒神社が本宮で、生駒講が各地にあり、代参する風習があった。

 生駒大神(那須町)

「生馬大神」があるのは、佐野市田沼町。

 生馬大神(佐野市)

 太子町には「生馬大神」から「生」を取った「馬大神」と、「大」を取った「生馬神」がある。

 

 馬大神(太子町)       生馬大神(太子町)

いずれも個人ではなく、地域の人たちが集まって造立するもの。

「勝善神」もよく見かける。

   勝善神(矢板市)

名馬の誕生を祈願するもので、岩手県水沢の駒が岳にある駒形神社が本宮。

勝善(しょうぜん)は蒼前(そうぜん)のなまり。

蒼前とは、膝から下が白い葦毛の馬のこと。

葦毛の馬は八歳になると白馬になると信じられ、名馬誕生を祈願した。(中島昭『おおひらの野仏』より)

「馬頭大士」の「大士」は、仏、菩薩の尊称だから、「馬頭観音菩薩」の意。

 馬頭大士(高崎市倉淵町)

「馬櫪尊」の馬櫪は、馬の飼い葉桶を指す。

 馬櫪神(那須町高瀬) はっきりしないが『芦野の石仏』にはそう書いてある。

この他、「馬頭大神」、「白馬大士」、「駒形霊王」、「駒形大明神」等など多種多様な表現がある。(栗田直次郎『馬と石像馬頭観音』より)

 回り道をした。

長久寺から那須町役場へ。

教育委員会を尋ねたが、石仏のことは芦野の「那須歴史探訪館」で訊いてほしいとのこと。

再び芦野へと車を走らせる。

「那須歴史探訪館」は総ガラス張りの超モダンな建物。

    那須町歴史探訪館

歴史探訪館が出版した『芦野の石造物』はあるのだが、個々の石造物の場所が記載されていない。

場所を明記すると文化財が盗難に遭う恐れがあるので、あえて書いてないのだと説明を受けた。

興味ある石造物がいくつかあるのだが、場所が分からないのでは探しようがない。

仕方なく、寺まわりをすることに。

最初に訪れた「三光寺」の駐車場に石碑が3本立っていた。

中が「生馬大神」、向かって右が「征馬大神」。

「征馬大神」には、昭和13年、軍馬として徴用された91頭の馬名と飼主の名が刻まれている。

昭和13年は、私の生まれた年だから、75年前のことになる。

軍馬に関する石碑も多いので、ここで少し紹介しておく。

昭和13年は、日中戦争が始まっていた。

私の家から近くのお寺には、「日支事変軍用馬」の供養塔がある。

       寿徳寺(北区)

変わっているのは、馬だけではなく、「頭鳩犬戦傷病亡」と彫ってあること。

「軍馬之碑」や「出征軍馬忠霊碑」なと゛戦争を特定しないものは良く見かけるが、「日露戦役軍馬之霊」と限定するのは珍しい。

  西林寺(佐野市)

塩尻市の観音堂には、日清、日露両戦役で戦死した軍馬供養の「征清軍馬之碑」と「征露戦死軍馬碑」とがある。

 

 征清軍馬之碑 (塩尻市)                征露戦死軍馬碑(塩尻市)

厚木市の飯山観音には「為農耕馬出征軍馬供養」と刻した石碑がある。

 

     飯山観音(厚木市

農耕にともに汗を流した愛馬が軍馬として徴用され戦死した、そのことを悼む供養塔だが、設立者は北海道根室国野付郡別海村の個人。

北海道の人がなぜ厚木市の寺に供養塔を建てたのか、その理由は分からない。

この他、軍馬供養塔としては、「軍馬忠霊之碑」、「軍馬霊祭碑」、「軍馬之供養塔」、「軍馬慰霊碑」、「軍馬碑」、「愛馬碑」などが各地に散見される。

これで、那須の多頭馬頭観音巡りと馬頭観音の異称、軍馬供養塔のあれこれについての報告を終える。

多頭馬頭観音めぐりが大雑把で、いい加減過ぎた。

反省しています。

 

最後に一言。

私が好きな馬の石碑が2基ある。

一つは、埼玉県富士見市の観音堂境内に立つ馬頭観音供養塔。

  観音堂(富士見市)

稚拙ながら飼主の愛馬心が迸っている像塔です。

六地蔵のとなりに小さな板碑と並んで、元禄から300年間、村の移り変わりを見てきたことになります。

もう一つは、馬方に手綱を引かれる馬。

   猿江稲荷神社(江東区)

馬方と馬、二石が一体となって意味を成す素晴らしい作品で、江東区猿江の「猿江稲荷神社」におわします。

写真の手前にコップなど邪魔なものがあるのは、カギが掛っていてどけることが出来ないから。

以前は境内に野ざらしで立っていたのだが、今回行って見たら、小詞の中に安置されていた。

この写真は、狭い桟の間から撮ったもので、陰影がなく、文字も像もはっきりしない。

貴重な文化財であることは理解しているが、これは少し過保護ではないか。

馬頭観音碑は野仏であるからいい。

盗難を恐れるのなら、レプリカでも仕方ない。

野ざらしに戻してほしいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感動致しました (那須高久甲にて、競走馬の余生牧場のスタッフです)
2015-02-14 19:57:38
那須町高久甲にて、競走馬の余生牧場のスタッフをしております。土橋と申します。
ずっと馬頭観音様を探しておりまして、こちらのブログで那須にこんなにもたくさんあるとはと感動致しました。
ただ場所がどこかがわからず、とても知りたいです。宜しければ、1箇所でも宜しいので、おしえていただけたら、幸いでございます。
どうぞ宜しくお願いいたします。
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すみません、場所不明です (M eichu)
2015-02-15 09:10:13
那須では住所表示がないので、撮影現場の住所は分かりません。一か所、高久丙の那須西郷線の小深堀から大深堀にかけては、道路際にありますから、分かるでしょう。
高久乙の那須ハイランドパークあたりをぐるぐる回って何か所か馬頭観音群に出会いましたが、もう一度行けと云われても無理でしょう。
私が走り回ったのは精々2-3時間のこと。那須にお住まいのようですから、暇を見て探せばいくらでも見つけられると思います。15馬頭、20馬頭などがあったら教えてください。
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