石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

57 佐渡の百万遍供養塔

2013-06-16 00:47:57 | 石碑

 プロフィールにもあるように、私の故郷は佐渡が島です。

5年前、病気治癒祈願のため佐渡八十八カ所を巡ったことが、石仏愛好家の仲間に入るきっかけでした。

この年、春と秋、二度、八十八カ所を回ったのですが、当時の写真ファイルを見ると1回目では石仏の写真はほとんどありません。

興味関心が皆無だったからでしょう。

2回目で、やっと石仏が登場し出します。

そのほとんどは、お地蔵さん。

 普門院(栗野江) 門前の石仏は全部地蔵

 佐渡は、地蔵の島と言われるくらいですから、当然のことです。

聖観音や如意輪観音はほんのわずか、文字塔にいたってはまったく無視されています。

その後、東京と東京周辺の石仏巡りをしながら、庚申塔や月待塔、あるいは馬頭観音など像塔以外に文字塔も沢山あることに気づくことになります。

石仏から石造物へと関心が広がったわけです。

石造物の知識と見聞の広がりとともに、佐渡の石造物の特異性が少し分かるようになりました。

いくつかあるのですが、その一つは「百万遍供養塔」が多いこと。

 浄玄堂(三瀬川) 石塔の8割は百万遍供養塔

 それは、「光明真言百万遍塔」だったり、「念仏百万遍塔」だったりするのですが、そうした石塔が島のあちこちに立っています。

勿論、関東にも百万遍塔はあります。

私のパソコンにも、数基の光明真言百万遍塔とその数倍もの念仏百万遍塔がファイルされています。

 

 針ケ谷墓地(富士見市)       長谷寺(高崎市)  

 光明真言一億万遍供養塔      念仏供養四億百万遍

場所は、関東一円に散らばっていて、光明真言百万遍塔は八王子市、幸手市、八千代市、笠間市、銚子市に、百万遍念仏塔は、松本市、高崎市、東松山市、深谷市、越谷市、横浜市、那須塩原市で見かけました。

でも、その数は、庚申塔などに比べたら100分の1にも満たないでしょう。

私の家があった佐渡の金井町(全島佐渡市になる前の10市町村のうちの一つ。人口7000人強)では、事情が違います。

石造物の第1位は光明真言塔の84、次に庚申塔42、回国供養塔27、念仏塔22、秋葉山塔20、出羽三山供養塔17、如意輪観音15、不動明王14、聖観音12、馬頭観音11、猿田彦11で、断然光明真言塔が多いのです。(『金井町の石仏』より)

 旧金井町の水田地帯に立つ六字名号塔 「南無阿弥陀仏」の右に「念仏一億万遍」、左に「光明真言五千万遍」とある。

ここでおさらい。

百万遍念仏には、念仏の回数が多いほど功徳も大であるという多数作善の思想が背景にあります。

「南無阿弥陀仏」(口唱では「ナンマイダー」)を百万回唱えることで、極楽往生を目指すのが目的で、その方法には①一人が日を限ってその期間内に念仏を百万回唱える、②千十顆の大念珠を念仏講中が車座になって「南無阿弥陀仏」を一唱するごとに一顆を繰り、全員の念仏の総計が百万回に達すれば完了となる、の二通りがあり、百万遍供養塔は、その完了記念として造立されました。

           野浦の百万遍念仏

光明真言百万遍塔もその趣旨と方法は念仏の場合と同様で、ただ唱えるのが「南無阿弥陀仏」ではなく、「オン、アボキャ、ベイロシャナウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン」の陀羅尼。

意味は「大日如来よ、智慧と慈悲をたれてお救いください」。

これを誦すれば、一切の罪障は除かれると信じられました。

中世初期、庶民に広がりつつあった浄土教の念仏専唱に対抗して、庶民にも実践できる伝統仏教の手法として編み出された、と『日本石仏図典』では解説しています。

 

2013年6月上旬、新潟市で行われた佐渡高校の同期会に出席して、翌日、佐渡へ渡りました。

1年半ぶりの帰郷です。

6月の佐渡は、薪能が週末に相次いで催され、カンゾーの花が咲き乱れる最高の観光シーズン。

両津からレンタカーで河崎へ。

予て見たいと念じていた石塔が河崎の菊池家にあるからです。

 途中、石造物群があれば停車、写真を撮る。

両津港から河崎集落まで約5キロ、光明真言百万遍供養塔が3基もあります。

  

 路傍(住吉)光明真言五百万遍    路傍(河崎)百万遍         路傍(河崎)七百万遍

いずれも集落の講中が造立したものです。

500万遍、100万遍、そして700万遍。

仮に35人の講中だとすると700万遍を達成するのにどれほどの日数を要するのでしょうか。

       河崎集落

真言陀羅尼を一回誦するのに6秒かかるとする。

1分で10回、1時間で600回。1日6時間やったとして、3600回。

1日の総回数は、3600×35人=126000回。

700万遍には56日かかることになります。

旧正月の松の内の8日間、集落の35人が真言を唱え続けて7年間でやっと達成される計算です。

記念に供養塔を造立したくなるのも当然でしょう。

 

純粋に死者を悼む光明真言百万遍塔も島内にあります。

小倉の中佐為集落の石塔には「光明真言三百万遍、為餓死百回忌菩提也」と刻してあります。

 

       中佐為の石塔群                    光明真言三百万遍 為餓死百回忌菩提也

宝暦の餓死者を悼んで、百年後の嘉永7年に子孫が建てた供養塔。

宝暦の飢饉での佐渡の死者は約3000人。

とりわけ小倉から猿八にかけては悲惨だったと伝えられています。

 

帰郷の目的の石塔は、河崎の菊池源右衛門家の入り口に2基立っています。

 菊池源右衛門家の2基の石塔(河崎)

右は「南無阿弥陀仏」の利剣名号塔。

        利剣名号塔

このブログの「NO41それは佐渡から始まったー木食弾誓とその後継者たちー」の主人公木食弾誓に関わる石塔で、近く新しい章立てで、この利剣名号塔については書く予定です。

今回の主役は向かって左の石塔。

弥陀名号 光明真言百万遍供養塔

刻文は
「弘化四末年
 弥陀名号一億二十五万千九百遍
 光明真言一千九百十一万九千二百遍
 世話人 安兵衛
 新穂村 五郎左衛門
 国中村々請事」

これは、弘化4年(1847)、一国念仏を催した記録です。

世話人、安兵衛と五郎左衛門の呼びかけで、島内各村々の代表者が一堂に会して総会を開き期日を決めます。

その決めた日には、全島一斉に各村の堂に老若男女が集まり念仏を唱えるのでした。

一億二十五万千九百遍とか一千九百十一万九千二百遍とか、中途半端な数にリアリティがあります。

何人くらいが参加したものでしょうか。

この一国念仏は何回か行われた形跡があります。

村々の念仏講は、コミュニケーションや娯楽の場として機能していましたが、一国念仏はやや色彩を異にしていました。

念仏に名を借りた、数にものを言わせる集団示威行動だったのです。

デモの相手は、相川奉行所。

奉行所の、ひいては幕府の、圧政や一揆のリーダーの厳罰に対する無言の集団的抗議行動でした。

一揆の指導者として一身を犠牲にした義民を悼むこうした風潮は、佐渡全域で長い間、見られました。

今でも旧正月に大数珠を使って行う真更川の百万遍念仏では、その終わりの言葉に義民の名前が登場します。

         百万遍念仏(真更川)

 「南無地蔵大菩薩さん お大師さん たんせい(弾誓)上人さん 浄厳上人さん ちゅうそうかいさん(中興開山) 笠掛澄心さん 山居のにょれい(如来?)さま 上山田の善兵衛さん 長谷の遍照坊さん 一日から三十日(みそか)までのご精霊さま なんまいだー なんまいだー」

 

   善兵衛の墓(上山田)                   智専(法印憲盛)が住職をしていた寺・遍照坊(長谷)

上山田の善兵衛は、天保9年(1838)の佐渡一国一揆の、そして長谷の遍照坊は、明和5年(1768)の明和一揆の指導者。

遍照坊だけは、処刑されています。

彼の戒名は「憲盛法印」。

佐渡には、憲盛法印供養塔があちこちにあります。

何度かの一国一揆のリーダーの中でも、とりわけ罪を一身に背負って処刑された犠牲者のイメージが高いからでしょうか。

百万遍供養塔にも法印憲盛の戒名が付いているものが見られます。

 

 奉唱光明真言一千万遍      為法印憲盛(拡大)
 
為法印憲盛菩提(大和田薬師)

 

 堂(千種・本屋敷)           為法印憲盛菩提(拡大)

自らの極楽浄土での安楽を願いながら、併せて、、憲盛法印の霊を悼んで念仏を繰り返すのでした。

 

明和一揆の前年は、虫害がひどい年でした。

「七月下旬より外海府より始まり、稲に見慣れぬ虫つき国中残らず、見事なる稲もことごとく痛み申し候」。(『三国辰雄家記録』)

虫害がひどいので年貢米を減免してほしいというのが一揆の訴状の内容の一部でもありました。

「村中老若男女共、残らず毎日念仏真言三昧、田畑の畔に鐘を打ち、念仏真言唱え廻り申し候」。

鐘を叩いて村の田を回る虫送りは、7月の佐渡の風物詩でした。

  虫送り(京都市のHPから無断転載)

その虫送りの行事も、明和一揆の原因が虫害であったことに因み、その後、法印憲盛の供養を兼ねる行事となって行きます。

 

私の頭には「しんごんをくる」という言葉が、片隅にあります。

「くる」は、「数珠を繰る」の「繰る」でしょう。

真言を誦しながら数珠を繰るーこれは百万遍念仏の情景でもあります。

東京では無縁の言葉なので、子供のころ佐渡で覚えた言葉に違いありません。

しかし、佐渡も国中の村では、昭和20年代、すでに百万遍念仏は廃れていました。

私は行事としての百万遍念仏を見たことがありません。

でも言葉として残っているのだから、面白い。

 

真更川の百万遍念仏は、2月の風物詩としてよくテレビニュースに登場します。

 百万遍念仏(真更川) 30キロはある大数珠を持ちまわりながら念仏を唱える。

ニュースになる位だから、佐渡の百万遍念仏は真更川にしか、もはや残っていなくなったのだろう、なんとなくそう思っていました。

ところがそうではないらしいのです。

佐渡博物館に勤務していた、ということは佐渡の歴史・民俗の専門家である、高校の友人によれば、国中(佐渡島の中央部)では廃れてしまったが、海岸地帯では今でも百万遍念仏は行われている、とのことです。

新潟日報『佐渡紀行』では、小木の琴浦での百万遍真言を次のように書いています。

カンカンカン トコトコトコ
 鐘と太鼓の音が会場に充満する。
 耳鳴りがするほどだ。
 小木町琴浦地区恒例の百万遍真言が17日に行われた。

 小木・琴浦の百万遍念仏 (新潟日報『佐渡紀行』より)

会場はコンクリート作りの集会場。
38戸の家庭から一人ずつが参加する。
主におばあちゃんたち。
鐘のリズムに合わせて一人が「なむあみだぶつ」と唱えながら大きな数珠を繰る。

鐘は1秒に2回ほどのかなり速いテンポだ。
鐘1回で玉を一つ繰る。
玉は全部で1008個あり、これを2周分数えると「1回」になる。
朝から夕方までに24回をこなす。
参加者がたたく鐘の音は約四万八千回に達する。(後略)」

百万遍真言といいながら、「なむあみだぶつ、(実際には、ナンマイダー)」と唱和しているのが面白い。

博物館員の友人も、実際に真言を誦しているところはないのではないか、と見ています。

 

最近の佐渡のニュースと云えば、朱鷺の話題ばかり。

他には佐渡市の財政悪化のニュースでしょうか。

確かに歴史的遺産や文化財保護については、世界遺産を目指す佐渡金山を除いて、お寒い限りです。

その典型例が「佐渡一国義民殿」。

 

   佐渡一国義民殿(畑野・栗野江)

建物の崩壊が進行し、その惨状は目を覆わしむるものがありました。

その建て替えに佐渡市が補助金を出す、などということはありえないので、このまま朽ちてゆくのかなと思っていましたが、明るいニュースが飛び込んできました。

報道したのは、読売新聞(2013年5月20日)。

嬉しいニュースなので、全文を転載しておきます。

ついでに「佐渡義民殿」とは何か、『佐渡相川郷土史事典』からの引用も。

見義不為、無勇也 (ぎをみてなさざるはゆうなきなり)の男たちを輩出し続けた島であることを、島民の一人として誇りに思うのです。

 

佐渡の義民殿 再建目指す…専門学校生ら協力(読売新聞(2013年5月20日)。

江戸期に佐渡島で起きた一揆の主導者ら26人を祭るお堂「佐渡一国義民殿」(新潟県佐渡市栗野江)の荒廃が進んでおり、地元有志らが再建のための寄付を募っている。

 義民の心を後世に伝える「島の宝」として、伝統建築を学ぶ地元専門学校の協力を得ながら、年内の再建を目指す。

 義民殿は、飢饉によって苦しくなった年貢の免税や、佐渡奉行所の不正を訴えて一揆を主導した人々をたたえようと、1937年に島民が寄付金を出し合って建築した。江戸後期の1838年に起きた一揆は、島内最大規模で「佐渡一国騒動」とも呼ばれており、その主導者の中川善兵衛や、「明和の一揆」の智専ら26人が堂内に合祀されている。

 当初は、地域の集会所として使われたり恒例の供養祭が行われたりしたが、風雪にさらされ徐々に荒廃。現在は倒木によって屋根の一部が無残に崩落し、内部も外れた戸や剥がれ落ちた内壁が散らばっている。

 こうした状況に地元住民が心を痛めていたところ、「伝統文化と環境福祉の専門学校」(同市千種)の伝統建築学科・杉崎善次講師が、別の社殿が建築中止になって残った資材を義民殿に寄付すると申し出た。再建は同学科の学生らが実習の一環として手がけるため、宮大工に依頼するより安価で済む見込み。

 義民殿を維持管理する住民団体の土屋隆さん(78)は「これまで直したくてもお金が無くてできず悔しかった。こんな話をもらえるなんて」と感激している。

 再建には解体や建築、周辺整備費用などで600万円が必要で、住民らは寄付金を募ろうと16日、義民殿再建実行委員会(渡辺庚二会長)を設立した。設立総会には、中川善兵衛の6代目の子孫、中川閧雄さん(68)も参加し「今の時代にこうした熱い思いを寄せてくださる皆さんに敬意を表したい」と語った。

 9月から再建工事に着手し、募金は11月まで受け付ける予定。渡辺会長は「妻子ある身で殺されると覚悟しながら一揆の先頭に立つことはなかなかできない。義民殿は、そんな偉大な先人をたたえた島の大切な宝。何とか昔のように立派な姿を再現させたい」と協力を呼び掛けている。

 募金は口座への振り込みなどで受け付ける。問い合わせは同実行委(0259・66・2508)へ

 

佐渡義民殿(さどぎみんでん)

 江戸期の、慶長から天保までの義民のうち、代表的な二六名を合祀した佐渡一国義民堂が、畑野町栗野江の城か平の山頂にある。昭和八年に、島内の百姓一揆を研究し、『佐渡義民伝』を著わし、義民劇の上演などに協力していた新穂村青木の伊藤治一を中心に、一二九名が発起人となって建設が始まり、昭和十二年に落成したものである。島内の農民騒動の発端は、慶長六年(一六○一)に佐渡が徳川家の直轄領と定められ、上杉支配のときから居残った代官の河村彦左衛門に加え、新たに田中清六・中川主税・吉田佐太郎が代官に任命され、四人支配の下に本途(本年貢)の五割増という急激な増税策が出されたのに対して、島の有識者たちが抵抗したことにある。この最初の一揆の結末は、首謀者の新穂村半次郎・北方村豊四郎・羽茂村勘兵衛の三人が江戸に出向いて、幕府に直訴したのが効を奏し、吉田は切腹、中川は免職、河村と田中は改易となり、全面勝訴となったのである。その後一世紀半ほどは、良吏の派遣などもあって平穏であったが、享保四年(一七一九)の定免制(収穫に関係なく定められた年貢を徴集する制度)の実施に伴なう増税に加え、同八年以後の鉱山経営の不振が住民の生活に圧迫を来し、村々の有識者の連帯を強めた。寛延三年(一七五○)の一揆は、そうした背景の中で、辰巳村太郎右衛門・川茂村弥三右衛門らを首謀者として起った。このときも、島ぬけして訴状を江戸の勘定奉行に手渡すことに成功して、幕府は訴状に認められた二八か条の要求の正しさを認めて、佐渡奉行・鈴木九十郎は免職となった。しかし訴人は、他の多くの役人にも非のあることを再度、佐渡奉行・幕府巡見(検)使らに訴えて、諸役人の不正が暴露され、在方役・地方役・米蔵役などに、斬罪一・死罪二・遠島七・重追放三・中追放一・軽追放一・暇五・押込二六・役義取放一・急度叱五の計五二名が刑を受けた。いっぽう訴人の側も刑を受け、太郎右衛門は獄門に、椎泊村弥次右衛門は死罪、椎泊村七左衛門は遠島、弥三右衛門は重追放、吉岡村七郎左衛門・新保村作右衛門・和泉村久兵衛は軽追放のほか、二○八か村の名主が被免、二○○名以上の百姓が急度叱りの処分となった。明和三年(一七六六)から同七年にかけて、大雨による洪水、浮塵子の大発生で中稲・晩稲が全滅状態になったとき、村々ではその実情を立毛検分するよう請願したが、けっきょく四日町・馬場・北村・猿八の四か村に年貢被免、船代・下村・畑方・畑本郷・武井・金丸・金丸本郷の七か村に三分一の未納・年賦・石代納の措置がとられただけで、他の村々には恩恵がなかった。その上、当時は代官制がしかれて、奉行に加え二重支配となったため、願いや届に煩雑なる手数がかかり百姓たちを苦しめた。さらに、代官の下役で年貢米取立ての御蔵奉行谷田又四郎と百姓の間に起きた摩擦がしだいに悪化し、谷田の苛酷さを非難する訴状が佐渡奉行所にもちこまれた。訴状は名主ら村役人たちによってしたためられたが、願いの筋がきき届けられないので、百姓どものこらず御陣屋へ押かけようとするのをなだめすかしたこと、要求がいれられなければ江戸表へまかり出て直訴しなければならないので出判をお渡しくださるようなど書いてある。谷田は、相川金銀山の衰微に伴って、米の消費が減少し、余剰米の大阪回米が市場で不評であり、その佐渡米の商品価値を高めようとして、米質や包装改良を求めて百姓と摩擦を生じたもので、良吏とされた人物であったが、百姓がわでは、それを賄賂をとるためとする誤解が生まれて事件を深めることになった。一揆にいたる前哨戦として、沢根町に相ついで起った付け火が挙げられる。米価の高騰で爆発した相川の鉱山稼ぎの者が、中山峠を越えて沢根方面の富裕な商家を襲ったのであるが、米価の引き下げなどの処置で、この時は大きな騒動にはならなかった。この明和の一揆は、首謀者の呼びかけで、栗野江の賀茂社境内に集結した民衆が、二度めの集結を察知され、六人が捕えられ、成功にいたらなかった。裁きの末、通りすがりにすぎなかった長谷村の遍照坊住職・智専が自ら罪を負う形となって死罪となり、他は牢死・お預け・釈放などの微罪で落着した。智専は「憲盛法印」のおくり名で今も農民の崇敬をうけている。天保九年の全島的な一揆は、島内で最大の規模で起ったので「一国騒動」と呼ばれている。惣代の羽茂郡上山田村の善兵衛を願主とする訴状には、百姓・商人などの要求十六か条が書かれていたが、上訴した巡見使から返答がないまま善兵衛らが捕えられ、善兵衛は獄門に、宮岡豊後の死罪、ほか遠島・所払いなど極めて多数の受刑者やとがめを受けて終った。この天保一揆についての記録としては、江戸末期の川路聖謨奉行による『佐州百姓共騒立ニ付吟味落着一件留』(佐渡高校・舟崎文庫所蔵)があり、同校同窓会が刊行している。

【関連】智専(ちせん)・中川善兵衛(なかがわぜんべえ)
【執筆者】本間雅彦

(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
 
<参考図書>
○田中圭一「地蔵の島・木食の島」
○田中圭一「天領佐渡(2)」刀水書房 1985
○新潟日報「佐渡紀行」恒文社 1995
○こちら佐渡 野浦 情報局http://wind.ap.teacup.com/noura/1995.html

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
憲盛法印供養塔 (ishida)
2014-11-06 16:43:10
私は田中圭一氏の論説を読んでから、今まで持っていた近世の百姓・庶民観がひっくり返りました。無知で貧しく、それ故に素朴な人々が石仏を信仰する…そんな固定観念を解くと見えてくるものが随分違うようになりました。佐渡で明和三年の一揆の事後処理として遍照坊・智専一人が処刑され、その後、虫供養に絡ませた「憲盛法印(智専)供養塔」が百十数基も造立されていることも氏の「村からみた日本史」を読んで知ったことです。義民供養塔って、一応、お上に楯突いて処刑された人物を立派な石碑を造立して供養して幕府は怒らなかったのか不思議ですね~
かつて各地で行われていた虫供養に念仏講系が深く関わるのは、「虫」の大発生は恨みをのんで死んだ怨霊の祟りだと信じられていたからのようで、虫送り行事は亡魂の成仏と退散が目的とのこと。文政期に徳本上人が栃木の壬生藩に請われて出向いた記録がありますが、これも若侍の切腹に絡む怨霊話から「ハリツキ虫」が大量発生して領地が飢饉に陥りそうな為に御霊鎮めを依頼したのが理由でした。近くなら120基と云われる「憲盛法印供養塔」、佐渡中駆け回って見て回りたい所ですが、そうもいきません。
真更川の百万遍念仏の写真に、ど迫力の名号掛け軸が写っていますが凄いですね。
まさか…弾誓派の僧の書では?

返信する
田中圭一さんの授業 (eichu M)
2014-11-07 08:19:15
私は、18歳まで佐渡にいましたが、佐渡一国一揆も憲盛法院も知りませんでした。憲盛法院供養塔は私のいた集落にもありますが、誰からもその意味について教えて貰ったことはありません。高校の日本史で一揆について授業はあったものの佐渡の一揆に話が及ぶことはなかったと思います。私自身の関心事が東京にばかり向いていて、佐渡になかったことが最大の原因ではありますが、もっと佐渡についての教育があったらなあ、と今、思うのです。
そういえば田中圭一さんは高校の教員でした。佐渡庶民史をどのように組み込んで授業をしていたのか、生徒として授業を受けた人たちに話をきいてみるつもりです。
返信する

コメントを投稿