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石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(dアバヤギリ大塔)

2016-01-13 06:52:40 | 遺跡巡り

トゥパーラーマ大塔の北東は、元王宮跡。

いたるところに石柱が立っていて、小さな寺や住まいかあったことを物語っている。

その一角に人だかり。

◇ムーンストーンの傑作

今は廃寺となった僧院前のムーンストーン見物の人たちだった。

彼らが注視しているのは、スリランカNO1と評価の高いムーンストーンの傑作。

外輪には、炎。

次から次へと燃え上がる欲望を表わしている。

その内側の動物は、仏教での「四苦」、生老病死を表わす。

象は「誕生」、馬は「老齢」、ライオンは「病気」、牛は「死」。

その内側のつる草は、人間の欲望を表現し、次なる嘴にハスの花を咥えるガチョウは、啓示を受けて家族と決別するお釈迦さまを表わしているという。

一番内側のハスの花は、最高潮の物欲なんだそうだ。

物欲と四苦、悟るために克服すべきものを視覚的にみせる仏教芸術です。

信者はこのムーンストーンで履物を脱ぐ。

いわば聖俗の、ここが境界線なのです。

 

◇アバヤギリ大塔

本来、旅行日程には、アバヤギリ大塔は入っていなかった。

上座部仏教(小乗仏教)のスリランカにあって、アバヤギリ大塔は大乗仏教の本山だったと聞き、是非、寄って見たいとガイド氏に頼み、訪れた。

思いがけず小奇麗なダーガバ(仏塔)。

一瞬、別の仏塔ではないかと思った。

事前に見た資料写真は、いずれも屋根に草木が生えて、緑色だったからです。

どうやら数年前、ユネスコによる修復が完成して、現在の姿になったらしい。

白い仏塔より、このこげ茶色の方が、落ち着いた雰囲気があって、私的には好み。

アバヤギリの名称は、二人の人物の名前、アバヤとギリからつけたもの。

アバヤは、この大塔を建てた王。

一方、ギリは、タミル軍に追われ放浪中のアバヤ王を侮蔑したジャイナ教の僧侶の名前だった。

紀元前1世紀、14年ぶりに、この地に凱旋した王は、屈辱の報復にジャイナ教寺院を破壊、その地にこの大塔を建てたと伝えられている。

ダーガバは仏塔、大きいダーガバだから大塔なのだが、日本人には寺院の名前がぴったりくるようだ。

アバヤギリ大寺院。

今はキャンディにある「仏歯」も、当時は、1年に3か月間だけここアバヤギリ大寺院に置かれていたという。

「アバヤギリ大塔は大乗仏教の本山」という言い方は、どうやら不正確らしい。

自由で開放的な雰囲気に満ちた大塔寺院は、外国の僧にも門戸を開き、大乗仏教や密教などを積極的に受け入れる寛大さがあったというのが、正解。

アバ゛ヤギリ大塔は、漢字で「無畏山寺」と書く。

5世紀にここに留学し学んだ中国の学僧法顕は、その著書『仏国記』に、無畏山寺には5000人の僧がいたと記録している。

その中には、日本と関係のある不空三蔵もいた。

不空三蔵は、空海の師・恵果の師。

空海が持ち帰った金剛頂経などの密教経典は、不空がアバヤギリ寺院から中国へ持ち込んだものでした。

仏教世界の中心的研究機関であったアバヤギリ僧院も、10世紀末のアヌラーダプラ陥落とともに破壊の限りが尽くされた。

12世紀に再興されるが、その時すでに首都機能はボロンナルワに移転していて、財政的なひっ迫が復興をないがしろにしてしまう。

マハビハラ(上座部仏教)に宗派統一がなされたばかりだったことも大きく影響した。

いくつかの主要施設は再興されたものの、大多数は今も密林の下に眠ったままなのです。

 午後4時、東京ほどではないが、影が長くなって夕方の気配がする。

次の目的地ミヒンタタレー観光があるから、ガイド氏は落ち着かない。

急いで、アヌラーダブラ最後の観光地へと急ぐ。

◇サマーデイ仏像

疎林のなかに、どっしりと仏さまが座しておわす。

 

高さ約2m、3-4世紀に造られたと見られている。

1886年、ここで発見されたときは、地面に横倒しになって鼻が欠けていたという。

「Samadhi」というシンハラ語は、瞑想の意。

右肩を出し、右腕の下から左の肩に衣を懸ける偏袒右肩で、両手は踝の上で掌を上にして重ね、足は右足を上にして胡坐のように座る勇猛座は、スリランカ座像仏の定番スタイル。

欠けていた鼻の修繕が稚拙で、画竜点睛を欠くというのが、美術専門家の意見らしいが、素人目には素晴らしく見える。

純真でピュアな雰囲気が漂っています。

 

実は、アバヤギリ大塔を離れる際、どこか場所は不明なのだが、一体の野仏と出会った。

いつもの癖でパチリと写真に納めはしたが、その氏素性は不明のままだった。

ところが今、資料を読み進めていて「第2サマデイ」の存在に気付いた。

どうやらこの石仏が「セカンドサマディ」のようなのです。

両手は欠損しているが、元の姿を想像しても、手を踝の上におく禅定三昧のサマデイではないように見える。

日本では釈迦如来に固有な印相とされる転法輪印(説法印)ではないか、とは仏教美術専門家の見解。

その印相の仏像が、ルワンウエリ・サーヤ大塔の仏殿にあったので、参考のために載せておきます。

   左の仏像の印相が転法輪印

私の好みでは、「セカンドサマディ」の方がいい。

一切の夾雑物を排して、すっきりと穏やかに、しかも凛として周囲の空気を支配しているそんな感じがします。

 

 ガイド氏に急かされるまま車へ。

次の目的地ミヒンターレへ急ぐ。

だから巨大な水浴場クッタムポクナは車上から撮影しただけ。

ここは僧侶の水浴場だった。

スリランカ人は水浴が好きで、平均一日に3回は体を洗う。

男でも裸にはならない。

サロンで男は腰から下、女は胸から下を覆って、その中で手を入れて洗う。

特に、女性の、サロンを巻いての脱衣の仕方はお見事。

弥次馬のすけべ心が入り込む余地は皆無です。

これはスリランカだけでなく、中近東から東南アジアの広範囲にみられるスタイル。

 1年中暖かいから、お湯に入ることはない。

水なら野外にどこにでもある。

野外では人の目があるから、いつの間にか、脱衣の名人になるのです。

≪次回は、ミヒンタレー≫


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(cルワンウエリ・サーヤ大塔)

2016-01-10 07:22:19 | 遺跡巡り

スリー・マハー菩提寺からルワンウェリ・サーヤ大塔へ。

 

ゴミ一つない道を歩く。

人通りは多いのに、静かだ。

大都市の、世界共通の喧噪を除けば、この国は、静かで穏やかな空気が支配している。

ルワンウエリ・サーヤ大塔

日本の寺ならば、さしずめ山門か。

正面にアヌラーダブラのシンボル、ルワンウエリ・サヤ大塔が聳えている。

その高さ55m、紀元前2世紀造立だが、古さを感じさせないのは、毎年、壁を塗り替えて、純白さを保っているからです。

小人のいるガードストーンを見ながら石段を上がる。

 

上がった広場が仏塔の基壇になっています。

そして基壇の外回りには、象がズラリ。

 

重い仏塔を群象が支えているイメージを作り出しているが、実際に巨大な仏塔の沈下を防ぐには地面を深く掘り下げ、砕石や粘土、鉄の網、樹脂などをきっちり詰め込んで、象に踏み固めさせたと云われている。

つまり象の力なくしてこの塔はありえなかったわけで、こうしたモニュメントがあってもなんら不思議ではないのです。

塔に近づいて、上を見上げる。

塔の先端は、見えない。

「一足分下がって見上げてみて」とガイド氏のことば。

わずか20㎝ほど離れることで、先端が見えるようになる。

「どこでやっても同じこと」だそうだ。

 

仏塔は、もともと釈尊やその高弟の遺骨(舎利)を祀る記念建造物。

スリランカでは、インド、ミャンマー、タイなどと同じくストゥーパ(仏舎利塔)となり、中国、朝鮮、日本では三重塔、五重塔として変化します。

世界中でも、こと仏塔の高さ、巨大さではスリランカが群をぬいている。

どうやらスリランカの人たちは、高い場所に聖なる神秘を感得する性向があるようだ。

大塔の周りは、歩いて回れます。

所々に仏殿があって、各国からの仏像が展示されている。

これはミャンマーからの仏陀像。

塔の内部にも多数の仏像があり、一番中枢の場所は、ローマ皇帝アウグストスに謁見したスリランカ国王の使者がローマから持ち帰った地中海の珊瑚で飾られている、という。

ローマ皇帝の名前なんかが出始めると、つい眉につばしたくなるが、どうやら嘘ではなさそう。

となると、我々はとんでもない遺蹟にいることになり、つい感激してしまう。

何度も繰り返すが、スリランカでは時代の古さを感じ取ることは難しい。

ここルワンワリサーヤ大塔のように毎年塗り替えられているからでもあるが、遺跡がお祈りの場として現役であることも大きい。

毎年塗り替えられているペンキは、大塔のすぐ脇で作られている。

白壁だから、白ければいいと云うものではないんだそうだ。

むしろブルーがかるように仕上げたほうが、塗った時に白く見えるのだそうで、青い貝殻を潰して塗料の材料にするのだという。

塗り替える作業は、僧侶とボランティアの在家信者。

女性は参加できない。

 

急に騒々しくなった、と思ったら、五色の長い布を頭上に掲げて、大勢の人たちが基壇の上を歩いて来る。

人々が集まってきて、布に合掌したりしている。

ガイド氏の説明では、今、塔に巻いてある赤の布を、近く、この五色に代える予定で、村をあげて五色の布を寄進しに来たグループだそうだ。

とにかくスリランカでは、信者たちの寄進行為がすさまじい。

◇トゥパーラーマ大塔

 ルワンウエリ・サーヤ大塔の北500mにある。

アヌラダープラ最古のストゥーパで、釈迦の鎖骨も祀られているのに、ルワンウエリ・サーヤ大塔などよりも重要視されないのは何故なのか。

ガイド氏にうっかり訊き忘れてしまったが、多分、それはルワンウエリ・サーヤ大塔が上座部仏教の本山だったからに違いない。

紀元前1世紀、それまで口伝だった経典をシンハラ語に書き写すという画期的な出来事は、ルワンウエリ・サーヤ大塔で行われた。

タイやミャンマーなどの仏教は、ルワンウエリ・サーヤ大塔の流れを汲んでいる。

トゥーパーラーマ大塔については、もう一つ、疑問がある。

 

釈迦の歯は、キャンデイの「仏歯寺」に国宝並みの扱いで保護されているというのに、釈迦の鎖骨を収めたトゥパーラーマ大塔は、ほとんど注目されることなく、存在している。

 

何故だろうか。

「仏教の教義は、釈迦の言葉で伝えられた。言葉は、口から発せられる」。

だから、「骨よりも歯の方が重視されるのです」とは、ガイド氏の説明。

仮に、彼の説明が正解でも、その差は大きすぎはしないだろうか。

日本にこの舎利があれば、国宝間違いない。

スリランカの仏教遺跡の「凄さ」が垣間見える出来事です。

 

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(bスリー・マハー菩提樹)

2016-01-07 07:23:11 | 遺跡巡り

駐車場で裸足になって、参道を菩提樹に向かって歩く。

犬が2匹、熟睡している。

いや、涅槃する犬というべきか。

犬は悟りを開かない、とは限らないのだから。

問題は、スリランカには涅槃する犬が多すぎること。

 

いつもの癖で、石造物があるとつい無意識にカメラを向けてしまう。

手前に伸びるレンガ壁はかなり古そうだ。

菩提樹がここに植えられたのは、紀元前3世紀のことだから、古さの基準がべらぼうでいつのことか想像もつかない。

ゲート脇の売店。

供花用の花を売っている。

どこかで養殖栽培しているのだろう。

1包み100ルピー(100円弱)。

 

菩提樹は、白壁の建物で囲われている。

もちろんムーンストーンもあるし、

ガードストーンもある。

 

今、気付いたのだが、菩提樹堂の中で、菩提樹を見上げ、祈る信者たちの写真が、ない。

 これは、菩提樹堂を出た場所の写真。

狭い空間なので写真の撮りようがなかった。

暗い部屋にいる信者、明るい樹木、コントラストが激しくて撮影を断念した。

熱心に祈る彼らの姿に気後れして、シャッターを押せなかった。

多分、3つが重なってのことだろうと思う。

弥次馬なりの良心が働いたということか。

なにしろ、ここは、スリランカの聖地中の聖地。

信者たちは、菩提樹に瞑想する仏陀その人を感得しつつ拝み、祈ります。

元はといえば、インドのブッダガヤで瞑想にふける仏陀を、その木蔭で、悟りを開かせやすくした木、それが菩提樹でした。

その菩提樹の分け木をインドのアショーカ王の王女がスリランカに運び、手渡されたデーワーナンピャ・ティッサ王がここに植樹したというわけ。

紀元前3世紀のことです。

菩提樹になじみがない日本人にはピンと来ないが、スリランカの仏教徒にとって、菩提樹は「生きている聖遺物」。

寺院である条件の一つは、境内に菩提樹があること。

仏塔、仏像も不可欠で、この3要素が揃って、初めて寺院と認められるのです。

弥次馬の私が気後れして写真もろくに撮れないほど熱心に祈る人たちは、スリランカ各地から遠路はるばるやってきた巡礼者たち。

徒歩で、あるいはバスで、人家の軒先で横になり、あるいは野宿し、やっと念願の聖樹とご対面できたのですから、真剣にならざるをえない。

本場インドのブッダガヤの菩提樹は枯れてしまって、その遺伝子を残す樹木はこの菩提樹だけといわれています。

2300年もの古木は、大木をイメージさせるが、実際は、今にもポキンと折れそうなほどの幹の細さ。

スリランカの総ての菩提樹は、この聖樹の子孫だと云われているそうだが、なるほど、とへそ曲がりの私でも納得してしまう話です。

 聖なる菩提樹の霊厳は、子授け。

     自らの経験を語るガイドさん

「結婚後7年、子供が生まれなかったのに、ここへきてお祈りしたら、子供を授かった」とそのご利益を語ってくれたのは、ガイドさん。

祈りが通じて、願いが達せられたら、ワウ(旗の連なり)を鉄柵に縛って、お礼の報告をするのだとか。

見ていると、次々とワウをしばりつける人が後を絶ちません。

菩提樹の霊厳はあらたか、ということになります。

 ◇ローハ・パサーダ

スリー・マハー菩提樹を後にして右手にあるのが、ローハ・パサーダ(青銅殿)。

スリランカの遺蹟の呼称は、何通りもあって紛らわしい。

ちなみに「Loha Pasada(ローハ・パサーダ)」はパーリ語、シンハラ語では「Lova maha paya(ローハ マハ パヤ)となり、英語では、Brazen Palaceとなる。

紀元前2世紀にに建てられた僧院跡で、規則的に並んだ石柱が印象的。

残された石柱は、40本40列の1600本。

1600本の石柱が支えていた建物は9階建ての木造建築だったという。

1000もの部屋は、金銀、サンゴ、宝石で飾られ、バルコニーと窓の手すりには銀が嵌め込まれて、およそ僧院には似つかわしくない華美な建物でした。

屋根が青銅で葺かれていたので「青銅宮殿」と呼ばれていたといいます。

 

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(aイスルムニヤ精舎ー2)

2016-01-04 06:07:16 | 遺跡巡り

本堂を出ると左に池が広がっている。

コイン投げに興じる人たちがいる。

コイン投げの目標の穴の下に、象のレリーフが見える。

鼻で体に水をかけている構図。

よく見ると左にも2頭、こちらに歩いているようだ。

なぜ岩に象を彫りこんだのか、その真意は計りかねるが、宗教とは無縁な、自由な題材にスリランカ人が愛してやまない象を取り上げ、のびのびと闊達にノミを振るう石工の楽しそうな姿が目に浮かぶ。

2頭の象の上には、男と馬。

6世紀頃の制作とみられているが、だとすると法隆寺壁画より1世紀も前のことになる。

男は「嵐の神」で馬は「光」を表わすのだとか。

その伸びやかなタッチは、古さを感じさせない。

この3点のレリーフは、スリランカを代表する傑作として有名だが、実はこの他にも何点かの作品が見つかっています。

寺院北側の王宮庭園で発見されたレリーフは、現在、宝物館で展示されている。

 

そのどれもが宗教とは無縁なテーマであることが面白い。

仏都アヌラ-ダプラにあって、無宗教的レプリカがなぜ彫られたのか、それは謎のままです。

代表作は「恋人たち」(4-6世紀)。

男は、紀元前2世紀、この地を治めたドッタガーマニ王の息子サーリ王子。

女はその恋人マーラ。

低いカーストのマーラを妻とするため、王位継承を捨てた王子の物語は、長く語り継がれて来た。

豊満な美女マーラに寄り添いながら、得意げに愛の歌を唄う王子。

純愛かつエロチックな彫像の主人公はこの二人で決定かと思われるが、異論がないわけではない。

戦場から休暇で家に帰った戦士と妻という説は、男の衣服と背後の剣と盾を根拠とする。

シバ神とその妻パールバーティ、とする説もある。

チベット仏教の文殊菩薩だという見立てがあれば、インドネシア仏教芸術ではありふれた構図だという人もいるらしい。

異説が多いということは、作品が古くて、傑作であることの証。

同レベルの彫技と思われる作品を何点か載せておくので、鑑賞ください。

 

            王と妃

        王妃

          富の守護神ガナ

無宗教のレプリカばかり、と書いたが、訂正がある。

明らかに仏陀像と思われる座像があるからです。

首から上がなく、衣紋も消え、印相もはっきりしないが、スリランカではごく当たり前の禅定三昧、瞑想中のブッダ坐像であることは間違いない。

それにしてもこの佇まいはただ者ではない。

あらゆる夾雑物を排して、すっきりと穏やかで格調高く厳か。

色彩がないのが非スリランカ的で、だから、日本人好みの石仏だと云えるかもしれない。

少なくとも私は好きだ。

宝物館を出ると石柱と石仏があるので、いつもの癖で、ついパチリ。

寺院の境内にこうした石仏がある風景は、しかしながら、このあと1回も見ることがなかった。

あるとすれば仏陀像で、それは寺院にも各家庭にもおわすけれど、石仏として庭や路傍にあることはないようだ。

人の列が大きな岩をくぐって続いている。

本堂上の展望台からは、アヌラーダプラを俯瞰することができる。

世界遺産の古都は、緑の樹海の中にすっぽりと包まれてその片鱗さえも見せていない。

精舎の隣は、水田。

田植えしたばかりの田んぼだが、今年何回目の田植えなのだろうか。

「三毛作が普通です」とはガイド氏の答え。 

≪次回は、スリー・マハ菩提樹≫

            

 


118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(aイスルムニヤ精舎)

2016-01-01 07:39:25 | 遺跡巡り

明けましておめでとうございます。

新年幕開けは、表題のごとく、スリランカの仏教関連世界遺産巡り。

ひょんなことから、去年の暮、スリランカへ旅行してきたので、その報告です。

ひょんなことというのは、旅行に誘ってくれたのが、娘だったこと。

娘と云っても52歳のおばさんですが。

「どこか暖かい所へ」というので、バリ島などをイメージしていたら、行き先はスリランカだという。

候補地としてまるで思いもしない国で驚いたが、私の石仏趣味を計算のうえでの選択だったらしい。

これが見事に的中、大満足の石仏巡りとなりました。

 

小乗仏教の国、紅茶の産出国くらいしかスリランカについての知識のないまま、12月中旬、バンダラナイケ空港に着陸。

入管に向かう通路の正面でお釈迦さまがお出迎え。

さすが仏教大国です。

翌日、アヌラーダブラへの車中、ガイド氏が説明した1951年のサンフランシスコ対日講和条約秘話も印象的でした。

日本の分割統治を主張するソ連などに対して、セイロンのジャワワルダネ全権は「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」と仏陀の言葉を引用し、賠償請求権を放棄しました。

この言葉によって日本は分割統治されずにすみます。

この史実は、スリランカでは教科書に載っていて、スリランカ人なら知らない人はいないそうですが、恩恵をこうむった日本ではほとんど知られていません。

私が感銘を受けたのは、そうした世界的な会議で、仏典の一節をさらりと口にするスリランカのリーダーの文化度の高さです。

       スリランカ国会議事堂

仏教が生活の中に組み込まれ、溶け込んでいる国でなければ、こうした人物は輩出しないでしょう。

「憎悪は憎悪によって止むことなく、慈愛によって止む」。

 近隣のどこかの国の人たちに耳を傾けてほしいことばです。

もちろん日本人の私たちもですが・・・

 

スリランカは北海道の8割ほどの広さに8つの世界遺産があります。

今回の旅行は、そのうち仏教関連世界遺産5か所を回ろうと云うもの。

コロンボ⇒アヌラーダブラ(+ミヒンターレ)⇒ボロンナルワ⇒シギリヤ⇒ダンブッラ⇒キャンディ⇒コロンボ

 

北から南への仏教遺跡の連なりは、他国からの侵略軍に敗北して、山地の内奥へと拠点を移しつつ、後退し続けたスリランカ仏教王国の足跡でもあります。

 

ニゴンボのホテルを朝8時に出発、午後2時近く、アヌラーダプラに到着。

真冬の東京から来て、一転、炎天下の長時間ドライブは77歳の身にこたえる。

しかし、「疲れた」などと云っていられない。

なにしろ旅行プランでは、アヌラーダプラ観光にかける時間は、わずか1時間半。

世界遺産の宝の山に入るのに、いくらなんでもそれでは短時間すぎるとガイドさんに頼んでちょっと延長してもらったばかり。

紀元前4世紀、バンドゥカバヤ王がここに都を定め、西暦993年に南インドのタミル国家の侵略を受けるまで、およそ1400年もの間、アヌラーダプラは仏教徒政治の中心地として栄えてきました。

紀元前3世紀に仏教が伝来してからは、歴代の王は仏教保護に努め、仏塔や寺院を建築、これらの遺蹟は40平方キロにわたり点在しています。

駆け足観光は、その遺蹟地帯を南から北に走り抜けることに。

まずは、南端のイスルムニヤ精舎(しょうじゃ)へ。

精舎とは聞きなれない言葉ですが、「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり」(平家物語)のあの精舎です。

◇イスルムニャ精舎

スリランカで初めて仏教を受容したデーバアナンピヤ・ティッサ王が、アヌラーダプラを仏都とすべく、その第一歩として建てたのが、イスルムニヤ精舎。

 

スリー・マハ菩提樹も仏歯も、当初はここにありました。

精舎が創立されたのは、紀元前3世紀、スリランカに仏教が伝わった直後のことです。

日本では、縄文時代の終わりころということになります。

当時の日本にとっての先進国・中国に仏教が伝わったのは、1世紀ですから、それよりもずっと昔のこと。

そんな凄い史跡にいるんだと思うと、なんとなくゾクゾクする。

料金所の傍の塀には履物がズラリ。

スリランカの寺院では、裸足、脱帽が決まり。

ただし、靴下はOKです。

料金所で入場料を払うガイド氏。

スリランカの人たちはタダ。

外国観光客からだけの徴収です。

このイスルムニャ精舎だけなら200ルピー(約200円弱)、アヌラーダプラ全体の観光入場料はUS25$だということを帰国後知った。

食事も観光もすべてガイドまかせの「殿さま観光」は、楽と云えば楽だが、こうした金銭感覚に疎くなるのが欠点でしょう。

まずは、本堂へ。

本堂は、アヌラーダプラでは珍しい石窟寺院。

屋根付きの建物で石窟を覆った形になっています。

本堂へ上がる石段の前にスリランカ寺院では定番のムーンストーンがある。

ムーンストーンは、花崗岩か石灰岩にデザインを浮き彫りした半円形の敷石。

参拝者のための清め石で、裸足でこの石に乗り、浮彫の聖獣を見ながら、心を清め、鎮めさせる役割がある。

いかなる寺院でもムーンストーンから奥は聖域ということになります。

そして、石段の最下段手前両側にあるのが、ガードストーン。

本尊を外部の悪魔から守る守門神で、日本で云えば、さしずめ仁王様か。

このムーンストーンとガードストーンについては、のちほど何度か取り上げる予定。

本堂に入る。

正面にお釈迦さまが横になっておわす。

いわゆる「寝釈迦」だが、これは「横臥像」なのか「涅槃像」なのか。

ガイド氏は「両足の指が重なって揃っていなければ、涅槃像」だと云う。

 ほんのわずか、上の左足が後ろにずれているようだ。

しかし、涅槃像ではない横臥像にいかなる意味があるのだろう。

 それにしても「寝釈迦」さまの朱色は、どぎつすぎはしないか。

日本人がスリランカの仏像を見て誤解する条件の一つが彩色。

色落ちすればすぐ塗り替えるスリランカでは、ピカピカの仏さまであっても新しいとは限らない。

彩色が落ち、木肌に虫食いの跡が残る木像仏にわびさびを感じる日本人は、ピカピカの仏さまには厳かさを感じない。

「なんだこんな新しい仏像」とつい軽視しがちなので、要注意。

更に注意を喚起するとすれば、これは磨崖仏であること。

ほとんど丸彫りに近いので、つい忘れがちになるが、背後の岩を彫ったもの、背中の一部はつながっているはずです。

重機もない時代、どこか別の場所で彫って運んできたと考える方が不自然でしょう。

もう一つ、余計な情報を付け加えれば、この本堂の総ての石像の彩色は、日本の浅草寺の援助でおこなわれているのだとか。

日本の寺にふさわしい援助は他にもあろうかと思われるが、ま、余計なお節介でしょうか。

「寝釈迦」の頭の横の4体の仏像は、中の朱色の衣の座像と立像は、ゴータマ・シッタルーダ(悟りを得る前のお釈迦さま)。向かって右は、高弟シャリープトラ(舎利発)、左の茶色の衣は、高弟アーナンダ(阿難陀)。

その隣のブルーの装いの男は、このイスルムニャ精舎の創立者・デーバアナンピヤ・ティッサ王と云われています。≪続く≫