HAVE A NICE DAY!

徒然なるままに特に音楽の話を中心にあーだこーだと書き連ねます。

バランス

2005年10月22日 | 音楽・映画・本
何ごとにもバランスというのは大切だと思う。たとえば、勉強ばっかりして、その他には興味もたないのもよくないし、お肉だけ食べるのもよくない。

バランスとはいわゆる「かわりばんこ」の法則だ。でも「かわりばんこ」って一体どこの方言?私は小さい頃からいろいろ引っ越ししているのでどこで覚えたのかわからない。これは「交替」あるいは「順番に」という意だろうけど、交互に違うことをすることでバランスというのは保たれるような気がする。

たとえば、ステーキを食べながら、野菜サラダもいっぱい食べる。当たり前なのかもしれないけど、案外お肉の方にウエートをおいてる人多いのではないだろうか?

これをもっと大きな範囲でいうと、光と影がその「かわりばんこ」の法則を生み出す。朝がきて、夜がきて、また朝が来る。これも「かわりばんこ」。夜に頭を下げた花も朝になると頭をあげる。そして光を浴びて、光合成をして、あらたな力を得る。人間もそうだ。肉体的にも夜眠り、朝目覚めることで体のバランスがとられるのは医学的に当たり前のことだけど、精神的にも辛いことがあっても夜を越えて、朝を迎え、それでもダメな時はまた夜を越え、朝を迎えていくうちに辛さも薄れていく気がする。

生きていく上で、いいことばかりなんてない。そして嫌なことばかりでもない。いつもそれらは共存する。いいことばかりだと、一体何がいいのかわからないけど、嫌なことがあるから、いいことに出会うと幸せを感じられるんだよね。いいことばかりで浮かれていると知らぬ間に人に対しての優しさやおもいやりをうっかり忘れてしまうけど、そこに嫌なことが訪れると、人の心の痛みがわかって、自分を戒め、そして少し人に優しくなれるんだよね。

音楽もそう。動の音楽もあれば静の音楽もある。どちらかだけではやっぱりだめで、どちらもバランス良く聴くと、どちらの良さもわかってくる。

色もそう。カラーばっかり見ていたら、ときどき色にごまかされる。だから時には白黒の写真や映像も見てみる。そこで改めて光の存在そして影の存在の意味を知る。

人間としてバランスのいい人がとっても魅力的なのはそういうところからくるんだね。
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書くということ

2005年10月22日 | Weblog
ふつうの手紙とかもそうだけど、特にインターネットの普及する今、こうしてブログ書いたり、誰かのHPのBBSに書いて、たまに誤解を受けてしまったりすることがある。それはひとえに文章力というものの問題なのだが、ちょっと書いてしまったことで、他者に嫌な思いをさせてしまうこともあるし、悪気はないのに攻撃されてしまうこともある。難しい・・・

が、しかし、本当のことをいうとブログは自分の日記なのだから、それほど他者を意識してはいない。素直に感じたままを綴ることにしているし、ある時は誰かへのメッセージだったりもする。

一方でBBSに書き込む時、実は反撃がきてもそれに対して返すだけの準備はできている。私はときどき「相手がどうでるか」を試す発言を書く時があり、それが悪いところである。その反撃を案外素直に受け止めて「人はそう考えるのか」とか「そういう言い方もあるんだ」とか勉強させてもらう。それは自分や自分の友達(だいたい類は類を呼ぶので・笑)からは得られない意見だったりするわけで、すごく参考になる。それを聞き出すために書いたりもときどきして、なんというやつだと思われるわけだ(笑)もちろん、悪意に満ちたようなひどい発言は書きませんよ。正当なことでこれはおかしいのではないか?というような、いくらでも筋を通して話せるような内容のみですよ。個人を攻撃するなんて、もっての他。それはしてはいけませんし、私自身許せません。

あくまで一般論です。

でも、やっぱり一般論として書いても自分の本音もちらつくんだろうね。私は昔から団体行動のできないタイプで皆でいっぱい集まって騒ぎたてるのが苦手だ。友達100人作るより親友を3人作るだけで満足してしまう人だから。

ただし、中学生とか小学生とかの団体といっしょに騒ぐのは案外楽しい。それは私が教員をしていた時に感じたんだけど、体育大会とか球技大会、合唱コンクールの時にクラスで生徒と「がんばろうぜ」と騒いだあの日々はすごく楽しかった。結構先生によっては冷静な人もいる。私もその部類かとおもいきや、意外や意外、燃えてしまうタイプだった。クラスで学級目標なんかを作る時にもかなり色画用紙とか使って、いいものを皆で作ろうとやってしまって、他のクラスの先生から私が注意された・・・使い過ぎって。でも他のクラスはそこまで気合入ってないんだもの。

合唱コンクールでも音楽の教師でもないのに、ホームルームの時間にもカセット流して皆で練習したり。とにかく、生徒たちがかわいくてかわいくてしかたがなかった。もちろん中学生だから体はでかいし、悪さするやつやいろんなやつもいる。でも、自分の担任のクラスの子となるとまるでわが子のように思える。ゆえに自分ができることで何かしてあげたいといつも思うわけだ。競技で勝った時には生徒と抱き合って喜んだり、泣いたり、笑ったり・・・あの日が懐かしい。

って話が飛び過ぎた(笑)

きっと、騒ぐのが苦手といいながら、音楽好きばかりの中で騒ぐのならきっとわいわいやってしまうのだろう。そういうもんだ、人間って。たまたまそういう場面に遭遇してないから、つまらない意味のないばか騒ぎには入れないから自分はそういうのが苦手だと思うのはやめようかなって、ふと今思った。

また思いっきり笑いあえる仲間と笑いたい。

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見たくないのに・・・

2005年10月22日 | 音楽・映画・本
たまに人の未来の先がちらりと見えたりする。意識はしてないのに。それはいい事である時もあるし、悪い事である時もある。もちろん、いつでもどこでもというわけではなくて、ふと風が吹くように何かが私の横を通り過ぎ、その時感じる。

ある時は人の終わりであったり、ある時は人の結婚であったり。それは何を見ようとか思う以前の問題で勝手に見せられる。それはただ見ることだけで、どうすることもできない。「そうなのか」と思うだけ。

だから、ある意味未来が見えない人といるのが好きだ。そういう人にはきっといい未来が待っているか、それともこれからその人が作っていく未来があると私には思えるから。また、その人の幸せを願い続ければなぜかその人を守れるような気すらする。

未来とまでいかないけど、たとえば、あるバンドがあって、どうもそのメンバーのバランスに違和感を感じたり、なんか落ちつかない不安感を覚えたりすると、そのバンドは解散するかメンバーが脱退する。反対にぴたっとフィット感を感じるバンドは長続きする。

自分の気にいっているバンドが解散やメンバーが脱退する前にはかならず私にどこからかお知らせがやってくる。もちろん目に見えるものではない。どんよりした不安感。バラバラになっていくパズル。水の中で混じりあう絵の具・・・そんな感じで「今、なにかある」と感じる。そして、その後それは見事に事実となる。

たまにどうでもいいバンドでもTVとか見てたら「もう終わるな」と聴こえない声が通り過ぎる。

テレビのニュースを見ていても事件の一報をアナウンサーが述べている時に「犯人はあの人」という声がすっと頭を通り抜ける。一応、家族には「犯人はこの人だよ」と言っておく。するとだいたい1ヶ月後ぐらいに犯人がわかると「当ってる。刑事になればすごい検挙率だったのとちがう」と言われる。しかし、それも毎回ではない。突然テロップのように頭に「犯人はこの人」と出る時だけだ。それも意識してないから、なんで自分がそう思うのかもわからない。感じるんだ。何かを。

で、自分自身のことはどうなんだ?もちろん見えない。でも、一時やばかった時は見えそうになった。でも、それがある時、ふわ~っと消えた。見えなくなった。そして私は元気になった。私が大事に思う人たちはたとえ怪我をしても大事にいたることはない。痛みはあってもこの程度でよかったねというところでなんとか留まってくれる。それは私が小さい頃からだ。

ちょっと視点を変えてみる。俳優や女優というのはいくら性格が悪かろうが演技している時はすごく素敵なヒーローやヒロインになれる。スポーツ選手も根性が悪い人でも競技に勝ちさえすれば、それでいい。

しかし、音楽はどうかな?音楽は聴けば、その作り手あるいは歌い手、そして演奏者の心がすぐに反映される。だから、人を思いやる心や人の痛みがわかる人でなければ、人を癒せる曲は作れない。いくらそういう歌詞を並べたところで、うわべだけだとすぐにひとりよがりな歌詞だとわかってしまうし、そういう音楽は世に出にくいというのも感じる。

音楽は演じられない。その作り手歌い手演奏者のすべてが知らぬ間にでてしまう。ずる賢い人の曲にはやっぱりずるがしこさがちらつき、だんだん飽きてしまう。いつも新鮮に感じられる曲はやっぱりそれを作る人の心が透明なんだろうなと私は感じる。

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