福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東観音霊場記(亮盛)・・・31/31

2023-08-31 | 先祖供養

 

第三十三番安房の那呉(現在も第33番は補陀洛山那古寺(那古観音))

續日本紀に云、人王四十四代元正天皇養老元年(717)上総の國四郡を割て安房の國を置く。天平十三年(741)復た故の如し。後又是を置く。古語拾遺の中に云、南海道阿波國の忌部、于茲に来て麻穀を播殖、故に居る所便ち安房郡と名く。元は上総の一郡也。

大成經云、人王十二代景行天皇五十三年(123)冬十月上総國に至り海路より淡水門(あはのみなと)に渡る云々。淡水門とは即ち今の安房國也。當國行幸の始也。

房州長狭郡補陀洛山那呉寺は、人王四十四代元正天皇の御宇、観世音修法の壇上に現じて、親り行基大士に示し玉ふ。我が日本の補陀洛山なり、養老五年の秋九月、天皇御不豫に座しまして、名醫靈藥の妙を盡し、普く天神地祇に祈り、所有諸山の高僧験者、各々祈念丹誠を抽ずれども、曽て御悩和平(やわらぎ)玉はず。行基大士重ねて別勅を蒙り、千手大悲の軌を修し玉ふ。然るに本尊壇上に示現して親り大士に告玉ふは、是より東海百余里を過ぎ、安房國那呉浦に至って日の本の補陀洛に祈なば、天躰速やかに平安なるべしと。大士靈告の旨を奏聞して頓(やが)て東海に發し玉ふ。其の比(ころ)房州那呉の浦、遥かの澚に奇き大舩掛かり舩中に数千人の人聲して、音樂簫鼓の響あり。夜は星の如く炬燭(たいまつ)を挑げ、海表晝よりも明らかなり。此の怪異事に驚怖て、濱萩小湊の浦々まで漁舟一艘も出る者なし。斯る所へ行基大士、南都より下向し玉ふて、所々那呉浦と云を尋るに、國中の濱に曽って其の地名なし。然るに此の浦遥の澚にて、法華經讀誦の聲聞ゆ。是に於いて大士、感解し玉はく。先に大悲者の告玉ひし那呉浦とは是ならんと。試に迎請の印明を修し玉へば、海中の楼舩磯邊に近つ゛き、菩薩聖衆天龍八部、其の楼舩の中に充満たり。大士は歓喜踊躍して舩中の聖衆を拝し奉れば、毘沙門天王眷属を率て舩より丈余の香木を出し、直に行基大士に與て曰く、南方補陀洛界の教主、汝が為に此の靈木を贈る。早く千手千眼の像を作り此の岸頭の山へ安置せよと。倏ち聖衆も舩も消失せて、残るは岸打波の音耳なり。大士感得の香木を以て忽ち千手の立像七尺に彫み、岸頭の山頂に安置して、単に玉躰平安を祈玉へば、天皇夢に舩に乗数百里の海上を渡り東国海岸の山に登り、大悲の尊容を拝すと見て、御悩仍に快復し玉ふ。元正天皇御叡感の餘り勅使を立て行基に命じ不日に諸宇の伽藍を営(つく)り、件の千手の像を安置し即ち大悲者の教に任せ補陀洛山那呉寺と号す。是當寺艸創の因縁なり。愚按ずるに那古とは梵語に似たり。初め観世音行基に対して、東国那呉浦と告玉也。西國の札所の第一を那智と言ふぃ、坂東の終を那呉と言ふ。各々大悲者の名くる所にして名義は聖意叵料(はかりがたき)也。

巡礼詠歌「補陀洛は 余所にはあらじ那呉の寺 岸うつ浪も 法の聲々」愚衲此の山の地景を見るに、經説の補陀洛に相似たり。山高く海岸に聳へ、山下は南海の潮に淹(ひた)り晝夜に岸打浪の音は、梵音海潮音の響にして、實に余所に求むべきに非ず。大悲の浄土は此の山なりと仍(しきり)に感信して拝見しき。後に万国掌菓の圖(南瞻部洲万国掌菓之図「西洋系地理知識をちりばめた最初の刊行仏教系世界図。作者は浪華子(鳳潭)。宝永七年(一七一〇)刊)を見るに、天竺南印度の南涯秣羅矩吨(まらくた)國の南秣刺耶山の東、布咀羅迦山あり。那呉此れに似也。

華厳経に云、此の南方に於いて山あり。補怛洛迦と名く、彼に菩薩あり。観自在と名くと。(「大方廣佛華嚴經卷第六十八 入法界品第三十九之九」に「善男子。於此南方。有山。名補怛洛迦。彼有菩薩。名觀自在。汝詣彼問。菩薩云何。學菩薩行。修菩薩道。即説頌曰

    海上有山多聖賢 衆寶所成極清淨

    華果樹林皆遍滿 泉流池沼悉具足

    勇猛丈夫觀自在 爲利衆生住此山

    汝應往問諸功徳 彼當示汝大方便」)𦾔華厳には、海上の光明山と云う。又西域記十に曰く、秣羅矩吨(まらくた)國、(南印度境)南の海濱に秣刺耶山あり。山の東に布咀羅迦山あり。山径危険(あやう)く厳谷攲傾せり。山の頂に池あり。其の水澄鏡にして大河の泒出す。周流して山を繞ること二十匝して南海に入る。池の側に石の天宮あり。観自在菩薩「往来し遊舎し玉ふ。其の菩薩を見んと願者は、身命を惜しまず水を厲(わた)り、山に登て其の艱険を忘る。能く達る者は蓋し亦寡し。而も山の下の居人、心に見奉んと祈請すれば、或は自在天の形と作り、或は塗灰外道と成りて、其の人を慰喩氏玉ひ、其の願を果遂しめ玉ふ。大疏に曰く、補怛落迦、此には小白華樹と云、山に此の樹多くして、香気遠く聞ふ。聞見者は必ず欣ぶ。是随順の義なり。(大方廣佛華嚴經疏卷第五十七「在補怛落迦山者。此云小白華樹。山多此樹香氣遠聞聞見。必欣是隨順義」。)

探玄記に曰く、光明山とは、彼の山の樹華常に光明あり。大悲の光明普門の示現を表す。(花嚴經探玄記卷第十九「光明山者彼山樹花常有光明表大悲光明普門示現。此山在南印度南邊。天竺本名逋多羅山。此無正翻。以義譯之名小樹蔓莊嚴山」)或いは海島と翻ず。或いは日照山と名け、又は金剛輪と名け、又は孤絶山と名くと。千手陀羅尼經に曰、一時佛補陀落山観世音の宮殿寶荘厳道場の中に在して、獅子の坐に座玉ふ。其の座は純ら無量の雑摩尼寶を以て荘厳に用ゆ。百寶の幢幡周匝して懸列せりと。(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「如是我聞。一時釋迦牟尼佛。在補陀落迦山觀世音宮殿寶莊嚴道場中。坐寶師子座。其座純以無量雜摩尼寶而用莊嚴百寶幢旛周匝懸列。」)十一面不空羂索經も昔此の補陀落山に於いて説玉へり

昔文徳帝の斉衡二年(855)慧萼法師と云道行の上人あり(平安時代前期の僧。日本と唐の間を何度も往復したことで知られる。嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子は、禅の教えを日本にもたらしたいと考えた。恵萼はその命を奉じて、弟子とともに入唐し、唐の会昌元年(841年)に五台山に到って嘉智子皇后からことづかった宝幡・鏡奩などの贈り物を渡し、日本に渡る僧を求めた。その後も毎年五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏に遭って還俗させられた)。檀林皇后の仰に依りて入唐して五臺山に登り、観音の形像を感得して四明山より日本へ皈朝しに、大風に吹放たれて、補陀落山の岸に到れり。風静まりて舩を出さんとするに、舩更に動かず。舩中の荷物を上れども、舩猶動ざれば、怪しみて観音の像を慕ひ、海邊に菴を締んで、尊像を安置して居り。漸く伽藍と成りて補陀落山寺と号す。震旦東南の海嶋なり。鄞城(きんぜい)を去ること東南水道六百里、大海の中にあり、日本より海路二三百里程なり。佛祖統紀には、是を佛説の補陀落山とす。日本の人も尒(しか)思へども、此の山、鄞城の東南に有れば、南天竺よりは東北に當れり。故に西域記及び經説の補陀落山には非ず。經所説の山は、八葉に似て中に臺ありて、九の峯あり。然るに震旦の南海に孤絶の山あるが故に、南天竺の名を移す。補陀落山と名けたる也。于今、唐人日本へ来、動(ややも)すれば此の補陀落山に至り、舩を掛順風を待つとぞ。日本に近して凡人能至れば、天竺の光明山には非ず。(冥應集に弁ず)(日本の日光山でも補陀落と号す。又筑波山も㚑鷲山(霊鷲山)の片嶺なるが故に、布咀落と云也。)

和三才圖に云、按ずるに補陀山は浙江寧波の海中の島也。日本九州の西に當る。海上三百里。明州津に近し。元禄六年(1693)讃州塩飽の牛嶋源左衛門舩、水主(かこ)と十四人、飄風(ふきながされ)して補陀山に至る。時二月十八日。偶ま日本の人有り、来て其の来る所以を問ふ。答て云く、去る十一月伊豆海より北風にて南陽に走り、又西風累(しきり)にして東洋に流す。正月四日東風を得て此處に到ると。許諾して倡行(いざないゆき)寺院に於いて口を養ふ。以て京師に告す。此れより京師に至る行程凢そ三十日許。七月廿一日、令到来して、舩に乗りて長崎に皈る。蓋し補陀山は悉く寺院耳。

笈摺を脱納る歌。「脱ぎをくも 佛の誓ひ 笈摺を 幾世もかけて あはの那呉寺」古の事を考るに、求道の知識、行脚の浄侶をば都て負ふ笈の沙門と云。笈の中へ佛像経巻

入れ、背負て修行し巡れり。是の故に法衣の背を破る。法衣の破るるを恐れて、肩衣様の物を著せり。是を荷負摺と云へり。是此の笈摺の元と成ぬ。後に在家巡礼の道者、知識行脚の流を汲て、笈を略して笈摺斗(ばかり)を用ゆ。佛象経巻等の替には、笈摺の中に、弥陀観音勢至の三尊の種子を書す。弥よ殊勝の矩を示す也。

武州多摩郡高地の里、湯原の木鉢作某、若き比より、身弱くして五十に及で旅路を踏まず。然るに元和八年(1603)の夏、其の里の者五六人催し、坂東巡礼の事を企ける。已に旅立の日限近つ゛きて、各々知音へ暇乞して廻れり。木鉢作も是を羨みて、我も同行に成んと云ふ。然れども元来多病の身なれば、家内親族厳しく制して止ぬ。家の主ながらも、詮方なく唯この事を思ひ気病にして、日増に衰へ飲食も薦まず。終には息を絶果てぬ。家内親族實に死せりと思ひ、大に是を悲しみ歎き、願の侭に巡礼を許しなば、大悲の加護にて息災にもなり、斯る愁は有るまじきと、各々臍を咥へども及ばず。深く愁傷すれども甲斐なく、空しく野邊に送りける。然るに彼巡礼せざる事を一専(ひたすら)に恨み、侘び、已に息も断なんとする時、秩父の知音の僧来り。我坂東巡礼に思立たり。一人旅にては心ぼそし。貴方同行し玉へと云う。主も願ふ所に、気力を得、家内へ知せば、又止られんと、密に立出、巡礼せしに、山川路次の疲労もなく、已に丗三所の終に至り、「笈摺を脱や納る」詠歌を唱へ、海山の景色を眺め、此面彼面(このもかのも)と見行る所へ、先へ出たる同村の者、来りぬ。又相値ひて出立の由を語り、是より一所(いっしょ)に皈國すべし、我を連れたる僧にも逢せんと、呼行(よびめぐ)れども更に見ず。山を下り里を普く尋ぬるに、曽て其の行方を知らざれば、皆々堅毛の感信を為し、定めて大悲者の誘引玉ふと。益々巡礼の功徳を貴み、夫より

打連皈國せしに、國元の我家にては四十九日の追福にて親族皆集まり居たり。皆人或は怪しみ或いは喜び、墓を崩し棺を開きて見るに、中には竹の杖のみ有しとぞ。又昔唐の費長房(後漢。方術を行って禳禍招福をもたらす超能力をそなえた)は壺公に随って仙境に入る時、壺公竹の杖を切って、費長房が身の長にして、彼の家の檐(のき)に掛置り。妻子見て縊死すと思ひ、已に野邊に葬りぬ。費長房後に皈り来て,塚を發(あば)き棺を見るに、只竹の杖のみありとぞ。彼は仙術なり。是は大悲の方便なり。(終)

 

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