1,金岡秀友師は先祖供養は先祖の「阿頼耶識」に届くといっておられます。
2,平川彰東大名誉教授も「阿頼耶識は「死有」においても生存している」と言ています。
「平川彰東大名誉教授」「仏教より見た生と死」「・・もし病気になって深い昏睡に陥った場合にも、唯識の教理に従えば心の消滅していく順序はまず外界の認識である前五識や第六意識が消滅し昏睡に陥る。・・次いで「想」の心所までも滅するようになると、末那識の作用も消滅し、さらに昏睡が進めば「受」の心所までも滅する。ここまで昏睡が進んでもまだ「触」の心所があり、阿頼耶識は「触」の心所によって対象である身体を辛うじて執受しているのでまだ死は生じない。そしてさらに昏睡が進み「触」の心所まで消滅すれば、阿頼耶識は身体と分離して種子のみを摂取して種子の阿頼耶識となって次の生処に赴くことになる。この阿頼耶識が身体と分離した時がまさしく「死有」ということになる。阿頼耶識は常に転じているから「死有」においても生存しているのである。・・」
3,回向は届きます。『摩訶般若経』には「阿耨多羅三藐三菩提に廻向するは、是の功徳を持って、一切衆生を調えんが為め、一切衆生を浄めんが為め」とあるように廻向思想があります。また『梵網経下』にも、「もし父母兄弟死亡の日に、応に法師を請じて菩薩戒経律を誦せば、福、亡者を資(たす)け、諸仏を見たてまつり、人天上に生ずることを得」とあります。『地蔵菩薩本願経』には「命終の時に臨んで、父母眷属宜しく為めに福を設けて以て前路を資(たす)くべし。・・・もし能く更に為めに、身死の後七七日の内に、広く衆善を造り、能く是の諸々の衆生をして永く悪趣を離れ、人天に生ずることを得て、勝妙の楽を受けしむれば、現在の眷属も利益無量ならん。」(利益存亡品第七)
と他者(親族)が衆善を行えば亡者は人天に生ずることが出来ると説いてます。『随願往生十方浄土経』には「・・父母兄弟及び諸の親族、その為めに福を修す、福を得ると為すや否や。仏の言(のたま)わく、普広よ、この人のために福を修すれば、七分の中一を獲ると為す。何が故にしかるや、その前世道徳を信ぜざるが故に、福徳七分の一を獲せしむ」とあって、すでに地獄等に堕ちた者も親族の修福の功徳を受けられるといっています。『大乗本生心地観経』にも
「其の男女は勝福を追うふを以て、大光明有って地獄を照らし、光の中に深妙の音を演説して、父母を開悟して発意せしめん」と、父母の没後に諸功徳を修すれば、地獄にある父母をして開悟発意せしめることが出来る、とあります。