観自在菩薩冥應集、連體。巻3/6・4/29
四紀三井寺の観音の事。
紀州名草郡紀三井寺十一面観音は宝亀元年(770年)に唐僧威光上人の開基なり。威光上人(釈書には道公と云)天王寺に住して常に法華を読誦すること年久し。或る時熊野に参詣して安居し夏畢って本寺に還る時、日暮れて宿なければ大木の陰に宿するに夜半に馬に騎りたる者三十餘人、木の本にきて一人呼んで曰く、馬の足損じて乗るに任へず。年老て徒歩より往事を得ずと。諸の馬上の人皆行去りぬ。威光上人怪しみて夜あけて樹下を巡り見るに神の社あり。神の像ありて甚だ朽ち損じたり。前に板あり、馬の形を描く。其の馬の前足の處板破りて損じたり。上人糸を以て馬の足を合わせ補て神の言を試さんと思ひ又宿するに夜半に同じやうに呼ぶに翁馬に乗りて出暁に至りて還り来たり悦んで曰く、師我が馬の脚を療治し玉ふ事悦限りなしとて即ち甘饍を出して上人にすすむ。上人曰く、馬上の数十人は何人ぞや。翁の曰く、行疫神なり。神世界を巡るには我は前駆なり。若し出ざれば笞呵責せらる。今師の恩を蒙る事深し、猶又望事あり、願はくは慈悲を垂れ玉へと。上人の曰く、何事ぞや。翁の曰く、我今の身はいやしき神なり。故に大力の神に駆使れて苦を受ける事無量なり願くは師樹下に就て三日三夜妙法華を誦せば我劣報を転じて浄妙の身を得んと。上人憐れんで経を誦するに第四日目に至って神頭面を出して礼拝して曰く、師の慈力に依りて補陀落山に生じて観音の眷属となることを得たり。願はくは師草を結びて舩を作り我が木像を乗せて海上に浮かべよ、我が言の妄ならざることを知らんと。上人其の言の如くするに海上波静かにしてその船南を指して馳する事飛ぶが如し。其の夜其の里の老人夢みらく樹神菩薩の形となって身相金色にして光明照輝し南方に飛去ると。是に依りて威光上人十一面大悲の尊像を作りて村里の人と俱に一宇の堂を建て安置す。今の紀三井寺是なり。或る説には玄昉僧正の開基なりといへり。いずれか是なりと云事を知らず。或は金剛寶幢寺と号すとかや。此の神の生ぜるは南天竺の補陀落山なるべし。又画ける馬は今の絵馬なり。昔は馬を書きて神に供じたるを今は花鳥人形さまざまの物を画くは神の心に叶ふべからず。中にも酒宴の處、或いは散楽の粧、治郎遊君の像を描けるは弥よ神慮に背くべし。慎まざるべけんや。