Q,仏教では「懺悔」というが自分は悪いことをした覚えがないので懺悔は必要ないのでは?
A,結論です。懺悔のない宗教・人生はありません。日本人は古来懺悔を大切にしてきました。懺悔は人生を送る上で必須の重要な行為です。後で引用しますが田辺元もいっているように「懺悔」は個人も世界をも救済することのできる唯一の根源的な行為です。これなくしては個人も世界も救われません。自分自身も懺悔が深く行えた時は、いい行に入れます。
Ⅰ、仏教ではあらゆる場面で懺悔します。
・朝晩の勤行で懺悔文(四十華厳の普賢行願品)を必ずとなえます。「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、 従身語意之所生、一切我今皆懺悔」です。
・また修験道では山中で「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えます。
・法華経を読誦して懺悔する法華懺法は中世では宮中行事でした。また平安時代以降は有力寺院では仏様に対して懺悔する「悔過」や、修正会・修二会などの行事が行われてきました。現在も東大寺二月堂で行われている修二会(お水取り)は、二月堂にある十一面観世音菩薩に対する悔過(「十一面悔過」)の行事です。
・修証義には「懺悔滅罪」として、懺悔すれば必ず仏様のお助けがあるといっています。「・・彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。 然あれば誠心を専らにして前佛に懺悔すべし、恁麼するとき前佛懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、佛道に因りて得道せりし諸佛諸祖、我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず佛祖の冥助あるなり、心念身儀発露白佛すべし、発露の力、罪根をして鎖殞せしむるなり。」
・親鸞上人も「罪業深重の凡夫」といい徹底した懺悔をされています。
・また、新義真言宗開祖の覚鑁上人も「密厳院発露懺悔文」をおつくりになり「我等懺悔す。 無始より
このかた妄想に纏れて衆罪を造る。身口意業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す」とおっしゃり衆僧にかわって懺悔されています。長谷寺では毎朝一山の僧侶がこれを全員で唱和されています。私も高野山で最初の四度加行を行ったときこれを毎夕となえました。
・密教の行では最初に護身法という印を結びますが、その最初は「浄三業」といって印を結んで次のように観想します。「想え、三業所犯の十悪を断浄して、すなわち清浄、内心の藻浴となる」。ここでも懺悔が一番最初に来ます。是ができないと自分の身を守ることすらできないのです。
2、神道に於いても懺悔は祭祀の中心です。
「大祓」はまさに懺悔の儀式ですし、毎朝あげる祓詞は「掛かけまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓へ給ひし時に成せる祓戸の大神等たち、諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食めせと恐み恐みも白す」とあり、懺悔の言葉です。
3、「自分は悪いことをしてない、懺悔など不要」とはよく現代人の言う言葉ですが、今まで見てきたように、神の心、仏の心から離れた生活を送っていることがすでに立派な罪です。また生きていくために多くの動植物の命を頂いてきていること、知らず知らずのうちに他者を傷つけていること、貴重な資源を無駄にしていること、など数え上げれば罪業はきりがありません。十善戒を守れてないことがそもそも罪なのです。さらにこの世に生まれてきているのは前世の因縁によっているのですがそれはとりもなおさず前世の罪業によるということです。懺悔文で「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡」というとおりです。「松影の 暗きは月の 光かな」という歌があります。月明かりの夜、松の枝が地上に影を落としています。天空に一点の雲もない夜ならば、明月煌々として松影は黒々とあざやかに影をおとします。われわれも煌々と輝く神仏の教えに照らされれば誰しもが己が罪業に気付かされます。こうして神仏の教えにより人間が懺悔の心を起こせるのは、人間が本来、仏性を持っているからです。仏心の顕れが懺悔なのです。
4、周りをみわたしても素直に懺悔できる人と懺悔を否定する人では残念ながらその人のその後の運勢の展開が大きく違ってきている気がします。懺悔を否定している人は普段はよくても、大難が来たときに小難にすることは出来ていません。
5、更に懺悔は文明の暴走により滅亡に向けてひた走っている地球を救う唯一の手段であるとも言えます。「懺悔道としての哲学(田辺元)」では「懺悔道はひとり我国民の哲学たるのみならず、人類の哲学でもあるのでなければならぬ。人類は総に懺悔を行じて、争闘の因たる我性の肯定主張を絶対無の媒介に転じ、宥和協力して解脱救済へ相互を推進する絶対平和において、兄弟愛の歓喜を競い高める生活にこそ、存在の意味を見出すべきではないか。世界歴史の転換期たる現代の哲学は、特に懺悔道であるべき理由をもつといっても、それは必ずしも我田引水ではあるまい」とあります。
A,結論です。懺悔のない宗教・人生はありません。日本人は古来懺悔を大切にしてきました。懺悔は人生を送る上で必須の重要な行為です。後で引用しますが田辺元もいっているように「懺悔」は個人も世界をも救済することのできる唯一の根源的な行為です。これなくしては個人も世界も救われません。自分自身も懺悔が深く行えた時は、いい行に入れます。
Ⅰ、仏教ではあらゆる場面で懺悔します。
・朝晩の勤行で懺悔文(四十華厳の普賢行願品)を必ずとなえます。「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、 従身語意之所生、一切我今皆懺悔」です。
・また修験道では山中で「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えます。
・法華経を読誦して懺悔する法華懺法は中世では宮中行事でした。また平安時代以降は有力寺院では仏様に対して懺悔する「悔過」や、修正会・修二会などの行事が行われてきました。現在も東大寺二月堂で行われている修二会(お水取り)は、二月堂にある十一面観世音菩薩に対する悔過(「十一面悔過」)の行事です。
・修証義には「懺悔滅罪」として、懺悔すれば必ず仏様のお助けがあるといっています。「・・彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。 然あれば誠心を専らにして前佛に懺悔すべし、恁麼するとき前佛懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、佛道に因りて得道せりし諸佛諸祖、我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず佛祖の冥助あるなり、心念身儀発露白佛すべし、発露の力、罪根をして鎖殞せしむるなり。」
・親鸞上人も「罪業深重の凡夫」といい徹底した懺悔をされています。
・また、新義真言宗開祖の覚鑁上人も「密厳院発露懺悔文」をおつくりになり「我等懺悔す。 無始より
このかた妄想に纏れて衆罪を造る。身口意業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す」とおっしゃり衆僧にかわって懺悔されています。長谷寺では毎朝一山の僧侶がこれを全員で唱和されています。私も高野山で最初の四度加行を行ったときこれを毎夕となえました。
・密教の行では最初に護身法という印を結びますが、その最初は「浄三業」といって印を結んで次のように観想します。「想え、三業所犯の十悪を断浄して、すなわち清浄、内心の藻浴となる」。ここでも懺悔が一番最初に来ます。是ができないと自分の身を守ることすらできないのです。
2、神道に於いても懺悔は祭祀の中心です。
「大祓」はまさに懺悔の儀式ですし、毎朝あげる祓詞は「掛かけまくも畏き伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓へ給ひし時に成せる祓戸の大神等たち、諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食めせと恐み恐みも白す」とあり、懺悔の言葉です。
3、「自分は悪いことをしてない、懺悔など不要」とはよく現代人の言う言葉ですが、今まで見てきたように、神の心、仏の心から離れた生活を送っていることがすでに立派な罪です。また生きていくために多くの動植物の命を頂いてきていること、知らず知らずのうちに他者を傷つけていること、貴重な資源を無駄にしていること、など数え上げれば罪業はきりがありません。十善戒を守れてないことがそもそも罪なのです。さらにこの世に生まれてきているのは前世の因縁によっているのですがそれはとりもなおさず前世の罪業によるということです。懺悔文で「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡」というとおりです。「松影の 暗きは月の 光かな」という歌があります。月明かりの夜、松の枝が地上に影を落としています。天空に一点の雲もない夜ならば、明月煌々として松影は黒々とあざやかに影をおとします。われわれも煌々と輝く神仏の教えに照らされれば誰しもが己が罪業に気付かされます。こうして神仏の教えにより人間が懺悔の心を起こせるのは、人間が本来、仏性を持っているからです。仏心の顕れが懺悔なのです。
4、周りをみわたしても素直に懺悔できる人と懺悔を否定する人では残念ながらその人のその後の運勢の展開が大きく違ってきている気がします。懺悔を否定している人は普段はよくても、大難が来たときに小難にすることは出来ていません。
5、更に懺悔は文明の暴走により滅亡に向けてひた走っている地球を救う唯一の手段であるとも言えます。「懺悔道としての哲学(田辺元)」では「懺悔道はひとり我国民の哲学たるのみならず、人類の哲学でもあるのでなければならぬ。人類は総に懺悔を行じて、争闘の因たる我性の肯定主張を絶対無の媒介に転じ、宥和協力して解脱救済へ相互を推進する絶対平和において、兄弟愛の歓喜を競い高める生活にこそ、存在の意味を見出すべきではないか。世界歴史の転換期たる現代の哲学は、特に懺悔道であるべき理由をもつといっても、それは必ずしも我田引水ではあるまい」とあります。