福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

ℚ、僧侶が堕落していますがそのような僧侶でも敬うべきでしょうか?

2023-11-17 | Q&A

ℚ、僧侶が堕落していますがそのような僧侶でも敬うべきでしょうか?

A、我田引水ですが、堕落した僧侶でも敬うべき、というのが大師や道元禅師の教えです
正法眼蔵随聞記には「破戒僧であろうと僧を仰ぎ敬うべきである。」とあり、大師の秘蔵宝鑰には「・・人(僧侶)を謗するはすなわち法を謗するなり。法を謗るはすなわち人なり。人を謗し法を謗すれば定んで阿鼻獄に堕してさらに出期無し。むしろ日夜に十悪五逆をつくるとも一言一語も人法(僧侶と仏法)を謗すべからず・・僧尼あるがゆえに仏法絶えず、仏法存するがゆえに人見る目を開く。・・しかのみならず経法のあるところ諸天守護す,かくのごとくの利益挙げて数うべからず・・」とおっしゃっています。僧侶を誹謗するのは十悪五逆をつくるよりも恐ろしいというのです。
明治の傑僧釋雲照師は伊藤博文であろうと自分の前で低頭三礼しなければ面会しませんでした。これは自分を拝ませるというより仏法に対する敬意を払わせるということに主眼があったということです。

参考
1、正法眼蔵随聞記

人は必ず陰徳を積むべきである。陰徳を積めば必ず冥加利益がある。
設え泥木塑像の麁惡なものでも佛像を敬うべきである。黄卷赤軸の荒れた品でもお経を大切にすべき。
破戒僧であろうと僧を仰ぎ敬うべきである。
内心に信心を以って敬禮すれば必ず功徳を得るのである。破戒僧の傷んだ経だからといって不信無禮なれば必ず罰を蒙る。
如來の遺法であるから人天の福分となっている佛像經卷僧侶である。故に歸敬すれば必ず功徳がある、不信なれば罪を受ける。・・丹霞天然禪師という人は木佛を燒いたが是れは惡事と見えるが説法のためである。彼の師は普段は坐するにも必ず礼儀正しく、立つにも必ず礼儀があって、仏様に対するときは常に貴い賓客に向っているようであった。暫時の坐にも必ず結跏趺坐し叉手していた。常住物を守ることは眼睛の如くであった。勤修するものがあれば必ずこれを賀んだ。少善でも是を大切にした。普段の行状はことに勝れていて今世までも叢林の龜鑑とするほどである。・・覚りを得た人は善根を疎かにしてはいない。故に修行者は祖師の道に隨はんとおもえば必ず善根を輕んじてはならない。・・すべては皆佛法であると知った上は佛祖の道に遠ざかるのが悪で、佛道の縁となるのが善である。このように知るならばいかにそれが粗末に見えようとも仏法僧の三寶を尊重するのは当然である。

一日示シテ云ク人ハ必ズ陰ヲ修スベシ陰ヲ修スレバ必ズ冥加顯アルナリ
設ヒ泥木塑像ノ麁惡ナリトモ佛像ヲバ敬フベシ黄卷赤軸ノ荒品ナリトモ經ヲバ歸敬スベシ
破戒無斷ノ僧侶ナリトモ僧體ヲバ仰信スベシ
内心ニ信心ヲ以テ敬禮スレバ必ズ顯ヲ蒙ルナリ破戒無懸ノ僧疎相ノ佛鹿品ノ經ナレバトテ不信無禮ナレバ必ズ罰ヲ蒙ルナリ然アルベキ如來ノ遺法ニテ人天ノ分トナリタル佛像經卷僧侶ナリ故ニ歸敬スレバ必ズアリ不信ナレバ罪ヲ受ルナリ
イカニ希有ニ淺猿クトモ三寶ノ境界ヲバ歸敬スベキナリ
禪僧ハ善ヲ修セズ功ヲ用ヒズト云フテ惡行ヲ好ムハ究メタルヒガ事ナリ先規イマダ惡行ヲ好ムコトヲキカズ丹霞天然禪師ハ木佛ヲ燒ク是レラコソ惡事ト見ヘタレドモ一段ノ説法ノ施設ナリ彼ノ師ノ行状ノ記ヲ見ルニ坐スルニ必ズ儀アリ立スルニ必ズ禮アリ常ニ貴キ賓客ニ向ヘルガ如シ暫時ノ坐ニモ必ズ跏趺シテ叉手ス常住物ヲ守ルコト眼睛ノ如クス勤修スルモノアレバ必ズコレヲ賀ス少善ナレドモ是ヲ重クス常途ノ行状コトニ勝レタリ彼ノ記ヲトヾメテ今ノ世マデモ叢林ノ龜鑑トスルナリ爾ノミナラズロノ有道ノ師先規悟道ノ祖ヲ見聞スルニ皆戒行ヲ守リ威儀ヲトヽノヘ設ヒ少善トイヘドモ是ヲ重クスイマダ悟道ノ師ノ善根ヲ忽スルコトヲ聽カズ故ニ學人祖道ニ隨ハント思ハヾ必ズ善根ヲ輕シメザレ信仰ヲ專ラニスベシ佛祖ノ行道ハ必ズ衆善ノ衆マル處ナリ法皆佛法ナリト通達シツル上ハ惡ハ決定惡ニシテ佛祖ノ道ニ遠ザカリ善ハ決定善ニシテ佛道ノ縁トナルト知ルベシ若シカクノ如クナラバナンゾ三寶ノ境界ヲ重クセザランヤ)

2.秘蔵宝鑰中巻「憂国公子、玄関法師に問うていわく。『・・今多くの僧尼を見るに頭を剃っても欲を剃らず、衣を染めても心を染めず、戒定慧を修めるものは乏しく、非法乱行の者は多い。・・釈風これによって衰微し、仏道これによって毀廃す。旱魃‣洪水・疫病が毎年起こり、天下が乱れ公私が苦しむのはみなこの僧尼の乱行によるものである。しかじ一切得度させずにおいて阿羅漢のような得道の者が出たときにのみ身を屈して頂敬し、国を傾けて供養すべきではないか?』
玄関老師『・・孔子は没してもその教えを学ぶものは無数にいる。老子は喪せたがその道を学ぶものは県ごとに肩を側てている。扁鵲や華陀のような名医はいなくなったが医道なんぞ絶えざる。・・王羲之や王献之は死してその妙技を伝えるものはいなくなったが今も目に余るほどのものが書道に励んでいる。・・これらはみな止むことを得ずしてこれをなすものでなすことがなさぬよりも優れているからである。今これを仏道の上に於いて考えても悟りを得ることができなくても、その道を絶やすべき理由はない。』・・憂国公子曰く『それにしても持戒にすぐれ智慧に優れた僧は見たことがないのはなぜか?』。玄関法師曰く『かって己が法教に背けることを顧みずかえって僧尼の経法に背けることのみををそしる、これは己が膿足を隠して他の腫れ足を暴くようなものである。・・世は減劫であり末法であるが稀には有徳の聖も出る。和光同塵で身を隠しているのでその存在は知りがたいものである。』憂国公子曰く『僧尼が一巻の般若経を読み、一佛の名号を唱えたとて国家の恩にむくい四恩の徳に応えることになるのか甚だ疑問である。』玄関法師曰く『・・一佛の名号を唱えても無量の重罪が消え、一字の真言を誦しても無辺の功徳が得られる。ましてや僧尼が法の為に身を捧げることが四恩の徳に報いられないわけがあろうか。・・。法は人によって広まり、人は法を待って昇る。人法一体にして別異なることを得ず。このゆえに人を謗するはすなわち法を謗するなり。法を謗るはすなわち人なり。人を謗し法を謗すれば定んで阿鼻獄に堕してさらに出期無し。むしろ日夜に十悪五逆をつくるとも一言一語も人法を謗すべからず・・僧尼僧あるがゆえに仏法絶えず、仏法存するがゆえに人見る目を開く。・・しかのみならず経法のあるところ諸天守護す,かくのごとくの利益挙げて数うべからず・・』

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