上来仏教のおける個体の観念を開明せんとし、小乗及び一般大乗の所明を略述せしゆゑ、以下真言密教の所説に及ぼうと思ふ、なほ真言密教の個体観念を述ぶるにあたり、仏教教義の中心観念を約述するであらう。
これ真言密教の所明を会し易からしめんがためである。
蓋し小乗仏教は宇宙人生は煩悩、業に因って現起せし生滅無常の苦果の迷相と観、この無常性滅の境を解脱せる寂滅無為の涅槃界に帰せんとするものである。
その大乗佛教に至れば、諸経論の所明一準ならざれども、これを小乗に対せば、因縁生の萬有は、常住真実なる幽秘を開演するものといひ得らる。
蓋し同一仏教にして小乗は現象を無常生滅厭離すべき有為の迷相と見、大乗は真実常住なりといふは、一見その所説相反するがごとくなるもただこれ因縁生の理を明かす浅深によるものである。
即ち小乗は因縁生の理を説くこと浅く、因縁によって生ずるものは因縁によって滅す。しかして諸法は生滅無常なるがゆえに身にも、心にも、常に変はらざる常一主宰の我体なき無我の理趣を開演す、しかるに大乗は同じく諸法因縁生の義を明かすもその所説深細なるが故に、諸法は不生不滅、常住真実なる秘義を開演するものである。
即ち共に因縁生の義を説きながら小乗は諸法は無常なりといひ、大乗は諸法は不生不滅なりといひ、二者相反するが如き説をなすも、これ小乗の因縁生、無常生滅の義を究むれば、自ら大乗の諸法常住の説を成ずるのである。
即ち因縁生の法は生滅無常にして堅実の自性なきが故に自体空なり、空なれば生滅遷流の相を絶するがゆえに、無生無滅、常住真実なりといはざるべからず。(諸現象の生滅無常の元となっている「空」そのものは「真実」であるから滅びようがない)。
これ真言密教の所明を会し易からしめんがためである。
蓋し小乗仏教は宇宙人生は煩悩、業に因って現起せし生滅無常の苦果の迷相と観、この無常性滅の境を解脱せる寂滅無為の涅槃界に帰せんとするものである。
その大乗佛教に至れば、諸経論の所明一準ならざれども、これを小乗に対せば、因縁生の萬有は、常住真実なる幽秘を開演するものといひ得らる。
蓋し同一仏教にして小乗は現象を無常生滅厭離すべき有為の迷相と見、大乗は真実常住なりといふは、一見その所説相反するがごとくなるもただこれ因縁生の理を明かす浅深によるものである。
即ち小乗は因縁生の理を説くこと浅く、因縁によって生ずるものは因縁によって滅す。しかして諸法は生滅無常なるがゆえに身にも、心にも、常に変はらざる常一主宰の我体なき無我の理趣を開演す、しかるに大乗は同じく諸法因縁生の義を明かすもその所説深細なるが故に、諸法は不生不滅、常住真実なる秘義を開演するものである。
即ち共に因縁生の義を説きながら小乗は諸法は無常なりといひ、大乗は諸法は不生不滅なりといひ、二者相反するが如き説をなすも、これ小乗の因縁生、無常生滅の義を究むれば、自ら大乗の諸法常住の説を成ずるのである。
即ち因縁生の法は生滅無常にして堅実の自性なきが故に自体空なり、空なれば生滅遷流の相を絶するがゆえに、無生無滅、常住真実なりといはざるべからず。(諸現象の生滅無常の元となっている「空」そのものは「真実」であるから滅びようがない)。