即ち天台、華厳、真言の教意の不同を、華厳の所明に配すれば、次の如く縁起、性起(「性」とは仏性、「起」とは起こること。真理から諸現象が生まれると説く華厳宗の教義。凡夫の立場から現象を説くと、縁起となる。 天台宗の性具説は仏界のさとりも他の世界の迷いと同列に見るのに対して、真理を中心に万象の縁起を説き、迷いの世界を仏の世界に引き上げて説こうとするもの。) 、性海果分(真如そのものの世界 )に相ひ當るものがある。
華厳の性起は佛身の無碍の仮用を明かし、従果向因(真理の世界から現象の世界にさかのぼる)の幽秘を開説せられ、殆ど真言密教の教意と同一なるかのごとく思わるるものあるも、弘法大師の所判よりいへば、華厳の性起はなほこれ因分に属すべきである。
世の学佛の徒にして真言密教と天台、華厳との関係を論ずるものを見るに、
「弘法大師に六大無碍(注1)の説等あるより、密教は華厳の事々無碍(注2)を六大と説きしまでにして、事々無碍と説を同じうするものなり,または天台の三諦の中の仮諦の方面に属する教へなり」等
といふがごときは、未だ真言密教の真意を了せざるものである。
華厳の事々無碍、天台の三諦(注3)は皆これ縁起因分にして密教は性海果分なりしことは弘法大師明らかに喩釈せられたるところである。
(注1、五大(地・水・火・風・空、いわゆる物質) と識大(物質でないもの)が互いに融合していること)
(注2、事々無碍とは個別事象が融通無碍に存在すること)
(注3、実相の真理を明かすものとして考えられた空・仮(け)・中の三諦(真理)。すべての存在は空であるとする空諦、すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする仮諦(けたい)、すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする中諦。)
華厳の性起は佛身の無碍の仮用を明かし、従果向因(真理の世界から現象の世界にさかのぼる)の幽秘を開説せられ、殆ど真言密教の教意と同一なるかのごとく思わるるものあるも、弘法大師の所判よりいへば、華厳の性起はなほこれ因分に属すべきである。
世の学佛の徒にして真言密教と天台、華厳との関係を論ずるものを見るに、
「弘法大師に六大無碍(注1)の説等あるより、密教は華厳の事々無碍(注2)を六大と説きしまでにして、事々無碍と説を同じうするものなり,または天台の三諦の中の仮諦の方面に属する教へなり」等
といふがごときは、未だ真言密教の真意を了せざるものである。
華厳の事々無碍、天台の三諦(注3)は皆これ縁起因分にして密教は性海果分なりしことは弘法大師明らかに喩釈せられたるところである。
(注1、五大(地・水・火・風・空、いわゆる物質) と識大(物質でないもの)が互いに融合していること)
(注2、事々無碍とは個別事象が融通無碍に存在すること)
(注3、実相の真理を明かすものとして考えられた空・仮(け)・中の三諦(真理)。すべての存在は空であるとする空諦、すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする仮諦(けたい)、すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする中諦。)