福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔17/33

2024-04-17 | 諸経

観音霊験記真鈔17/33

西國十六番山州京清水寺千手像。御身長八尺(2.4m)又は楊柳観音とも云へり。

釈して云く、千・聖・馬・准・十一面如の六観音を以て大悲・大慈・師子・大光・丈夫・大梵の六観音に誰人か配當するや。(天台大師智顗が『摩訶止観』で、大悲・大慈・獅子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の六観音を説いた。この六観音信仰に対して、真言宗の小野仁海は「天台宗が『摩訶止観』に説いている六観音は、実は従来より真言密教で説いてきた正・千手・馬頭・十一面・准胝・如意輪の仮の姿、変化身である」と唱えはじめた。これに対して天台宗では、真言密教に対する台密の立場から、聖・千手・馬頭・十一面・不空羂索・如意輪という新たな六観音を説くようになった)。答、小野僧正御堂関白に注進せられ記に云く、一には千手観音(又は大悲観音と云ふ。地獄道の能化なり。)二には聖観音(又大慈観音と云ふ。餓鬼道の能化なり。)三には馬頭観音(又獅子無畏観音と云。畜生道の能化なり。)四には十一面観音(又大光普照観音と云ふ。修羅道の能化なり。)五には准胝観音(又天人丈夫観音と云ふ。人道の能化なり。)六には如意輪観音(又大梵深音観音と云ふ。天道の能化なり)。件の異名は道邃の六字經の験記の中に出たり。(道邃の六字經験記そのものは不詳ですが、以下、薄草子口決に「小野僧正被注進御堂關白記云。一正觀音又云。大慈觀音 地獄道能化二者千手又云。大悲觀音餓鬼道   三馬頭              又云。師子無畏畜生道。四十一面   又云。大悲光普照修羅道。五准胝又云。天人丈夫人道。六如意輪          又云。大梵深遠天道云云。此中異名。道邃六字經驗記中出」)。

又一説に云く、准胝観音を除いて不空羂索を加へ小野僧正は准胝に替らるるとなり。小野僧正は止観に依る。止観は七佛八菩薩所説神呪經に因ると云へり。(摩訶止觀卷第二上              「六字即是六觀世音。能破六道三障。所謂大悲觀世音破地獄道三障。此道苦重宜用大悲。大慈觀世音破餓鬼道三障。此道飢渇宜用大慈。師子無畏觀世音破畜生道三障。獸王威猛宜用無畏也。大光普照觀世音破阿脩羅道三障。其道猜忌嫉疑偏宜用普照也。天人丈夫觀世音破人道三障。人道有事理。事伏憍慢稱天人。理則見佛性故稱丈夫。大梵深遠觀世音破天道三障。梵是天主標主得臣也。廣六觀世音即是二十五三昧。大悲即是無垢三昧。大慈即是心樂三昧。師子即是不退三昧。大光即是歡喜三昧。丈夫即是如幻等四三昧。大梵即是不動等十七三昧。自思之可見             云云       。此經通三乘人懺悔。若自調自度殺諸結賊成阿羅漢。若福厚根利觀無明行等成縁覺道。若起大悲身如瑠璃毛孔見佛。得首楞嚴住不退轉。諸大乘經有此流類。或七佛八菩薩懺。或虚空藏八百日塗厠。如此等皆是隨自意攝      云云」             。七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪經「若能一日一夜不食。淨洗浴著淨衣。獨處經行誦此陀羅尼。所願必得。即説陀羅尼句 南無觀世音師子無畏音大慈柔軟音大梵清淨音大光普照音天人丈夫音能施衆生樂濟度生死岸」

次に十五観音の尊あり。六観音は前に挙るが如し。七には不空羂索観音、八には白衣観音、九には葉衣観音、十には水月観音、十一には楊柳観音、今清水寺の観音これなり。十二には阿摩提観音、此には無畏と翻じ又寛廣と翻ず。十三には多羅観音、此には眼生と翻ず。十四には青頸観音、十五には香王観音なり。諸尊観真言句義抄の中巻に見へたり。

又大本如意輪経には八大観音を説き玉ふ(如意輪陀羅尼經壇法品第五「於花臺上畫如意輪聖觀自在菩薩。面西結加趺坐。顏貌熙怡身金色相。首戴寶冠冠有化佛。菩薩左手執開蓮花。當其臺上畫如意寶珠。右手作説法相。天諸衣服珠璫環釧。七寶瓔珞種種莊嚴。身放衆光。東面畫圓滿意願明王。左畫白衣觀世音母菩薩。北面畫大勢至菩薩。左畫多羅菩薩。西面畫馬頭觀世音明王。左畫一髻羅刹女。南面畫四面觀世音明王。左畫毘倶胝菩薩」)。又義範の手跡本には同じく八大観音を挙る。前の如意輪経八大観音とは形像異り。其の外蔵經の中に観音の諸名ありといへども繁を恐れて之を略す。或云く、諸經論に楊柳観音の事慥かなる證なし、人師の作より出たる欤、但し六観音に三つ宛の口伝を出し、十八の観音と云事あり。此の時は楊柳観音と云ふ名もありと見へたり。高峰録に、観世音菩薩慈悲の相を現ずる聖にして皓潔たるは眉湾翠柳の如し、或いは曽って観音楊柳の上に向かふと云へり。言ひたる事は唐土より言来れり。又清水寺の観音の事は元亨釈書には、唯庭前の株桒?と許り云へり。(元亨釈書巻二十八「清水寺・・又練若を建てるに好し、乃ち庭前の株桒?を指して曰、我是を以て大悲の像材に擬せんとす・・」)。此の株が楊柳のことなる欤故に楊柳観音と云傳るなりと已上。私に案ずるに楊柳観音の事清水寺の本傳記委悉なり往て見べし。

西國十六番目山州京清水寺八尺の千手千眼の像は、光仁天皇の御宇寶亀十一年(780年)に本尊を作り始るなり。本願は延鎮法師(平安前期法相宗の僧。宝亀9(778)年京都の乙輪(音羽)山に移り,延暦17(798)年坂上田村麻呂がその地に開いた清水寺の開祖となった)、檀那は大納言坂上田村麻呂なり。其の由来は大和國高市郡八多の郷、子嶌寺の住持報恩大師の弟子に堅心法師と云者あり少年出家の後より六時三昧歳を累ね怠らず。苦練修行日を積て倦むこと無し。或夜夢の告によりて寶亀九年戊午(778年)四月八日に此長岡に至らんとするに淀川に金色の一流を見る。則ち水の源を尋ねて河を沂(さかのぼ)るに山城國愛宕郡八坂の郡音羽川の水上清水の瀧の下に至るに岸の上に一つの草庵あり。中に白衣の老人在て千手の神呪を誦す。堅心其の名を問ふに答て云く、我をば行叡居士と云へり。此の地に隠居すること已に二百歳なり。汝を待つこと久し。今爰に来れり、我東國に行脚の願あり。我に替り暫く此所に住むべし。此の草庵は造堂の地なり。又前なる大樹は観音の料木なり、過去拘留孫佛の時の木なり。千佛千摩の木槵子を植られたり。夫れをたねとして生長したる木なり。若し我遅くかへらば汝早く此の本意を遂よと云終りて居士すなはち東へ去りぬ。堅心恋慕の涙たもとをうるほし追求の心尤も切なり。因って東方を指して尋ね行くに山科の峯に居士はくところの履落ちたり。則ち是を取りて回(かへ)る。されば居士は観音の化現なりと知る。しかるに約束の尊像を刻み堂舎を作らんと思へども三衣の外にたくはへなく、一鉢の中には唯飲水の樂しみ而已(のみ)にて敢て造功の資粮なき間、思て三年を歴るところに寶亀十一の季庚申(780年)近衛将監坂上田村麻呂妻室産藥のためにとて一つの鹿を狩りて此の山に来れり奇異の流木を見る。今延年寺谷と云所なり。すなはち源を尋ねて瀧に至り草庵の前にして堅心に會ひて所住の故を問ふに行叡居士語る所を委く顕すに田村麿信心を発して造功の檀越たらんことを契り家に歸り妻室に語るに命婦高子は三谷の清継が息女也。高子此の事を聞て、我もとより此の志しあり、とて夫婦心を一つにして先ず佛殿を作らんとするに、山深く険阻にして樹林の陰一寸尺も平地なし。人力の及びがたき事をなげくところに、或夜物の聲山中に充ちて崖をこぼち谷にうずむかと覚へけり。夜白けて是を見れば地平かになりて掌の如し。其所に鹿の子あり。知んぬ是鹿にあらずただ薩埵の使たらんとて、彼の鹿の頭を留めて蔵庫に収め今に靈佛とす。如是の神變一つにあらず。さて霊樹を伐りて堅心報恩大師(奈良時代の伝説の僧。備前四十八ヶ寺を創建と伝)と共に尺八四十臂の千手観音の像を造り奉り工木功なりて後将監(田村麿)上奏して度人一人を申し玉はりて先ず堅心を度す。其改めて延鎮と云ふ。桓武天皇の御宇延暦十四年(795年)の春東海より夷發逆の由ししきりに其聞へあり。因りて征伐のため田村麿を以て征夷大将軍として指下さる。是に由って将軍延鎮の室に入って大願をかけ立かへり玉ふ。延鎮大法師精勤を抽でられけるに猶示現によって地蔵毘沙門の二像を造立し肝膽をくだき居るに、二尊御音を出して東方に向きたまへり。さて彼の夷は山海に充満り将軍すでに戦場に出玉へるところに何くともなく老僧一人老翁一人進み出て僧は大将軍の先に立て敵の方より射る矢をふせぎ、翁は又夷を射て数百人を討亡ぼしたまふ。神の助け佛力にあらはれて各々歓喜の心深かりける。射るに火雷しきりに振て夷の中へ落ちければ忽ちに彼戦場敗北してことごとく退治しけり。此の功詳かに延鎮法師の祈念によるが故なりと、喜の餘り延暦十七年(798年)七月二日に更に改めて伽藍を作り本尊を安置するに、征夷の為に造るところの二尊を則ち脇立として勝軍地蔵と號して寶滿西に立て右脇とし、勝敵毘沙門と号して同じく東に安置して左脇とす。其の後も此の一佛御聲を出して堂舎の吉凶を告げ玉ふ事度々なり。本尊の霊験は中々記すに遑あらず。しかるに延暦十四年六月二十八日報恩大師入滅の時、延鎮を撰んで子嶌寺を附属せしむ。依って延鎮法師子嶌寺に住持して清水の草庵に往還せしめし故に今に南都の末寺たるものなり。已上略縁起畢す。楊柳観音の事此の縁起に見ず、委しくは清水本縁起にありと云々

清水寺の概略は今昔物語集巻11第32話 田村将軍始建清水寺語 第卅二にあり)

歌に

「松風や音羽の瀧の清水を 結ぶ心は 涼しかるらん」

私に云く、歌の心は知り易し。裏の意は「松風」は法身の説法と観念すべし。「瀧の清水」は佛の智恵の法水と知るべし。「結ぶ心」とは各々我等此の観世音を頼み奉れば浄土に往生して常恒に佛の説法を聴聞し且又佛の法水を受けて真の佛弟子となる、心は涼しくもいさぎよかるべしとなり。

或人の歌に

「聞く時は峰の嵐もいか計 音すや法の響なるらん」

又新古今に清水の観音の御詠歌とて

「只頼め 三界六道(しめじがはら)の 一切衆生(さしもぐさ)我世の中に有ん限りは」(新古今集 釈教 清水観音)

西國の歌に合わすべし。古記に大和國子嶋寺と云ふ所の沙門延鎮、生身の観世音を拝まんと誓ひ或時五色に見へし瀧の浪を尋上り玉へば金色の光さす。立寄り見玉へば朽木の柳がたちまち變じて楊柳観音とあらはれ玉ふ。其後此の柳の木を以て千手観音を延鎮自ら刻玉く。故に爾云ふ也。已上。浄土列祖傳五巻予(松誉)が書く也。往て見るべし。

 

 

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