運動としての民主主義を掲げる政治家は、「かくあるべし」という具体政策イメージを持たない方が良い。
えっ? じゃあ、彼は政治家として何をするんだ?
庶民大衆の皆さんの意見や不満や要求が、出せるように、ネットワークと運動を組織する。皆さんのそれらは、多様であるから、その数だけネットワークは重層し、運動は多岐に亘る。一人で組織するというわけには行かない。政治家は、庶民大衆のそれらを政治的次元に引き上げる。
引き上げるというと、政治的次元が「上」に見えるかもしれないが、そうではない。次元を変える。むろん、素のままの「課題」を除かずに、それらの違いをある程度概括して、三つか四つの差異的政策にまとめることになる。それについて、徹底的な討議をする。形式的な討議ではない。支持する政策の、短期的、長期的に結果すること、対立する政策のもたらすこと、政策を具体的に遂行するに当たっての困難と課題など、一つひとつ掘り出して俎上にあげ、吟味して決定に持ち込む。そのとき、反対意見、少数意見、特異な意見を一つひとつ丁寧に位置づけて、重ね合わせ、譲り合っていく。なぜそうするかをひとつひとつ解きほぐし、明快にしていく。それが「討議」である。
この「討議」には、庶民大衆の(それまでの人生で経てきた)あらゆる出来事が醸した思い込みや流言飛語や認識の違いや意識していないことが浮かび上がり、「にんげん」の諸相がぶつかり合いとして剥き出しになる。人々の差異である「諸相」を解きほぐし、政治的課題としての限定をつけて、互いの相互認識に持ち込んでいく必要がある。
じつは、ここが政治家が取り仕切る一番の「課題」だ。そういう意味で政治家は、哲学者でなくてはならない。ここでいう「哲学」とは、人が生きるということの筋道を根柢から見て取る感性を持つことに始まる。つまり「にんげん」とは何か、人は今どう生きているか、いかに生きることをよしとするか、そういったことに向き合う感性が不可欠である。
この点が、コーディネートの要だと思う。コーディネートする政治家も、意識しているかどうかは別として、「かくあるべし」という観念をもっている。だがそれを押しつけたり、我田引水のように運ぼうとすると、たちまち「不信」が湧いてくる。というか、そもそも「信頼を得ていない」ことが出発点にあるから、「信頼」が醸成されていかない。庶民大衆が主体であり、政治家はその主体を、集団的意思として起ち上げるコーディネートをしているのだから、自身の「かくあるべし」を押しつけるようであっては、務まらない。
その間に、三つか四つの差異的政策が二つになったり、一つプラス三つほどの付属政策になったりすることができれば、そのようにして合意に達するようにする。その間に、優先順位をつけることもあろうし、次年度以降の課題として継続審議に持ち込むこともあるだろう。ときには、不満を抑え込んでしまうこともあるとみておかねばならない。民主主義とは、集団的決定の最終段階においては、抑圧を含むしかないことがある。
それら政策立案のための資料収集を官僚たちに担当してもらうってことも、情報収集機関としての役所の務めだし、情報メディアも、この過程で活動してもらえるように活動の全過程を公開していくことが、ここで浮かび上がる。公務員が「国民全体への奉仕者」になる。政治家の「ご挨拶文」を書かされるよりは、よほどそちらの方に官僚たちのやる気がそそられると私は思う。彼らがエリートとしての矜持を「国民全体への奉仕者」ということにおくようになれば、彼らは長期的な視点と公平性と公正さと継続的なマンネリズムを長所に変えていくことができる。政治家からの一定の独立の根拠も築かれていく。
安部=菅政治の欠点は、自ら感知している「情報」を秘匿して、あたかもその「情報」が自分の発信するべき特権的なことのように占有していたことにある。だが、情報化社会の広まりにつれて、「情報」は広く知れ渡るようになってしまった。それどころか、情報収集機関であったはずの役所がいつの間にか時代遅れの収集癖に凝り固まり、官僚というエリートが世俗の情報に追随するようになってしまった。地方政府からの基本情報すら、ファックスで送付し、改めてそれを入力して集積するという手間暇をかけ、その結果誤入力や欠落を招いている。いや、それらの入力を外部委託することによって、もはや役所が情報収集と発信の能力を失ってすらいる。その頂点に立って差配してきた政府首脳は、文字通り裸の王様であった。
政府首脳に「権威」はいらない。「信頼」を得ることが第一だ。もちろん「信頼」の積み重ねが「権威」となることはいうまでもないが、情報を秘匿して小出しにすることによって手に入れる「けんい」って、すぐにボロが出る化粧のようなものだ。それを身につけている限り、庶民からの「信頼」は得られない。
コロナ禍は、じつはそうした「信頼」を手に入れる最大のチャンスであった。コロナウィルスが襲来するとどうなるかわからないというのが、ほぼ全員の一致する感懐であった。どうしたらいいかわからないということは、どうやるかが「問われている」わけだから、衛生医療関係者の意見、社会関係の期待、経済活動の停滞と浮沈、何より暮らしにおける最低限、整えなければならないことを取り出して公開し、どう調整するか、何を優先するか、何が欠かせないかを丁寧に吟味しつつ、具体化を図る。数十の提案を三つ四つに絞り込み、その過程も明らかにしておくことで、その選択過程への「やむなし」という了承を取り付けることだって、そう難しいわけじゃあるまい。
ところが政治家が、才覚力量に溢れ、旺盛な活動力で取り仕切って「俺に任せろ」的に振る舞えば振る舞うほど、庶民大衆は「お任せ」になり、政治の「公助」を主権者の権利の如くに消費してしまう。だって彼ら(政治家と官僚)は秘匿するほど「情報」をもっているんだろ? ならば、それ相応の具体的な結果を出せよ。口だけでサービスするような贅言は、もういらないよ。そう、不服不満は鬱屈し、投票にも行かないし、政治なんて知ったことかとそっぽを向くようになる。それを埋め合わせて、政治家の方へ向いてもらおうとすると、大枚の選挙資金を投入して明らかに不正な利益誘導をするようになる。そのような政治家の不始末は、数え切れないほど多い。野党がそれを追求していることも、庶民大衆からすると、与党をいじめて遊んでいるようにみえる。むろんそれで与党の不始末がどうなってもいいとは思わないが、政治家って、結局権力を握っていないと負け犬の遠吠えなのねって、認識が定着する。
野党は、政治世界の枠組みを打ち破って、根柢から社会運動として動き始めなければならない。まず、庶民大衆を「主体」にすること。なってもらうこと。それをコーディネートするのが政治家の役割と心得て、「哲学」を提示してみせること。それが「信頼を築く」第一歩だと思う。
立憲民主党の党首選挙が行われている。朝日新聞はその候補の見解をわりと丁寧に伝えているが、私の耳には「相変わらず」に聞こえる。
今回の衆院選で(事前の予想と食い違って)敗北したことを、議会制民主主義の枠内で捉えているから、政策提起をするとか、人々の意見に耳を傾けるとか、選挙のときの共産党との提携が良かったか悪かったかという次元でやりとりしている。そこを抜けないと、たぶん、だれが党首になっても野党の壁を切る崩すことにはならないだろうと私は思っている。というのも、今回選挙の焦点を、安部=菅政権にたいする批判として総括するのであれば、モリ・カケ問題やサクラの会の問題は、政治が人民主体ではなく政治か主体になっている象徴的な事象だということだ。
普通の庶民からすると、もう国民主権などということは「お客様は神様」と商業主義が唱えるのと同じ、「投票してくれる人は神様」と持ち上げている贅言に過ぎないとわかっている。主体となった実感を味わったことなどないからだ。簡明にいえば、「主権者のために」を合い言葉に、政策を見繕って差し上げ、どうだこれでと、自慢顔をしてみせるのが、政党や選挙の手立て。つまり主権者って、単なる一票であり、一票でしかない。
だが、この単なる一票の動きを動かすには、手間がかかる。マスとして動かすにはどうするか。SNSもマス・メディアも、世情を動かす立派なメディア。俺らを動員して新鮮さを演出する。他党をおとしめ自党を持ち上げるニュースを、フェイクであろうがなかろうが取り混ぜて流す。マス・メディアは「客観報道」とか「責任報道」と称して取り上げる。SNSは自画自賛ではないように見せかける装いもして、広がりを持たせる。
それらの「報道」のトップを飾るようにするのは、一つのイベントを演出して盛り上げるようなこと。博報堂など大手企業の知恵を雇い入れ、裾野の「噂」から頂上「決戦」まで、ピンからキリまで、あれこれ織り交ぜての広報戦術を駆使して、人々の心を揺り動かし投票行動へと結びつける。オリンピックなどの壮大なイベントを企画立案して実施する経験に、社会心理学や人間行動学、流行の最先端をつかみ、コントロールする技術を用いて、人々の動きを操るように差配してきたのである。操られる側も、決して自らが選び取ったという確信の揺るがぬように組み立てられた「総選挙」というイベントの結果が、実はそうするべくしてそうなっているかたちで、仕組まれているとも言える。
そういう社会に私たちは暮らしているのだ。陰謀論がはびこっていくのも、ごく自然なこと。人間工学を組み込んだサイバネティクスの社会、主体的にそうしていると思える情報社会が、日常、私たちの心中深く浸透しているのだ。国家を動かしている「主権」というのが、これほどの統計的な数値にすぎないというのは、戦後76年を経た結果である。
数えで傘寿という、この歳になって思うのだが、いまの日本の民主主義を根柢から変えようとする方策は、法制度や形式的に整えられた民主主義ではなく、主権者を「政治の主体」とする具体的な実践である。政治って政治家が牛耳ってるアレでしょと傍観するものではなく(いま私はそうしているが)、自らが腰を起こして、足を運び、政策立案に(意見を聞かれ、意見を申し述べて)参画し、具体化の運びを実感できるほどに身近なものにすることだ。
そのために政治家がいまやらなければならないことは、次のようになろうか。
(1)中央、地方を問わず政府が手に入れている「情報」を公開し、何が課題であるかを提示すること。
(2)人々から(1)の課題に関する諸提案を受けること。
(3)その諸提案を整理して、いくつかに絞り、それに関する諸意見を集約すること。
(4)最終的に絞った政策提案を、議会で、あるいは住民投票で、決定すること。
そんなめんどくさいことはできないよという人は、みているだけになる。投票にも足を運ばない人がいるのだから、ある程度、そういう人がいるのも仕方がない。
だが、加わろうにも、身体的、精神的に関わることができない人たちもいよう。そういう人たちには、障害となる諸条件をできるだけ取り除いて、参画するチャンスをつくるようにする。いや、政治課題だけではない。暮らしに関わるいろいろな障害を抱えて動きが着かない人は数多いる。そういう人たちが、何らかのサポートを得て、社会活動に参加できるようサポート体制を整えていくことも、「公助」あるいは「共助」としてすすめていけるようにする。そういう社会をつくろうという「運動」を、社会運動として起こしてもらいたいと思う。
そのような、生活や社会活動の隅々からの取り組みが始まることによって、政治家への不信感や諦めを超えて、私たちの暮らしに必要な「かんけい」を作り上げていく。そういう期待をもてるように、一歩を踏み出してほしい。それこそが、安部=菅政権ばかりでなく、香港やウィグル自治区や台湾に対する中国政府の圧政的姿勢を批判し、何を護るために何を為すべきかを、真剣に我がこととして考える一歩が踏み出せる。
日本の政治体制を「かくあるべし」と想定して、私たちにお説教する政治家は、もういらない。主権者の要求を聞き出して実現しようという政治も、いらない。共産党への不信感は、自民党の安部=菅政治への不信感と同じことだと私は考えている。つまり彼らは、自分たちのイメージに(日本の政治を)もっていきたくて、いろいろと手を尽くしている。耳に心地より響きは、いずれ地獄への道と同じだったと気づく。「主権者はお客様」「お客様は神様」という政治手法は、民主主義政体の最低のやり口。もう古いのだ。そういう時代を超えて次の民主主義社会をつくるには、私たちが主体として参画する運動する民主主義をつくることしかない。
世界に蔓延っている専制的な政治センス、権力を振り回して秩序を維持し、餌を与えるように要求をお膳立てする政治センスは、無用である。私たち自身が主体であることを培える民主化運動を、社会運動としてはじめようではないか。
熟した甘柿とサツマイモが届けられた。カミサンの兄からの贈り物。85歳を過ぎて兄は米作りをやめた。その田んぼ跡に杉ばかりを植えても風情が無いと思ったのか、サツマイモを植えたら、大量に収穫できた。そのお裾分けというわけ。甘柿は家の裏庭に生っているのが目について、穫ってくれた。いずれも段ボール箱にいっぱい。むろんカミサンは喜んで、電話で話している。
カミサンは4人姉兄妹の末っ子。一人だけ大学まで行かせてもらった。他の兄姉は四国の山の村に居を構えて農業と林業、その他の仕事について、いずれも80代の人生を送っている。一番上の姉が元気であった頃は、蕨や薇や山葵が毎年届けられた。私が定年後、蕎麦打ちを覚えて打っていると知ってから、蕎麦が毎年のように送られてきた。蕎麦は収穫が大変だからとカミサンは遠い昔を見るように話していた。十五年近くも続いたが、2年前に脳梗塞に襲われて、農作業から手を引いた。
もう一人の、一番歳の近い姉とは、姉兄の様子や縁者の消息を聞かせてもらって、一番気の置けない姉妹。餅米を送ってくれたり、自宅で集落の仲間とつくる地元料理のあれこれを詰め合わせて正月には届けてくれたりした。その姉も、ご亭主が入院したりすることがあり、気鬱な日々を送っているのか、やりとりが少しばかりちぐはぐするようになった。
もちろん親の佇まいに変化があっても、わりと近くに暮らす甥っ子や姪っ子と通信がとれるから、姉兄の様子を聞くのに不都合はないが、コロナ禍とあって直に会うことができない。皆同じように歳をとることが、こういう行き来の変化をもたらすものかと、改めて気づいてため息をついている。
熟し切った甘柿は、皮を剝いて食べるということができない。柿の頂点部分の、頭の蓋を取る用意丸く切り取り、匙を入れてクリームのように熟した実を掬いとって口に運ぶ。これはなかなか上手い手だ。柿の皮はそれなりにしっかりと固さを保っている。中の実は熟してグズグズになっているから、スプーンにうまくのる。朝食のデザートに最適。だがこれが、ひと月分ほどもある。
米作りに力を尽くしてきた兄の、百姓仕事に残る思いは土を介するサツマイモにこもるが、芋掘りの大変さがどれほどのものか、見当もつかない。85歳を過ぎた体には、やはり過酷なのではなかろうか。
元気でいること、安らかに過ごすことのなかに、自然を使って生きてきた生業が、やはり体という自然を使っていたという事実のあったことを、動態的に感じ取って生産物を頂戴しているのだと、ふかくふかく思う。それが姉兄妹の関係そのものなのだと、思い起こしている。
昨日、散歩を兼ねて買い物に出た。カミサンと一緒に行き、私は荷物の運び屋。途中、植物の色合いの変わり具合や蜜柑や柿の実り、サザンカの花などを観ながら往復1万歩ほどを歩く。ところが往きの途次、ふ~っと肚の力が抜けて行くような気分に襲われる。(あっ、これって、低血糖だ)と思った。
いつであったか、もう十五年以上前になるが、同年齢の友人たちと御岳山に行ったとき、御岳神社に上る階段の手前で、一人がしゃがみ込んでしまった。当人は「低血糖だ」という。糖尿病の彼は、ときどきこうした症状が出るらしい。同道していた奥様が飴だったかチョコだったっかを出して食べさせ、しばらく休んで恢復した。その後は、皆さんと一緒に歩いて何の不都合もなかった。
そうか私にも、糖尿の気が出てきたかと思った。だがカミサンはすぐに昨日の私の食事を思い出し、カロリー不足よと言った。そう言われて気がついた。昨日のお昼は、「こんにゃくバイキング」であった。そして夜7時過ぎに帰宅して、カップラーメンを食べてお酒を飲んで済ませた。カミサンはお昼の後のコーヒーショップでクレープとクリームの大きな盛り合わせを食し、その残りを持ち帰って帰宅後の夕食にしたのであった。朝は、いつものように軽くヨーグルトとサツマイモを頂いたが、それがカロリー不足になっていたとは気がつかなかった。
買い物先で、甘い栗の和風ケーキを買って口にし、ベンチでひと休みして元気が出てからリュックに買ったものを詰め込んで、歩いて帰った。
こんなことは初めて。山歩きをしていた頃は、いつもリュックに飴かチョコか、行動食を入れていたが、いまそれは眼中になかった。歳をとると平地の散歩にも、そうした用心が必要だということのようだ。
先週中頃からの、動きを記しておく。
11/17(水)、昨年までなら山へ行く日だったが、まだムリ。図書館へ期限の来た本を返却しに行く。「返却された本」の棚に、蓮実重彦『伯爵夫人』を見つけ手に取る。何年か前、芥川賞をもらって、蓮見がそれを鼻にもかけなかったという新聞記事を見たことがある。美学専門家の蓮見にとっては、芥川賞というのをただの投げ銭のようにみていたのか。ベンチに座って読む。
なんだろう、これは。高齢者のエロスの残像を裡側から描き出そうとしたのだろうか。何とも醜悪というか、滑稽な場面が、男の視線で描き出されてくる。そればかりが延々と続く。1時間ほど読んでやめた。美学的なナニカがひょっとすると出てくるのかと思っていたが、そこまで我慢して読むほど、蓮見の美学に思い込みはない。蓮見が芥川賞を鼻にもかけなかったというのは、選好者の(元東大学長という)権威主義を笑ったのだろうか。
新規の図書を何冊か借りて図書館を出た。足を伸ばしてco-opへ買い物に行く。お昼の食材を買い求め、ぶらぶらと帰途につく。これで1万歩ほど歩くことになったか。それだけ歩くと、なんとなく一日のお勤めを果たしたような気になる。午後をボーッとして過ごす。
11/18(木)、8時に家を出て鍼灸に向かう。10時前にクリニックを出て北浦和駅へ出て、京浜東北線で新橋に向かう。新橋の旧友が先月入院手術を受け、退院したけれども声が出せない。電話をしても奥様を介して、通訳をするように会話をしていた。でも店番には出ていると、別の友人から聞いたので、訪ねたわけだ。まだ来ていなかった。奥様と姪御さんが店番をしていて、様子を話してくれる。月末の27日のseminarには顔を出すというから、そこそこ元気だとみてとる。
新橋から有楽町まで歩いて、やはり旧知の友人Tの個展を観に行く。退職して油絵を学び、ここ15年ほど個展を開いている。毎月1点描いて、12点飾るのが通例であったが、去年はコロナ禍もあって中止、今年を最後にするという。もう描かないのかと聞くと、そうではない。描くのはそれほどでもないが、個展を開くというのは、体力がいるというのだ。そんなものか。80歳を汐に、絵を通した世間との付き合いを切り上げるってワケだ。絵は、色の使い方が俄然明るくなった。彼の描く風景に、だんだん距離を置いた気持ちがこもるようになってきた。遠景にそっと思いを寄せる描き手の心持ちが浮かび上がって伝わってくるように感じる。それが明るくなったということは、ある種の「達観の境地」に到達したということか。結構なことだ。
この日も1万5千歩を超えた。
11/19(金)、カミサンをトラスト地に運び、車をおいて見沼自然公園へ散歩に出る。シロハラが飛ぶ。メジロやシジュウカラが木の実をついばんでいる。コゲラが虫を探しているのであろうか、木の幹をコツコツコツと叩いている。オオハクチョウが5羽、自然公園の池に浮かんでいる。2羽が大人、3羽がグレーがかった幼鳥。ご一家さまであろう。今秋の初見。1時間ほど歩いて車に戻り帰宅する。
明日、前橋まで行く準備をいくつかする。ほぼ1万歩歩く。
11/20(土)、早朝、前橋へ向かう。高速に乗ってから、今日が土曜日であることに気づいた。外環道もそうだが、関越道が渋滞している。ふだん土日には外出しない。若い人たちに道を譲るとカッコつけて話すが、渋滞で苛々するのがいやなのだ。ところが半年以上山へ行かなくなり、車にも遠距離乗らなくなっていたから、土日の混雑を忘れていた。考えていたより40分ほど遅れて合流地点に着いた。
関西から来た知人に逢って、午後までの空いた時間に富岡製糸場にでも行こうかということになった。家のカミサンも同道しているから、私はもっぱら運転手に専念できる。
富岡製糸場は、私も初めての訪問。世界遺産になったとかで、ずいぶんと力を入れて整備が進んでいる。日本初の近代工場とあって、開設に力を貸したフランス人の「功績」が浮かび上がる。工女の労働時間、休日や健康、寄宿に気遣う施設設備などが、建設当初の姿を(年々移り変わる者も含めて)残しておこうと、手入れをしている。フランス人が去ってからの労働時間の加重さなどは、「野麦峠」を思い起こさせた。絹の生産が1970年ころまで主力の一端であったというのは、日本の高度経済成長が軽工業から重工業へと移り変わっていく最後の花火のように思えた。また、富岡製糸場の最後の資本の担い手が片倉工業と知って、さいまた市大宮区の片倉跡地の再開発を思い起こして感慨深かった。
知人の付き添ってきた息子の「面接」が終わるまで2時間以上もあるとわかって、お昼を食べることにした。富岡製糸場の近くにある「こんにゃくパーク」へ行くことにした。そういう「名所」を調べるのは、若い人はスマホでさかさかとやる。もちろん私もカミサンも初めてのこと。
入口で長い列に並ぶ。代表者が人数登録をして、チケットをもらう。こんにゃくバイキングの無料券。列の先には、種々のこんにゃく料理が並び、それをトレイに載せてテーブルに座って、頂戴する。もちろん、バイキングだからお腹いっぱい頂いてもかまわない。それが無料なのだ。それがまた、おいしい。デザートも「こんにゃくゼリー」が用意され、それも何種もあって、飽きさせない。お昼がこれでじゃあ悪い。
「無料でいいのかしら」とカミサンは驚いている。むろん、テーブルから出口へ向かう場所には、こんにゃくを使った品々がこれでもかとばかり積み上げられ、目を誘う。安いことはいうまでもない。土産にと知人もカミサンも買い込み、もらった手提げ袋が破れそうになるほどになっていた。「パーク」と名付けるだけあって、子ども連れも若い人たちも、わんさと押し寄せていた。
時間を見計らい、移動中に息子が口にする食べ物も少し手に入れて、待ち合わせ場所へ行く。「面接」が終わった息子は「いや、面接官が優しかったよ」と肩の力が抜けたように母親と話す。ああ、こういう話しを私は息子や娘としなかったなあと振り返る。高崎駅まで送りがてら、車の中での会話を耳にする。ここが受かったら、共通一次試験も受けて、一般受験者がどれほどの実力で合格してくるのか測ってみたいなどと軽口を叩くのも、いい兆候なのだろうか。
その途次に、滑り止めの「合格」が知らされた。良かったねえ(浪人しなくて)と言祝ぐ。母子の安堵が言葉の端々に広がる。持ち本命(のこちら)がダメなら、自宅から通えるところになる。第二本命の受験が明日に控えているから、急ぎ帰るのだが、そこへも弾みがついた。
高崎駅で降ろし、関越に乗って帰ってきた。久しぶりの夜の運転。行楽帰りの車の渋滞は、終わりかけのよう。車はいっぱい走っているが、時速60~100kmで止まることなく進む。家には7時半前に着いた。
山を除けば、ふだんの日々が戻ってきたようであった。