mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

教育の哲学の欠落

2018-09-24 08:52:00 | 日記
 
 昨日(9/23)の「森絵都さん、おきばりやす。」に少し続ける。「教育」を「善きこと」と思い込んでいる作者の感覚が気になっているのだ。主人公の一人である国民学校を出た女性が戦前教育に恨みを懐き、公教育への、私から言わせると図式的な強い反発をするのは、国家権力が「教育」を損なっていると思うからである。だが、人類が生きのびる手立てとして、生まれ落ちて後の長い「養育/教育」期間ををもつようになり、ことばを伝え、振舞いを教えるという文化の伝承のかたちを生み出したのである。それが歴史的な径庭を辿って、近代国家による「義務教育」を制度化したのであるから、「教育」それ自体が「善きこと」かどうかは別として、類的存在にとっては通らざるを得ない過程だと言える。
 
 「善きこと」かどうかを別にしたのは、立ち居振る舞いを身につけ、ことばを覚え、社会に適応して暮らすという類的文化が、個々の子どもにとって好いか悪いかと価値軸を入れてみる事かどうか、わからないからだ。善し悪しよりも、そうしなければ生きていけない。しかもその「そうしなければならない」度合いの中には、近代社会というシステムが含まれる。つまり「善きこと」と前提するときすでにそこには、近代社会に適応することを善きこととみる視線が前提されている。近代社会の仕組みにおいて「国家」や「市場社会」という社会システムが前提になるのは、避けられない。としたら、その時代時代の「国家」の都合によって「教育」が行われることも、避けられない。むろん、軍国主義国家とか全体主義国家とか自由主義国家とか民主主義国家のいずれを善きこととするかには、議論を交わすことができるが、図式的な強い反発はイデオロギー的な次元が絡んでいるから、なかなかムツカシイと言わねばならない。
 
 ところが世の趨勢は、「教育」が(子どもの)内発的な向上心に拠ることがベストだと、なぜか前提にしている。どうしてそれが、いけないか。教育する大人の側が、そもそも社会システムや文化を子どもに押し付けているという、初発の権力性をついつい阻却してしまうからだ。内発的というが、フーコーのパノプティコンじゃないけれども、そうしないことには(親や大人に)受け容れてもらえないという子どもの側の不可避の事情が横たわっている。子どもはそれに適応するから、そのこと自体が内発的かどうかは、実はそれほど重要なことではなくなってしまう。親(大人)の側の「押しつけ」にしても、そうしなければ子どもが自律して世を渡っていけないという深刻な都合もある。だから「押しつけ」を善いとか悪いとかいう次元ではなく、やむを得ざることと承知せざるを得ないのが、実際のところだ。ただ、適応しない(できない)子どもの振る舞いに、ひょっとしたら大人が前提にしている現在の社会システムや知的な学習が間違っている(かもしれない)と指摘する契機が潜んでいるとみてとることが、類的蓋然性を少しばかり幅広く和らげる。その視点を外してしまうと、やみくもに現体制文化を保持する方向にしか、世の中が動いて行かないからだ。
 
 それを私の現役時代のグループは、「教師権力的存在論」と表現し、その「教師の権力性」の自覚こそが、生徒と向き合うときの自戒の第一歩と考えたのだった。だがその「提起」は、「教師は権力的であっていいのだ」と、教育現場における指導・支配の正統性の裏付けをしたように受け取られた。当時(1970年代)の状況は、(一億総中流のもと)高校への進学率が一挙に大衆化し、それに比例するようにして教室の秩序が保てなくなり、校内暴力や登校拒否が広がっている、と盛んに報道がなされていた。のち(1980年代)に「学級崩壊」「学校崩壊」と名づけられるような事態が現場には生じつつあり、それを学校の「管理主義」が引き起こしたこととして、教師の権力性を指弾する声が高まっていた。だから私たちの指摘は、国家権力による教育支配を現場の論理で補完するような言説とみなされ、どういうわけか(保革対立の構図の中で)、保守勢力の一角に組み込まれるようでもあった。
 
 世の中の受け止め方がどうであれ、私たちは教師の自戒という視点を欠いたことはなかったが、それは、類的蓋然性として「教育」がもつ(教師と生徒の)「関係性」と、それがもつ「痛み」を携えながらも「教育」せざるを得ない大人の自戒を、論題として定式化したつもりでいたのであった。それを私は、不可能性の上の可能性の追求と、ロマンティシズムを湛えて表現したものであった。
 
 だが、今月の「ささらほうさら」で講師がとりあげた「教師の権力性」の展開は、教室秩序の維持のために、恐れず教師の権力性を行使したという自画自賛的な結論ばかりで、なんだか「教師権力的存在論」の体制文化補完的な要素だけが受け入れられていたのだと、痛感させられるようであった。
 
 なぜそうなのか。存在の根柢において文化の伝承がどうなされるかに位置づけて、「教育」をとらえていないからではないのか。子どもの初発の意欲や好奇心を継承する類的文化の癖ととらえずに、価値的に「善きこと」とみているからではないのか。つまり、教育の哲学が欠けているのではないか。そう思いつつ、半世紀の径庭を振り返ってみているのである。

今日は秋分の日、そして、満月

2018-09-23 17:29:34 | 日記
 
 森絵都『みかづき』(集英社、2016年)を読む。どうしてこの本を手に取ることになったのかは、わからない。何ヶ月か前に図書館に「予約」をし、それが届いたからなのだが、なぜこの本を予約したのかは、覚えていない。何ヶ月か前に何かの本か雑誌を見ていて、この本のことを書いた記事を目にしたのだったか。
 
 子どもの教育と、彼らの通う学習塾のことに取材した小説である。文科省がどんなに「ゆとり教育」を掲げようと、学習指導要領を子細に書き上げようと、学校教育が学習において取りこぼしていく児童・生徒の多いのは、変わらない。「取りこぼしていく」というのが、学校卒業後に待ち構える「受検」の関門を上手くくぐることができるかどうかを意味していることも、いつの時代にも変わらない。だから最近、「AIに負けるわよ」という声の合間から、エリート教育などとは言わないが、MARCHレベルまで到達して開発をやめた東ロボ君の開発を先導していた東大教授が、そもそも若い人たちの「読み書きの仕方がなっていないじゃないの」と声高に叱っているのが、目につき、面白い。国中が「勉強、勉強」と子どもたちの尻を叩いていても、(有名校への進学とか将来の職業とか出世とか考える以前に)人として一番肝心の「読み書き」がちゃんとできていないわよと叫んでいる。この声が私には、人が生きるのに必要な「読み書きの仕方」って、デジタル世界に合わせたそれでいいの? と皮肉っているように思える。
 
 森絵都が描くのは、敗戦後から21世紀に入るころまでの文部省の教育改革とは別個に社会に進行してきた学習塾の担い手たちの気概と変遷である。そして、一億総中流という時代を経ても捨て置かれてきた子どもたちの存在に目を向ける人たちが問いかける、教育の原点である。上澄みをなぞるような状況描写のなかに、ポツンポツンと文字が読めるとはどういうことか、自分の想いを伝えることができるとはどういう意味を持つかという「(人にとって言葉を手に入れる)原点」が浮かび上がる部分があり、胸を衝かれる。ただ、そこに深入りすることなく、センチメントな感懐に集約する。主題を担う登場人物が自分の著書の出版記念会で以下のような述懐をする。
 
《どんな時代の(教育を論じる)どんな書き手も、統制の教育事情を一様に悲観している……読んでも読んでも否定的な声しか聞かれないのに……辟易したけれども……常に何かが欠けている三日月。教育も自分と同様、そのようなものであるかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積むのかもしれない……》
 
 「人格の形成」だとか「市民を育てる」だとか「国民教育」というテーマはどこかに消えてしまって、ただただ「学力の向上」ということに(大人たちが)どう応えるかが、この小説の焦点となっている。そのために、大人の善意性を疑わない子どもとの関係が主旋律を奏でる。文筆を生業とする森絵都という方が「読み書きの仕方」の、存在論的な意味に気づかないはずがないと私はおもうが、その「さわり」をちらりとみせるだけで踏み込まない。そこへ踏み込まないと、「ゆとり教育」へも「生きる力」への批判にかすりもしない。たぶんその「原点」に踏み込まない限り、教育格差さえも単なる奇特なボランティアとして「美談」に終わる。
 
 学校vs塾という(森絵都の設定した)構図が狭すぎたからなのか、文部省との絡みまで登場させながら、上滑りしてしまいましたね。やはり人物の存在論的な根っこに足をつけていなくてはいけないんじゃないですかね。ことに子どもの教育を取り上げるのであれば。
 
 今日は満月。秋分の日。陰暦の八月十五日の月とみれば仲秋の名月。そんな日に、「みかづき」を読むなんて、なんというめぐりあわせ。「欠けている自分」と「みかづき」重ね合わせるロマンティシズムも、不可能性の上に可能性を探求するというところ組み込めば、少しは重松清の作品のように、胸に響くものになったであろうに。森絵都さん、おきばりやす。

AI評価の大きなブレ幅は何を意味するのか

2018-09-22 15:09:10 | 日記
 
 AIとビッグデータに関する報道がどこにでも見られるようになった。いずれも将来像を気に掛けているのだが、いますでに結婚相手の組み合わせを持ち掛けたりして、相性がいいと良くないというこにまで「介入」している。もちろんそれを受け容れる人がいるから成り立っているのだが、神様のお告げのようにAIのご推奨を受け容れるのは、そのご推奨がブラックボックスだからなのだろうか。
 
 キャシー・オニール『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』(インターシフト、2018年)は、集めるデータ、それを処理するアルゴリズム、その提示する評価を「利用する場面」のいずれにも、人間の価値観や恣意が組み込まれている。だがそれがどのようなことを意味するかは、ブラックボックスとなって公にされないから、それを使う側の利便性とか効率性とかに(結果的に)資する限り、使い続けられる。これって、大丈夫なのかと、誰か疑いを挟まないのだろうか。そのようにして「設計」された社会的アーキテクチャーに、私たち大衆は身をあわせて暮らしている。その適応がいつしか人間の感性や感覚や価値観を換える。オニールは、そういう疑問を持つ目をもっている。だが、AIに関する楽観的な未来像は、オニールの懸念にお構いなしに、暴走を始めているように思えてならない。
 
 2018年8月16日の朝日新聞の「文化・文芸」欄に、「夏の集中講座――意識の移植」という記事が載った。東大准教授の脳科学者・渡辺正峰さんが「機械にも意識が宿る日が来る」と述べている。脳の神経回路を模した機械をつくることができれば、意識が宿るはずだ、として、次のように言う。
 
「人間らしく振る舞う機械は既に存在します。見た目だけでなく動作や受け答えまでまるで人と変わらない機械もできるでしょう」
 
 ただそれが「他人と同じことができる時点で機械に意識は宿る」ということに、渡辺は留保をつける。つまりそれはあくまでも「らしく」振る舞うだけとみているようだ。だが彼は、「自分の脳を機械につなぎ、自身の主観をもって機械の意識を味わう」ことはできるとみている。機械の体験を感じとる、ということのようだ。
 
 渡辺は「マッドサイエンティストと呼ばれてもある意味仕方ない」として「倫理的な問題で仮に先進国では許されなくても、こうした技術を活用しようとする国は出てくるでしょう」と(ご自分を棚に上げて)述懐する。まいったねえ、暴走する方々が、「仕方がない」と言ってては、歯止めも何もできるわけがない。たとえば、いつか記した東ロボの制作を断念した新井紀子が、AIに追い越される心配をする暇があったら、子どもたちの読解力をMARCH以上に引き上げることを考えなさいよと言い募っているかと思えば、渡辺のようにケロリとマッドサイエンティストの出現を予想する。そしてAIのアルゴリズムというのは、ビッグデータともども、読み取り方が解き明かされないままに、暴走を始めている、というわけだ。
 
 大阪大学の石黒浩教授が「百年後の人間は無機物になっている」という。それが、案外、ほんとうになっていたりするのかねえ。

「悪」の凡庸さ

2018-09-21 09:19:09 | 日記
 
 仲正昌樹『悪と全体主義』(NHK出版新書、2018年)を読んでいて、昨日観た映画『検察側の罪人』で感じたことが、より鮮明になる感触を得ました。「ハンナ・アーレントから考える」と副題された本書で、仲正は「エルサレムのアイヒマン」を読み解いて「悪の凡庸さ」についてこう記しています。
 
《アーレントが見たアイヒマンは、自らが「法」と定めたヒトラーの意向に従っただけの、平凡な官僚でした。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしていたにすぎず、そこには特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾(たぎ)るような憎しみもなかったのです。》
 
 上記の記述を「悪の凡庸さ」と受け止めるには、二つの媒介項をおかねばなりません。
 一つは、ヒトラーは、それまでの世界で最も民主的と評されたワイマール憲法下のドイツで、合法的に誕生した政権であり、かれが絶対権力をもつ総統になったのも、全く合法的だったこと。つまり、遵法精神の旺盛なアイヒマンが従うと定めた「ヒトラーの意向」は、まさに当時のドイツの「法」だったことです。
 もう一つは、アイヒマンがカントの哲学に心酔していたという事実です。と同時に、カントの哲学はハンナ・アーレントの堅固な拠り所でもありました。仲正正樹はカントの「定言命令」を説明して、《市民たちが理性的に合意し受け容れた「法」にしたがうことこそが、市民にとっての自由なのです》と述べている。そして、「法」に規定されているから従うというのではなく、その「法」の精神に則って、「法」の規定以上にその精神に実現に尽力することこそ、市民の義務だと(カントを信奉する)アイヒマンは受けとめていたということです。
 
 つまり、上述の二つの項目を受け容れると、もっとも誠実な市民像が浮かび上がります。またそれは、私たちの日常とほぼ重なってきます。だからこそ、アーレントが「エルサレムのアイヒマン」を発表したとき、喧々囂々たる非難が湧き起り、アーレントは「親しい友人を失った」とも記しているそうです。仲正はその中核に、「自分もユダヤ人の大量虐殺を実行するのと同じ凡庸さをもっている」と畏れたからだと指摘しています。アーレントは、ナチスを憎む(アイヒマンを不法に拉致しエルサレムで裁こうとする)ユダヤ人の思考構造がナチス(の裏返しにすぎない)同様だとみてとったようでしたが、これが被害に遭って収まりのつかない当時のユダヤ人の心情を逆なでしたようでした。
 
 『検察側の罪人』を観ているときの私の胸中に湧き起る(犯罪者への)嫌悪感、近代法的な「時効」という罪科免責の制度では収めがたい嫌悪感の始末感情を(アーレントに)言い当てられたようでしたが、といって、検察側の罪人に共感している私自身を難詰する気持ちは、一向に湧き起ってきませんでした。つまり、私の自然は、ビクともしなかったのです。そうだ、そうですよ。私もアイヒマンですとは、さすがに思いませんでしたが、近代法に守られた「犯罪者」が偶然起こった高齢者ドライバーのひどい運転に巻き込まれてしまうのを、留飲を下げるように観ている私を、じつに諄々と受け止めていたのでした。
 
 凡庸なる「わたし」と、それを感じている「わたし」がせめぎ合っている。それを悪いことではないと思っているのが、今の私なのです。

世界の違い

2018-09-21 06:02:21 | 日記
 
まるごとの存在を直感する生物的核

  今日(9/20)の朝日新聞「折々のことば」に戸井田道三のことばが取り上げられている。 《わたしには「生きがいを求める」というのがどうもうさんくさい気がします。いのち......
 

 一年前の記述をすっかり忘れていることに気づく。いや、何をいまさらとも思うが、あらためて読み返して、そうか、そうだよねと、2017年fjtmukanに同調している。それにしても、と思うのだが、鷲田が謂う「一つのいのちがここにあること自体が、他のいのちとの共生による一つの達成である」を、「できなくたっていいんだ にんげんだもの」とあいだみつおのようにいってしまうと、まったく違ってしまう。あいだみつおの「せりふ」は、戸井田が謂う「生きがいを求める」思考線上におかれている。つまり、価値的に戸井田がこぼした「うさんくさい気がします」という批評を、あいだは受け入れなければならない。鷲田の「……他のいのちとの共生による一つの達成である」の次元を見失っている。

 こうした次元の違いを感知しないやりとりを、近ごろ感ずることが多い。彼の人の言っていることに違和感を感じて言葉を発しても、受け付けてくれない。私は鷲田次元で言葉を紡いでいても、彼の人はあいだのように受け止めて、さらに言葉をつづける。私自身は、もうそれで、ことばをつづける気持ちを失う。そんなことが、けっこう多くて、私の「表現」の拙さを思い知らされている。

 人間観といってしまうと、なんだかそれも「ちがうよなあ」と身の裡のどこかがぶつぶつ言っているから、もっと子細に踏み込まなければならないのかもしれないが、魂と身体とか、自然観とアイデンティティとか、そんなことのどこかから始めるのは、途方もないことのように思えるし、たぶんその、彼の人の抱懐する「世界」と交錯するのはムリ、と感じられるほど「世界の違い」が横たわっているように思われる。