mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

謎にみちびかれて「お伊勢参り」

2017-11-21 11:55:33 | 日記
 
 26日(日)からお伊勢参りに行く。内宮の早朝参拝などの「特別参拝」もある、ついては「ドレスコード」があるというので、少し煩わしい「メール」のやりとりをしていたら、tkくんから以下のような「追伸」メールが届けられた。
 
《なお、ご参考までに。私は今、講談社文庫、高田崇史著の「QED 伊勢の曙光」を読みかけてます。ストーリーそのものは、たわいもないミステリーですが、書かれている伊勢神宮等に関わる記述は、引用(古事記、日本書紀から始まり、その他)はものすごく豊富でなかなか勉強になってます。もしお時間あれば、一読をお勧めします。》
 
 もう半年前になるが、「お伊勢参りと私」とか「天皇制と私」とタイトルをつけて、伊勢神宮のことを少しばかり読み耽ったことがあった。そのエッセンスは印象深く記憶に残っているが、大半は忘れてしまった。想い起すために読んでみようかと図書館に予約したら、すぐに届いた。2014年発行の文庫だが、初出は2011年。この著者のミステリー、QED(証明終了)シリーズの最終巻のようだ。
 
 たしかにストーリーそのものはたわいもない。だがこの著者が、ご自分の調べた「伊勢神宮」にまつわるコトゴトはすべて書き込んでみようとしている気配があって、「勉強にはなるかも」と思いつつ、読みすすめた。いくつかわかったことがある。
 
 ひとつは、世の俚諺に「よく問うことは半ば答えること」というのがあるが、ミステリーというのは、「疑念」を提示し、それを繙いてみせるのが仕事。著者の高田祟史は「QED」を使命としてそれを忠実にやっているから、読みすすむにつれて、お伊勢さんに関して自分が何を問題にしているのかが、徐々に鮮明になったことだ。「お伊勢さんと私」に記したことだが、当初、記紀神話を読んでいて困ったのは、登場する神々が見なれない漢字(の和語読み)で表記され???となってしまうことであった。伊弉諾、伊弉冉、素戔嗚はまだしも、瓊瓊杵尊とか天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という神々の名に最初は仮名が振られて現れ、ああそうかと思いつつ読むが、なかなか記憶に残らない。物覚えが問題と思っていたが、そうではないと分かった。それら神々の「かんけい」がわからないから、覚えられなかったのだ。それがだいぶほぐれてきた。
 
 さらに高田が提示した伊勢神宮にまつわる「謎」の数は30に上るが、(私の)知らないことが多くあった。そのうち、今回のお伊勢参りにかかわると思うところを取り上げておくと、だいたい次のようなことになろうか。
 
1、なぜ内宮より後に建てられた外宮からお参りするのか。
2、なぜ祭祀も、外宮が先――外宮先祭なのか。
3、外宮の様式は「男千木」(内宮は「女千木」)だが鰹木の数も奇数本なのか。祭神は豊受大神(女神)なのになぜ?
4、なぜ五十鈴川を渡ってから下るのか。
5、なぜ外宮内宮ともに参道が九十度折れているのか。天皇家の祖神が怨霊だというのか。
6、なぜ天皇は明治の御代まで公式参拝されなかったのか。
7、なぜ明治になってから参拝したのか。
8、鳥居に注連縄がない。狛犬がいない。賽銭箱がない。神殿正面に鈴がない。なぜか。
9、本殿正面に蕃塀(ばんぺい)が建てられているのか。
10、興玉神(猿田彦)が内宮の片隅にも祀られているが、なぜそれほど猿田彦を祀るのか。
11、伊勢神宮の落ち着き先を探すまでの倭姫巡幸で24カ所も転々としたのはなぜか。その資金はどこから出ていたのか。
12、当時あれほど住みづらかった伊勢に落ち着いたのはなぜか。(伊勢は最果ての地であった?)
13、なぜ五百年も経ってから、豊受大神が呼ばれたのか。
14、なぜ二十年に一度遷宮を行うのか。
15、なぜお伊勢参りに、あれほど多くの人が熱狂したのか。
16、そもそも「神宮」とは何なのか。「神社」とどう違うのか。
 
 私たちのお伊勢参りは外宮と内宮だけでなく、倭姫巡幸の折、伊勢に拠点を定める想いを決する厳の宮にも足を運ぶ。今は訪れる人が少なく、西行が「なにごとのおわしますかわ~」と詠んだ雰囲気を湛えるといわれているところらしい。上記疑問の、「12」の謎に関わるかもしれない。1~5、8~10の一部は、言ってみてみれば(事実は)わかる。謎解きは別として、この疑問を共有することはできるだろう。
 
 読んでいて、ちょっと私が別のところから仕入れた知識と交錯することがあった。
 
(イ)「巫女は遊女でもあった」という記述。つまり伊勢は遊郭もあり、葦の原であったところは「吉原」と名を変えて呼ばれたと、ほとんど冗談のように記されていること。「15」の謎への回答のひとつとされている。歴史家の網野善彦が女性史を書き記していた中で、同じようなことを言っていた。もっとも彼の記述は、聖なるものが卑賎なるものと卑しめられる転換が、中世に(14世紀から16世紀にかけて)進行したというものであったが。
 
(ロ)伊勢神宮の禰宜の交代。「持統天皇の御代までは、内宮・度会、外宮・中臣であった禰宜が、内宮・荒木田、外宮・度会となった。禰宜はよほどのことがない限り世襲制であったから、よほどのことがあったと考えられる。……直木幸次郎がいうように、荒木田は「アラキダ=墾田」で、新田開発の意味だから、比較的新興の氏族。これに対して渡会氏は、渡会という地名を氏族名としているように、南伊勢では古い伝統を持つ土着の名門の豪族であった。」とある。これも(イ)の網野善彦の論述によるが、ちょっと回りくどいけれども、重要なことなので、お付き合い願いたい。
 
 網野によると、中世史の古文書を読み解いていて、「百姓」という呼称は農業に従事しているものを指すのではなく、「普通の人びと」の一般名詞だと断定している。つまり、漁業も、林業も、海運や商業、鉱工業に従事するものでさえ「百姓」に含められていたりする、と。そうしてどうしてそうなったのかを解いて、班田収授法が布かれ律令制によって国家の運営がはじめられたとき(実際には田を分けるほど農地があったわけではなかったから)、「稲作/田圃」に置き換えて人々の「収穫」を換算する方法が採用され、「すべての人々=百姓」とされたというのである。以前「天皇制と私」でお伊勢さんの物語をたどったとき私は、私の姓に「田」がつくことから百姓=農家の系譜をたどってきたと「ご先祖」さんをみてとり、お伊勢さんとは(たぶん)深い関係があったと了解していた。だが、網野善彦の論述を読むと、私の父方の商人の系譜もまた、百姓のうちなのだと思われ、つっかえが一つ氷解した様な気がしたものであった。(ロ)の記述は、持統天皇の御代以降、墾田開発が奨励され、それがまた、国の基となることを国家存立の大本に据えたと読み取れる。
 
 (ハ)高田は天照(アマテル)と天照大神(アマテラス)とを峻別しているが、これは私が目を通した、林順治『アマテラスの正体』(彩流社、2014年)でも、渡来部族である加羅系の始祖王崇神のことを「アマテル」と指摘し、後に物語りのなかで煮詰められて「アマテラス」として再生している、と述べている。高田は、天照は男神であり猿田彦であり、じつは伊勢原住の神々(複数)ではなかったかと想定している。それを制圧した持統が、彼岸・死霊の世界として伊勢神宮を「確立」して怨霊を鎮めるために「アマテル」を「アマテラス」として再生させ祀ったと、話しが出来上がる。
 
 面白いと思うのは(これも網野善彦などの記述によるが)、16世紀の戦国の時代までは、東西二国の統治が行われていたとみなしている。奈良・平安の時代にも、藤原氏などの力の及ぶのはせいぜい伊勢、木曾の先辺りまで、と。そう考えると、作家・高田が記すように、伊勢が地の果てであったことが了解できる。東国は別の支配領域であった。それが統一国家の様相をもつようになったのは、13世紀末から15世紀に及ぶ下剋上の戦乱をへて(天皇制においては南北朝の対立も含めて)、旧秩序がかき混ぜられ、統治ということについての(人々の)意識が大きく変わったからだと考えられるようになったからと思われる。そういえば、よく日本文化の、食事文化(味噌汁の白みそと赤みそ)や言葉や風俗習慣の分岐領域がおおよそフォッサマグナの亀裂に沿うように観られるとか、木曾と美濃・信州が境目とされるのには、案外こういう歴史的経緯があったのではないかと、腑に落ちる思いのするところがある。
 
 (ニ)「神宮とは何か」の謎解きが面白かった。「宮」のウ冠の下の「口」と「口」をつなぐ「ノ」のない「宮」が、明治神宮の「宮」となっている。古い字体だということだが、高田はこのふたつの「口」をつなぐ「ノ」が「橋」であり、彼岸と此岸をつなぐものではないかと想定して、謎解きをする。つまり、「神宮」とは彼岸のことであり、死霊の世界であるとともに、怨霊の霊威が此岸におよぶのを封じる場であるとみなされている。これは「聖なるもの」が彼岸と此岸をつなぐ霊威をもつものであり、それゆえに畏れられ、再生・蘇生の力ももつとみなされていたと敬われていた。それは「百姓」という普通の暮らしをするものの立場から見た「畏れ」「期待」であり、巫女や祭祀を司る「神宮の内側」にいる人にとっては、絶え間なく供犠を求められ、それを提供する「御饌」の司を執り行うことを意味する。
 
 伊勢神宮が天武・持統朝に創建されたとしても、すでに1300年余、毎年毎日欠かさず、稲を育て、貝魚をすなどり、火を(手ずから)熾し、御饌を手向けつづけてきた、神宮の宮司や官司の人たちの心裡を支えたエネルギーの源は何であったろうと、新しい疑問が私の身の裡に湧いてきている。まあ、そうしたことを、わが目で見てこようと思っているのである。