mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

子どもの生きる世界とか

2017-11-24 08:14:15 | 日記
 
 イタリア映画『はじまりの街』(2016年)を観る。夫のDVDに耐えかねて、子どもを連れて女友達のすまいのあるトリノへ移り住む。仕事を探し三交代で働く。13歳になる子どもは、突然友人とも切り離され、新しい街にともに遊ぶものもいないままに、自分の居場所を探す。その地に住む「外国人」という元サッカー選手、街の娼婦、なによりも同居を喜んで迎え容れてくれた女友達との交歓が描き出される。だが観終わって、[だからなに?]という疑問が浮かぶともなくつきまとう。何が言いたかったのだろう。
 
 この映画のチラシは「心優しい人たちが紡ぐイタリアから届いた感動の人間ドラマ」と手放しでほめちぎる。ま、そりゃそうか。宣伝チラシがほめちぎらないでどうする、だね。だが「この世に人生ほどいいものはない」って、何だか前世紀の遺物のような物言いだね。映画事情に詳しいわけではないから、これがイタリア映画の新しい目の付け所とも思えない。観ている日本の凡人としては、何だイタリアも日本も、同じようなものだねと思っている。
 
 もし何か一つ、テーマとなるものを観てとるとしたら、子どもの世界は子ども同士でしかつくれないということか。でも、それが描かれているわけでは全くない。トリノに移住して、学校でも孤立的(なぜそうなのかは全く触れていない)なヴァレリオが、街の(大人の)「心優しい人々」のかかわりがあったからと言って、子ども自身の内的な世界はちっとも充たされないと描いてはいる。
 
 もう一つテーマらしきものを拾うとしたら、母と息子の「思春期(自律期)」の関係のありよう。この母親アンナはヴァレリオの自立の心的動きを感知していない。もちろん暮らしを立てていくための算段に精一杯であるから、そんなことは要求しようがないのだが、それを意識してこの映画がつくられているかというと、どうもそれほど意識の視界に入れているとは思えない。日常的にそういうことってあるよなという程度の触り方に思える。
 
 いや、そういうテーマを求めるってのは野暮ってもんだよ。トリノのイタリア人の日頃の暮らしぶりが浮かび上がって、そこで交わされる人と人との情の交歓が描き出されていれば、それで十分ってもんじゃないのかと声が聞こえてきそうだ。そうかもしれない。そういう目で見れば、日本とそう変わらないじゃないの、イタリアって。私のこのエッセイと同じで、日常の一部を切りとって、ポンと提示してみせた。その日常が無意識を反映していて、監督ご本人も気づかないことが描きこまれているかもしれないじゃないか。そういう手法って、身を捨てて浮かぶ瀬もあれっていうのと同じで、面白いんじゃないの。ま、そういうエッセイみたいな映画が気軽につくられているよというメッセージだったのかもしれない。でも、わざわざ遠くまで足を延ばして観に行くような映画だったかどうかは、相変わらず疑問のままだ。

わが身の盛衰を推し測りながら山を歩く

2017-11-23 11:27:50 | 日記
 
 やはり幸運に恵まれたというべきなのであろう。昨日(11/22)、御岳山から登り、大岳山、鋸山を経て奥多摩へのロングコースをたどった。幸運というのは、天気のこと。「曇りのち雨」の予報。ところが往きの電車は明るい陽ざしのなかを走る。上空に雲は張り出しているようだったが、青梅線の車窓から富士山がくっきりと見える。気温はうんと低い。羽毛のベストをつけ雨着の上を羽織ってちょうど良いほど。鼻水が出るから気温は5℃くらいであろう。
 
 御岳駅からバスに乗る。座席はいっぱい、立っている人も何人かいる。皆さんリュックを背負っている。ケーブルカーに乗り継いで御嶽山頂駅に降り立つ。標高880mというから、ずいぶん楽をしたことになる。紅葉はもう終わりかけている。今日のコースを提案した私は、奥の院を踏んだことがない。kwrさんは「歩いたことがある。まっすぐ道なりに行けばいいんだよ」というが、いつだったか下見のつもりで歩いた私は、どこかで奥の院をスルーする道へ入ってしまっていた。3年前に同じコースを歩いたというmsさんは、自分の体力がどこまで落ちているか見極めるつもりだと意気軒高だが、コース案内を頼むと「そんなあ、人について行ったからわからないわよ」とにべもない。ケーブル降り口にあるイラストマップをみると、「奥の院、鍋割山、大岳山」への踏路が記されている。みていた若い女の二人連れが「鍋割山って、ここから行けるの?」と驚きの声をあげて、私をみる。「えっ?」「丹沢じゃないの、あれは?」という。「ワープするんですよ」とからかうと、あははと笑って嬉しそうだった。9時に歩きはじめる。
 
 参道は平らな舗装路がつづき、ときに急傾斜で上り、ときに下る。御岳神社の山門をくぐりさらに上への階段があるところに「←奥の院・大岳山」の小さい標識がある。石碑石柱をみていた誰かが「御岳講が、ずいぶんたくさんあるんだね」という。「そういえば、こちらは神社、高尾山はお寺だね」と返す。地図では幾筋もの登山道がある。oktさんもkwrさんも迷うことなくずいずいとすすむ。結構早い。分岐ごとの標識に「↑奥の院・鍋割山」と出た。天狗の腰掛と呼ばれる杉の大木がある地点だ。「←大岳山・御岳神社→」という標識と60度くらいずれているから、下見のときは急ぎ足で見落としてしまったのだろう。「先達・半澤イチ」と大書した石碑が立っている。なんだろう、これはと思うが、詮索はしない。そこから急な上りになっている。
 
 oktさんが先頭に立つ。スギの大木が林をなす。木の幹に番号を振った札が打ちつけられ、「1731」などとだんだん数を増している。御岳神社のスギを保護するために、大木一つひとつに名前を付けたのであろう。番号の抜けたところもあったのは、すでに切り倒されたのであろうか。足元の落ち葉はますます深くなり皆さん黙々と歩く。私のすぐ前のokdさんが小声で何かを歌っている。詩吟を唸っているのかもしれない。歩きはじめて1時間5分、石段を上がって奥の院の社に着く。そこで道は右と左に別れ、右へたどるとすぐに行き止まり。左の険しいルートがご正道のようだ。最後尾にいた私が先導するようになった。すぐに「奥の院峰1077m」に出る。地図では何棟かの建物があるように赤い印がついていたが、そういう余地も気配もない。岩の積み重なった、今度は下り。慎重に降りる。
 
 巻道と合流して尾根歩きがつづく。鍋割山は、何の変哲もないピーク。快調にoktさんは進む。kwrさんがつづき、そのあとにmsさんがついて行く。あとでmsさんは「OKコンビが先を歩くのがいい」とご満悦の様子であった。奥の院ルートと別れた別ルートと合流し、大岳山に向かう。上から降りてきた人が「熊をみなかったか」と聞く。「いや、見なかったが、どうした?」と前の方でやりとりをしている。先ほど山頂に登って来た一組が「熊をみた」と話していたので、様子を見ていたそうだ。歌を歌っていたokdさんに、あなた前を行けよと声がかかる。okdさんは古い歌しか知らないからと妙な言い訳をしている。岩場に差し掛かる。上から降りてきた3人連れのお年寄りが「この先岩場、恐いよ。でも若いから大丈夫か」と声をかける。「若いったって、もう古稀過ぎてるよ」と応じると、「へえ、ずいぶん若いんだね」と返してきた。そうか、ずいぶんお年寄りなんだとおしゃべりが弾む。
 
 狭い岩場のルートを登る。なるほど、ケーブルとところのイラストマップに「大岳山(上級者向き)」と書いてあったのはこれのことかと、なとなく得心。朽ち果てている大岳山荘上の広場に着く。スタートしてから2時間半、おおむねコースタイムだ。ここから山頂までひと登り。と、kwrさんが木に掲げられている「ご注意ください」という掲示に目を止めた。そこには「大岳山から鋸山~奥多摩コースと馬頭刈尾根コースは約4時間のコースになります。日照時間を考慮し、行程には十分ご注意ください。ライトをお持ちですか」と記してある。
 
「ああこれは、私たちの歩くコースですよ」
「おい、大丈夫か」
 
 とkwrさんは心配そう。ここまでのペースなら、3時半に奥多摩に着くかなと、私。それに皆さん、まだまだ元気だ。休んでいるとき、耳に入った話がある。「血管年齢を調べたら89歳だった」と60台半ばのmsさんが話している。話し相手のmrさんは「私はね、若いって言われたのよ。いくつだったと思う」と応じている。「あっいや、言わないで。聞きたくない」とmsさん。「血管年齢じゃあ私120歳よって、ギネスに登録してもらったら」と誰かが口を挟んで茶々を入れる。年寄りの会話だが、こうやって、自分の体が年々衰えていくのを実感しながら、山を歩く現在を味わっているといえようか。
 
 山頂には11時50分着。雲がすっかり空を覆い、予報通りの曇りになった。風が強い。寒いというより冷たい。kwrさんが山陰の窪地の枯葉の溜まったところに腰を下ろして、ここで食事にしようと声をかける。それぞれに場所を占めて、お昼にする。大岳山荘の「注意書き」が話題になる。「4時間もかかるんですか」と誰かが言う。私が「コースタイムで焼く3時間です」と応えると、「ここまで3時間かかっているから、それじゃあ6時間のコースじゃないですか」と抗議口調。kwrさんが「いや、だから、5時間55分のコースっていうんだよ」と混ぜ返す。「15時を過ぎると天気が崩れるっていうから、それまでに下りたいですね」と声が出て、腰を浮かす。12時20分。30分のお昼タイムで出発した。
 
 OKMの順に歩く。初め少し岩場の急峻な下りがつづいた。ここを登るのはたいへんねと言いながら、それでもペースは落ちない。「こういうところって、高度を稼げるからいいのよね」と、msさんが気を楽にするように皆さんに呼び掛けている。下から若い軽装の男がやって来て道を譲ってくれる。トレイルランナーのようだ。聞くと御前山を経てきたという。すれ違って振り返ると、彼らは軽々と登っていく。もう一組あとからトレイルランナーとすれ違った。都民の森から走りはじめたという。これはすごい。若いってすごいねと言いながら、でもどこかで(トレイルランナーでもないのに)自分を重ねて見ている。
 
 鋸山に着く。13時40分。1時間20分で来ている。コースタイムより10分早い。このペースだと3時少し過ぎに下山できる。でもなあ、疲れが出てくるからなあと心配は継続している。ベンチに腰かけていたmsさんが何かメモをみている。みると今日のルートのポイントごとに予想到着時刻を書き込んである。「コースタイムをこうして書き込んでおくと、自分の歩くペースがどれくらい落ちているかわかるでしょ」と事前準備のひとつとしている。それを見ると、ここまでですでに45分遅れている。お昼タイムは30分組み込んでいる。「奥の院を回ったから」とmsさんは話すが、やはり岩場の上り下りが時間をとっているのかもしれない。「上級者向けコース」だもんなと慰めにもならないことを思う。先頭を歩いているoktさんが太ももが引き攣りそうなのか、四股を踏むような体操をしている。
 
 あいかわらず岩場と急な下りをOKMこんびが先行してくり返す。スギとヒノキの樹林ばかりがつづき、ところどころに黄葉する広葉樹が目を惹く。何かを祀った祠と二柱の石碑が建つところに来る。すでに15時を過ぎているが、標高はまだまだありそうだ。その先の樹林の中を歩くにつれ、暗くなってくる。私の暗いところでの視力が落ちているからそうなのか、ずいぶん暗くなった。というのも、カメラで写すと案外明るく映っているから、私の眼が悪いのかと思う。大岳山荘の「ライトを持っていますか」という注意書きが思い浮かぶ。歩きながらそれを話すと、持ってるよという声が多かった。これなら大丈夫だ。
 
 やっと愛宕神社に着く。15時55分。鋸山から約2時間かかっている。やはり後半戦のタイムロスを見込まなければならないようだ。急峻で狭い石段を180段ほど下ったころ雨がぽつぽつと落ちてきた。雨具を出していて最後尾になったoktさんが、登計園地に降りるころ「やっぱり降りるのは最後尾だな」と残念そうな声を出したのが印象的であった。車道に沿って橋を渡ったのは16時19分。駅に着くと22分発の電車があるというので、大急ぎでトイレを済ませ電車に飛び乗った。朝出発した御岳駅に着くころにはすっかり暗くなり、ヘッドランプがいるようだなとkwrさんと話した。
 
「そうです。2時には下山するように(計画)しなくちゃあね」
 
 というmrさんの声が胸中に甦った。ごめん。

怨霊なんて怖くない、か

2017-11-22 19:41:10 | 日記
 
 森見登美彦『夜行』(小学館、2016年)が図書館から届いた。去年の今ごろ上梓されている。たぶん何かの書評をみて、気になって予約したものが、今ごろ届いたのであろう。でも初めの方を一読して、やめようかと思った。こういうファンタジーものというか、落ち着きどころのない妖異譚は何を言いたいのかわからなくて、持て余す。人が消える。ふと現れて違和感を齎し、場をかき混ぜて姿を消す。妖しいが、だから何なのと思うほど、危害を加えるでもなく祟るでもない。でもなぜか、人の心裡を覗いているように言葉を紡ぎ、不安に陥れる。不安にさせるだけなのだが、なぜそうさせるのか、なぜそうなるのか、わからない。四編に別れた連作ものだが、最後になって、謎が解き明かされる。裏と表、昼の世界と夜の世界、陰画と陽画が変わるだけの、どちらに身を置いて語っているのかが不分明であるが故に生じる、読み手の不安感や違和感。何だか、もてあそばれているようで、だから何なのと聞きたくなる。読み終わっての感想。さもこの作家は、その身をどこに置いているのであろうか。
 
 昨日このブログで『伊勢の曙光』という本に触れた。伊勢神宮が、彼岸と此岸の彼岸の世界を体現するように設営されているというのは、なぜそうしたかはわからないが、死霊とか怨霊のあった気配を証拠づけるように思われる。そして伊勢のことに触れれば触れるほど、私たちがすっかりそれを忘れて暮らしていることが浮かび上がる。振り返ってみると、子どもの頃は暗闇が怖かった。夜が恐ろしかった。トイレに行くことも怖くて、誰かについて来てもらうか、我慢して夜が明けるのを待ったことも思い出す。どうしてあんなに、夜の闇が怖かったのだろうと、今ならば思う。それだけではない。子どものころは、まともな人生と踏み外した人生という「闇」も感じていた。タバコやヒロポンやバクダンやアヘンやマヤク漬けになって、生ける屍となる「畏れ」を胸中のどこかに宿していた。町にやってくるサーカスや大道芸人などの旅芸人に気持ちを魅かれると恐ろしいことが待っていると、心裡のどこかで思って「恐がって」いた。いまでも子どもはそうなんだろうか。
 
 いや大人になったいまでも、夜の闇は怖い。山中のテントに独り居て、目覚めたとき、外を動き回るものの気配や風がたてる音は、わが身のすぐ脇で、別の世界が展開していると思わせる。冬の雪の中のテントで、しんしんと降る雪がテントをつぶしゃしないかと心配する怖さとは全然別だ。後者は、何が起こるかが目に見えている。それに対して、わが身は寝ているのに、それと関わりなく別の世界が展開しているというのは、わが身がどうかかわるのか見えてこない。お化けや妖異の何かが跳梁跋扈していないとも限らない。そういう想像の世界が「闇」には伴っている。でもそれは、想像の世界のこと。そう切り分けて心裡に始末するから、恐くはない。だから子どものころの「闇」や夜は始末のつかない「ことごと」がたくさんありすぎて、日々の体験の一つひとつが(胸中の世界に)落ち着きどころを得るまでは、恐いモノやコトであり続けたのであろう。
 
 歳をとると、そういうことがあまりない。しかも快適な暮らしの中で、わが身に起こることの「せかい」の輪郭が、割としっかりとしている。不安なこともおぼろなことも、地図や全体構成や物語りの転結を見極めて自分のいる位置が定まってみえると、たいてい端境が見てとれる。「闇」はたいてい「じぶん」の闇だとわかる。不安も、自分の想いから引き出されてきていると読める。これはつまらない。だが、人生をそのように生きてきたのだから仕方がない。

謎にみちびかれて「お伊勢参り」

2017-11-21 11:55:33 | 日記
 
 26日(日)からお伊勢参りに行く。内宮の早朝参拝などの「特別参拝」もある、ついては「ドレスコード」があるというので、少し煩わしい「メール」のやりとりをしていたら、tkくんから以下のような「追伸」メールが届けられた。
 
《なお、ご参考までに。私は今、講談社文庫、高田崇史著の「QED 伊勢の曙光」を読みかけてます。ストーリーそのものは、たわいもないミステリーですが、書かれている伊勢神宮等に関わる記述は、引用(古事記、日本書紀から始まり、その他)はものすごく豊富でなかなか勉強になってます。もしお時間あれば、一読をお勧めします。》
 
 もう半年前になるが、「お伊勢参りと私」とか「天皇制と私」とタイトルをつけて、伊勢神宮のことを少しばかり読み耽ったことがあった。そのエッセンスは印象深く記憶に残っているが、大半は忘れてしまった。想い起すために読んでみようかと図書館に予約したら、すぐに届いた。2014年発行の文庫だが、初出は2011年。この著者のミステリー、QED(証明終了)シリーズの最終巻のようだ。
 
 たしかにストーリーそのものはたわいもない。だがこの著者が、ご自分の調べた「伊勢神宮」にまつわるコトゴトはすべて書き込んでみようとしている気配があって、「勉強にはなるかも」と思いつつ、読みすすめた。いくつかわかったことがある。
 
 ひとつは、世の俚諺に「よく問うことは半ば答えること」というのがあるが、ミステリーというのは、「疑念」を提示し、それを繙いてみせるのが仕事。著者の高田祟史は「QED」を使命としてそれを忠実にやっているから、読みすすむにつれて、お伊勢さんに関して自分が何を問題にしているのかが、徐々に鮮明になったことだ。「お伊勢さんと私」に記したことだが、当初、記紀神話を読んでいて困ったのは、登場する神々が見なれない漢字(の和語読み)で表記され???となってしまうことであった。伊弉諾、伊弉冉、素戔嗚はまだしも、瓊瓊杵尊とか天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という神々の名に最初は仮名が振られて現れ、ああそうかと思いつつ読むが、なかなか記憶に残らない。物覚えが問題と思っていたが、そうではないと分かった。それら神々の「かんけい」がわからないから、覚えられなかったのだ。それがだいぶほぐれてきた。
 
 さらに高田が提示した伊勢神宮にまつわる「謎」の数は30に上るが、(私の)知らないことが多くあった。そのうち、今回のお伊勢参りにかかわると思うところを取り上げておくと、だいたい次のようなことになろうか。
 
1、なぜ内宮より後に建てられた外宮からお参りするのか。
2、なぜ祭祀も、外宮が先――外宮先祭なのか。
3、外宮の様式は「男千木」(内宮は「女千木」)だが鰹木の数も奇数本なのか。祭神は豊受大神(女神)なのになぜ?
4、なぜ五十鈴川を渡ってから下るのか。
5、なぜ外宮内宮ともに参道が九十度折れているのか。天皇家の祖神が怨霊だというのか。
6、なぜ天皇は明治の御代まで公式参拝されなかったのか。
7、なぜ明治になってから参拝したのか。
8、鳥居に注連縄がない。狛犬がいない。賽銭箱がない。神殿正面に鈴がない。なぜか。
9、本殿正面に蕃塀(ばんぺい)が建てられているのか。
10、興玉神(猿田彦)が内宮の片隅にも祀られているが、なぜそれほど猿田彦を祀るのか。
11、伊勢神宮の落ち着き先を探すまでの倭姫巡幸で24カ所も転々としたのはなぜか。その資金はどこから出ていたのか。
12、当時あれほど住みづらかった伊勢に落ち着いたのはなぜか。(伊勢は最果ての地であった?)
13、なぜ五百年も経ってから、豊受大神が呼ばれたのか。
14、なぜ二十年に一度遷宮を行うのか。
15、なぜお伊勢参りに、あれほど多くの人が熱狂したのか。
16、そもそも「神宮」とは何なのか。「神社」とどう違うのか。
 
 私たちのお伊勢参りは外宮と内宮だけでなく、倭姫巡幸の折、伊勢に拠点を定める想いを決する厳の宮にも足を運ぶ。今は訪れる人が少なく、西行が「なにごとのおわしますかわ~」と詠んだ雰囲気を湛えるといわれているところらしい。上記疑問の、「12」の謎に関わるかもしれない。1~5、8~10の一部は、言ってみてみれば(事実は)わかる。謎解きは別として、この疑問を共有することはできるだろう。
 
 読んでいて、ちょっと私が別のところから仕入れた知識と交錯することがあった。
 
(イ)「巫女は遊女でもあった」という記述。つまり伊勢は遊郭もあり、葦の原であったところは「吉原」と名を変えて呼ばれたと、ほとんど冗談のように記されていること。「15」の謎への回答のひとつとされている。歴史家の網野善彦が女性史を書き記していた中で、同じようなことを言っていた。もっとも彼の記述は、聖なるものが卑賎なるものと卑しめられる転換が、中世に(14世紀から16世紀にかけて)進行したというものであったが。
 
(ロ)伊勢神宮の禰宜の交代。「持統天皇の御代までは、内宮・度会、外宮・中臣であった禰宜が、内宮・荒木田、外宮・度会となった。禰宜はよほどのことがない限り世襲制であったから、よほどのことがあったと考えられる。……直木幸次郎がいうように、荒木田は「アラキダ=墾田」で、新田開発の意味だから、比較的新興の氏族。これに対して渡会氏は、渡会という地名を氏族名としているように、南伊勢では古い伝統を持つ土着の名門の豪族であった。」とある。これも(イ)の網野善彦の論述によるが、ちょっと回りくどいけれども、重要なことなので、お付き合い願いたい。
 
 網野によると、中世史の古文書を読み解いていて、「百姓」という呼称は農業に従事しているものを指すのではなく、「普通の人びと」の一般名詞だと断定している。つまり、漁業も、林業も、海運や商業、鉱工業に従事するものでさえ「百姓」に含められていたりする、と。そうしてどうしてそうなったのかを解いて、班田収授法が布かれ律令制によって国家の運営がはじめられたとき(実際には田を分けるほど農地があったわけではなかったから)、「稲作/田圃」に置き換えて人々の「収穫」を換算する方法が採用され、「すべての人々=百姓」とされたというのである。以前「天皇制と私」でお伊勢さんの物語をたどったとき私は、私の姓に「田」がつくことから百姓=農家の系譜をたどってきたと「ご先祖」さんをみてとり、お伊勢さんとは(たぶん)深い関係があったと了解していた。だが、網野善彦の論述を読むと、私の父方の商人の系譜もまた、百姓のうちなのだと思われ、つっかえが一つ氷解した様な気がしたものであった。(ロ)の記述は、持統天皇の御代以降、墾田開発が奨励され、それがまた、国の基となることを国家存立の大本に据えたと読み取れる。
 
 (ハ)高田は天照(アマテル)と天照大神(アマテラス)とを峻別しているが、これは私が目を通した、林順治『アマテラスの正体』(彩流社、2014年)でも、渡来部族である加羅系の始祖王崇神のことを「アマテル」と指摘し、後に物語りのなかで煮詰められて「アマテラス」として再生している、と述べている。高田は、天照は男神であり猿田彦であり、じつは伊勢原住の神々(複数)ではなかったかと想定している。それを制圧した持統が、彼岸・死霊の世界として伊勢神宮を「確立」して怨霊を鎮めるために「アマテル」を「アマテラス」として再生させ祀ったと、話しが出来上がる。
 
 面白いと思うのは(これも網野善彦などの記述によるが)、16世紀の戦国の時代までは、東西二国の統治が行われていたとみなしている。奈良・平安の時代にも、藤原氏などの力の及ぶのはせいぜい伊勢、木曾の先辺りまで、と。そう考えると、作家・高田が記すように、伊勢が地の果てであったことが了解できる。東国は別の支配領域であった。それが統一国家の様相をもつようになったのは、13世紀末から15世紀に及ぶ下剋上の戦乱をへて(天皇制においては南北朝の対立も含めて)、旧秩序がかき混ぜられ、統治ということについての(人々の)意識が大きく変わったからだと考えられるようになったからと思われる。そういえば、よく日本文化の、食事文化(味噌汁の白みそと赤みそ)や言葉や風俗習慣の分岐領域がおおよそフォッサマグナの亀裂に沿うように観られるとか、木曾と美濃・信州が境目とされるのには、案外こういう歴史的経緯があったのではないかと、腑に落ちる思いのするところがある。
 
 (ニ)「神宮とは何か」の謎解きが面白かった。「宮」のウ冠の下の「口」と「口」をつなぐ「ノ」のない「宮」が、明治神宮の「宮」となっている。古い字体だということだが、高田はこのふたつの「口」をつなぐ「ノ」が「橋」であり、彼岸と此岸をつなぐものではないかと想定して、謎解きをする。つまり、「神宮」とは彼岸のことであり、死霊の世界であるとともに、怨霊の霊威が此岸におよぶのを封じる場であるとみなされている。これは「聖なるもの」が彼岸と此岸をつなぐ霊威をもつものであり、それゆえに畏れられ、再生・蘇生の力ももつとみなされていたと敬われていた。それは「百姓」という普通の暮らしをするものの立場から見た「畏れ」「期待」であり、巫女や祭祀を司る「神宮の内側」にいる人にとっては、絶え間なく供犠を求められ、それを提供する「御饌」の司を執り行うことを意味する。
 
 伊勢神宮が天武・持統朝に創建されたとしても、すでに1300年余、毎年毎日欠かさず、稲を育て、貝魚をすなどり、火を(手ずから)熾し、御饌を手向けつづけてきた、神宮の宮司や官司の人たちの心裡を支えたエネルギーの源は何であったろうと、新しい疑問が私の身の裡に湧いてきている。まあ、そうしたことを、わが目で見てこようと思っているのである。

どっこいお役目はたして

2017-11-19 09:57:18 | 日記
 
 昨日、中学高校の同窓生が集まった。そのうちの一人・tkくんが銀座の画廊で個展(と言っても、「二人展」)を開き、それを機に同窓生が集まっておしゃべりをしようというもの。いつもならmdさんが仕切ってくれるのだが、今年彼女はサンフランシスコに住む友人が「(認知症になって)落ち込んでいる(わかるうちに会えるのは最後かもしれない)」というので見舞いに行って「お世話できないから、あなた仕切って」と頼まれて、私がコーディネートした。でも結構皆さん私的に忙しく、絵を見には来たが会食には顔を出せないという人もいる。あるいは出歩く程度に元気な人しか出て来られない。文字通り後期高齢者の年寄りは静かなものです。
 
 画廊にだけ顔を出したtnsmくんからは以下のようなメールが届いています。
 
《昨日はとても楽しいひとときをありがとうございました。私は、田井小学校・宇野中学校の出身ですが、中学の頃は自転車に乗れて日比も比較的身近に感じていました。日比を越えて毎夏1回は渋川まで通った記憶があります。そんな時期、日比から東京へ移られてでの人生のひとこまを共有させていただいた気になりました。/躍動感にあふれるもの、雪景色のなかに春光を思わせるもの、京都での紅葉狩りを思い起こさせてくれたあの赤い色、いつまでも記憶の残ることでしょう。(後略)》
 
 tkくんがどのような応対をしたのか、tnsmくんは昔日を想い起してひどく感動したようです。リタイア後もビオラを演奏して地域の音楽活動に参加している感激屋の彼のことですから、違った領域で意気軒高なtkくんの現在に刺激されたのかもしれません。tkくんの風景油絵はいろいろな手法を試しているようで、昨年は陰によって光を描き出そうとしていたのが、今年は光そのものの色のおき方によって光の降りてくる様を印象派風に描き出そうとする「藤棚」を素材にしたもの、あるいは紅葉の鮮烈な、やはり印象を刻むような六義園の一隅をとらえたものなど、まだまだ内側からあふれてくる意欲を愉しんでいる気配が伝わってきました。
 
 背の高さは私とさほど変わらないのに、体重は私より20キロも少ないhmd夫妻は銀座から新橋まで歩いて、足取りはしっかりしています。まだ現役で働いているのですから、たいしたものです。その二人に近々、孫が誕生すると奥方が話し、hmdくんは「これで私も人類史的お役目を果たすことが出来そう。それまでは死ぬわけにいかない」と、気を吐いていました。そうそう。わが血縁を残すことが人類史的に意味があるかどうかはわかりませんが、個々の私たちは意味/無意味を越えて、そうやって人類史を紡いできたのですから、孫との出会い、すなわち爺婆になる体験との出会いも、それなりに大事に思って死んでいきたいよねと、共感していました。ここしばらくお酒を飲んではそれを消化しきれなくて翌日一日寝込んだりしていたhmdくんが、白ワインを口にし岡山の宮下酒造のビール「独歩」を含むことができて、どっこい生きてると気概を見せてくれたのは、なによりうれしいことでした。
 
 いやじつは、来週、彼らとともに「お伊勢参り」をします。中部に本拠を持つog君がコーディネートして伊勢神宮由来の処を周辺から見て回って外宮、内宮と参内し、早朝参拝をするという企画。どっこい生きてるというだけでなく、ご先祖とのつながりまで体感して来ようというのですから、なかなか視野壮大と言わねばなりません。そういえば先述の六義園の紅葉のタイトルは「人生の秋、かくありたし」であった。「いや、来年は彼岸から出品するようになるね」とtkくんは笑っていたが、「お伊勢」という彼岸からの原点の塊のような地を訪ねて、やはりどっこい生きてると見栄を張る、そうありたいものですね。