mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

まだまだ先が遠い

2015-10-23 09:56:15 | 日記

 図書館で、埴谷雄高×松本健一『埴谷雄高は最後にこう語った』(毎日新聞社、1997年)を書架に見つけて手に取った。埴谷雄高は1997年の2月の没しているから、このインタヴューが『週刊エコノミスト』に連載されたのは没後であった。まさに「最後にこう語った」もの。

 

 埴谷雄高は鮮烈な印象を若いころの私の脳裏に刻んでいる。超俗的な文学者という「定評」の人であったが、1960年代のはじめ頃に『幻視の中の政治』を読んで、当時盛んであった安保後の政治党派の争いを「根底的に見る目」を私は教えられた。と同時に、私自身の立つ位置がほんとうに危うい世界認識の中にあることにも気づかされ、党派の争いから距離を置く立ち位置を(結果的に)選択することになった。新聞編集者という当時の「役割」が、(公正で中立的であろうとする「役割意識」もあいまって)いっそう党派的な肩入れを踏みとどまらせたと、今になって振り返る。

 

 とは言え、「主体的である」ことが何よりも肝心な要であることも当時の論題であったから、「公正で中立」という「欺瞞」をいつも内心の課題として抱えていた。その一つの「回答」が60年代前半に紹介されはじめたアントニオ・グラムシの「ヘゲモニー論」であった。言語学者であったグラムシはイタリア共産党の指導者として頭角を現し、しかしソ連の社会主義の、政治権力をとって後に社会主義建設を進めるという「権力奪取/上からの革命」に失望を感じ、「(人々の間/社会に)知的道徳的ヘゲモニーを打ちたてる」ことを根底的な主題として取り出していたからだ。いわば、文化の大革命は恒に進行している事態、政治的な「革命」という大転換以前に、日常的な「文化の革命」を私たちは(生活の中で)戦っているのだという「実践の提起」であった。

 

 それは当時の学生新聞の編集者仲間の間では「不可能性の上の可能性の追求」と言われたりしていたが、同時に「趣味の哲学、絶望の運動論」と自嘲してもいた。就職して次の年(1967年)に発行した職場の「研究収録」誌に寄せた草稿に私は「思想のゲリラ戦」というタイトルをつけ、当時の上司から「中身は悪くないがタイトルが(過激で)よくないね」と揶揄された。ベトナム戦争のさなか、「ゲリラ戦」というだけで(政治的に)ヴィヴィッドな反応があったからである。その後の私の職場における動きも含めて(長年私と行を共にしたマルクス主義左翼の経験者から)「アナルコ・サンディカリズム」と「批判」されたのだが、一度も私は、それを非難と受け取ったことはなく、むしろ言い得て妙の「賞賛」のように受け止めていた。今考えると、それは安易に普遍性に与しないで、あくまでも現場の具体性にこだわるという私の「傾き」を指摘していたと思うからである。

 

 松本健一のインタヴューに応じて埴谷は、恬淡と自在に語っているように見える。当時87歳(私の母親より1か月余早い生まれ)、たどってきた形跡に自らを位置づけて「総括」している。「文学者としての役割は、妄想によって先を予言すること」という述懐は、彼の作品を象徴する「難解さ」を解きほぐす。若いころの「革命運動」と「転向」の狭間に見出した自らの「革命的役割」は、まさに、グラムシのそれと同質のものであったと「分かる」。いろいろな党派や左右のイデオロギーを問わず寛容に(「無節操」と非難されながら)受け容れることをしてきた埴谷らしく、「アナキズム」を容易に是認する。それも、私には好ましい。三島由紀夫や吉本隆明との異同も(松本健一らしい問いかけに誘われて)薄皮をはがすように明らかになっていく気配が見てとれる。他人の張るレッテルはどうだっていいのだ。いい年の取り方をしたのだなあと、四半世紀余を措いてのインタヴューに、さらに18年を措いて目を通して、感じ入った。

 

 文学者は「妄想」に拠って「世界」の根底にたどり着こうとしてみせる。だが私たちの生活は「現実」に拠って「世界」を泳ぎ渡っている。多分私は、この「妄想」と「現実」の狭間に置かれて、未だに右往左往しているのだと言えようか。だが、待てよ。もう右往左往するほどの「現実」への実在力は持っていないから、すでに「妄想」以外に拠り所はないのかもしれない。せいぜい、生きてきた跡をふりかえってその航跡をあぶり出し、「人が生きた」形跡としてひとつの「かたち」をとどめるという「妄想」を、(外から眺めながら)書き記すだけなのかも知れない。

 

 「21世紀には人間(の概念)が変わっているかもしれない」と埴谷は語る。その21世紀に入ってすでに15年。思えば、ヘイトスピーチやアベノミクスで語られている「人間」は、私などが長年かけて内心に湛えてきた人間概念とずいぶんかけ離れている。そうしなければ生きられないという「現実」の流れに押されて正当と感じられる「人間」像は、時代そのものがつくりだしたもの。それを「異形」とみなすのは、己の固定概念にこだわる古い受け止め方なのかもしれない。そこまで埴谷は見通して自らの輪郭を描きとっていたのか。埴谷の年まで生きるとすると、まだ、14年ほどある。結構やることがあるんだなあと、先が遠いことを感じる。


こんなに平易な両神山

2015-10-22 15:09:39 | 日記

 昨日両神山を登った。20日の「幸運」に恵まれて、登山口を変更し、白井差新道を登った。歩行時間は、往復4時間。平均70歳ほどの山の会の面々が快適に登り、山頂で40分も過ごし、百名山を一つクリアしたわけだ。両神山を、こんなに平易に登ったのは、私も初めてであった。

 

 8時12分西武秩父駅には予定した全員が顔をそろえた。さっそくレンタカーの借用に向かう。目的地の手前のキャンプ場(の電話番号)をnaviに入れる。昔の大滝村に向かう車は、ほどほどにある。対向車もあって、賑わいを見せているが、混雑とか渋滞とかは、まったくない。平日午前の通勤時間帯も、もう過ぎたところか。別れて小鹿野町へ向かうと、車は極端に少なくなる。さらに小鹿野町の主要部への道と分けて、小森方面へ向かう。

 

 すると道は細くなっているが、対抗してやってくる何台ものダンプとすれ違う。だんだんカーブが多くなり、道も細くなる。ひと車両しか通れない道のところどころには待避用に広いところが設けてある。だが、ダンプはお構いなしに突然顔を出す。ひやりとしながら、片側に寄せてやり過ごす。奥には、採石場がある。石灰石か、山の斜面が階段状にがりがりと削られて、まるで秩父市中心部に近い武甲山の石灰採掘場のように、渓谷の中に聳え立っている。あとで聞くと、砂岩を砕いて東関東自動車道路の土台作りに使っているのだそうだ。

 

 そこを過ぎるとやってくる車はない。naviに入力した「目的地」・両神山麓キャンプ場を過ぎて2.5㎞、林道が途絶えるところに、登山口がある。すでに4台ほど車が止めてあり、さらに一人、山登りの服装をした若い男が、中年女性の説明を聞いている。この女性が、この山の持ち主Yさんの奥さんらしい。ついで私に、ビニールケースに入れた地図を渡し、白井差新道のルートを説明する。裏側には、上部の稜線にとりつくところの拡大図があり、下山のときに下降点を見誤るなと、2度繰り返す。「行った道を下山するんでしょ」と私は聞いている。こんなに念を押すということは、よほどわかりにくいのか、あるいは上から下ってくるときには見過ごしして別のルートに入り込みやすいところなのか、と思う。

 

 標高830mから歩き始め、小森川の沢沿いにすすむ。林道が終わると、沢を渡る。3本の太い木の上に平たい踏み板を30センチ置きに渡した橋がかけてある。しばらく進むとまた、渡り返す。何度か渡り次第に高度を上げていく。沢は狭まり、渓は広葉樹の葉に覆われて薄暗くなり、前に立ちはだかる山の斜面が傾斜を増したように思う。広葉樹の葉はまだ青々として、色づいてはいない。標高1100mを超えると、ところどころに赤く、あるいは黄色く色づいた木々の葉が目に止まるようになる。空は雲が取れたのか、明るさを増し、陽ざしも入ってくる。一組のご夫婦が後からくるので、道を譲り先行してもらう。

 

 ジグザグの道をたどって斜面を登る。足元は落ち葉が溜まっていて、心地よい。皆さんの足並みは好調だ。先行したご夫婦が休んでいるので、先へ行かせてもらう。「皆さん速いですね」と奥さんが言う。みると50歳代であろうか、まだ若い。(なんの、なんの)と思いながら、ペースを崩さず、歩一歩と歩みを進める。いつの間にか、周囲の気の葉が見事に色づいて、緑の葉の間を彩っている。標高1400mほどのところで、左側の200mほどの高さの崖になった山体が目に止まる。色づいた紅葉と相まって、深山幽谷の風情が感じられる。

 

 標高1500mを越えた辺りで、「お腹が空いて歩けない」と悲鳴のような声が上がる。つい先ほどまで元気でおしゃべりをしていた(と思った)Odさんが最後尾にいてへばっている。時計を見ると11時半だ。そうだな、朝が早いからお腹がすくころだねと思う。いい場所で、お昼にしましょうと言ってはみるが、足元はまだ傾斜の急な笹原のジグザグ道。10分ほど進んで、やっと平坦な場所を見つけてお昼にする。先ほど追い越したご夫婦が登ってきて先へ行く。出発して2時間。いつの間にか霧が多い、肌寒くなる。着るものを一枚だして羽織った。

 

 20分ほどでお昼を済ませ、「あと標高で160m、距離で600m。頑張りましょう」と声をかけて、山頂へ向かう。荷物は軽くなったが身体は重くなっている。400mほど行ったところで、稜線に出る。まちがえるなと言っていた地点には、稜線の向こう側に「立入禁止」の標識がつけられ、張り綱がしてある。そこから山頂とは逆の方へ向かう踏み跡もあるから、これを注意しろというのだろう。ここから山頂までは距離で200m、一度このルートを来たことがあるというKkさんに先頭を任せ、私は最後尾に回って、下山のとき先頭をやってもらうKmさんにそれを見てもらう。お昼のとき私たちに先行したご夫婦が降りてくる。雲がかかって何も見えない、という。

 

 山頂直下の岩場も難なく超えたが、狭い山頂にはすでに10人ほどの人たちがいて、写真を撮ったり休んでいる。そこへ私たちが加わったものだから、ちょっとした混雑。山頂は雲の中に入っているようで、展望は利かない。風はなく、お昼には肌寒さを感じたのに、いまは長袖一枚で十分。陽ざしも薄明かるくおりていて、気持ちがいい。Kkさんが「群馬からの道もあるんだよね」という。八丁峠からのルートを指しているのだろう。岩歩きで難しいルートと話していたら、傍らにいたAさんが「私も群馬から来た」というので、「ここは二度目なんだ」と言ったら、「いや、群馬の出身ということ」という。ジョークだったのだ。だが、日向大谷からのルートが通行止めだから、白井差以外から入山下ひとというのは、八丁峠からのひとだ。そういえば、ヘルメットを持っている人がいたな。今日の様子の両神山なら、好天でなくても岩の登降は面白いだろう。

 

 山頂で40分ほど過ごしてみたが、雲は取れなかった。下山開始。先ほどの下降点も難なく通過。と、上の方から「白井差へ下るんですか」と声がかかる。稜線の霧の中から声をかけている。そうだと応えると、「よかった。まちがえちゃって」と若い青年が降りてくる。山頂で大きなザックを背負っていた人だ。先に降りたが、この下降点がわからなくて、稜線の先へ行き、道がなくなって引き返してきた、という。「地図はもらわなかった?」と聞くと、もらってないという。歩いて入山したから、そのまま通過してしまったのだろう。道を譲って先に降りてもらう。

 

 Kmさんは後続を気にしながら順調に下る。みなさんくたびれた気配を見せていない。霧はますます濃くなり、「曇りのち晴れ」の予報のようにはなりそうもない。
まだ2時ころだのに、夕方のように薄暗い。45分降って一休みし、その後20分ほど下ると一人年配の人が石の上に坐って所在なげにしている。通過するとき挨拶をすると、「一番後ろのあなたがリーダーね。これで今日の客さんは全員降りたかな」とつぶやく。この山を所有しているご主人のようだ。私たちの下山のあとについて、一緒に降りる。ご苦労なことだ。ここまで登って来て無事におりてくるかどうかを見ているのだ。しばらく話しながら下山していたが、途中で、私たちより早く降りていた一組が休んでいるのを通り過ぎてから、ご主人は姿を消した。(たぶん)後の人たちと一緒に降りてくるのであろう。

 

 2時40分、駐車場に帰着。行動時間がちょうど、5時間。お昼と山頂の時間を差し引くと4時間で歩いたことになる。当初予定していた日向大谷からのルートは、6時間。岩場も鎖場もあるというので、今回参加しなかった方もいる。だが、この白井差新道はまるで何の難しいところもなく、百名山・両神山に登り降りできる。こんなに平易になっていいのかね、と思う。ご主人の話では、明日もツアーの団体さんが予約しているという。紅葉が良くなる土日などは、結構混むのではなかろうか。

 そうそう、帰途の林道で、車がパンクした。尖った石を踏んだのかもしれない。私に

とっては、何十年ぶりの山でのパンクである。でも、同行する男たちは皆、こういうことになれているのか、テキパキとジャッキと予備タイヤを取り出し、車を持ち上げ、さかさかとタイヤ交換が終わった。4時過ぎには電車の人であった。


こんなことって、あるんだ!

2015-10-20 09:52:53 | 日記

 今朝(10/20)の朝日新聞「埼玉版」を読んで驚きました。9月の大雨で、登山口・日向大谷への道路が崩落して、通れないとあったのです。記事の内容は、そのことを報じるものではなく、「両神山の天然林を守る」というトラスト運動を紹介する記事でした。小鹿野町の観光協会に問い合わせたところ、20日朝現在、まだ回復していないとのこと。

 じつは明日、このルートから両神山を登る月例登山を予定していた。すでに西武秩父駅からのrent-a-carの借用予約もしている。お天気もいい。まさか中止するってことは考えられない。近くに「二子山」という岩登りの名所がある。東岳に登らなければ、行けないところではないが、でも、両神山の「岩登り」と聞いただけでしり込みする人もいるから、いきなり二子山は無理かもしれない。

 さて、どうするか。白井差の登山口を、むかし登ったことがある。白井差口から表参道の清滝小屋に出て、両神山に登るルート。わりと短時間に近づけて、ラッキーなルートだと思っていたが、いつのころからか、「もめごと」があって、このルートは使えなくなっていた。その頃仄聞したところでは、「もめごと」というのは、県と山の所有者との間で登山道の整備・費用などをめぐって、折り合いがつかなかったということだった。

 その後2008年、表参道をつかって全国高校総体(インターハイ)の登山大会などが行われたときも、まだこの問題は解決を見ていない。ただ、土地所有者が、独自に(表参道を通らない)両神山へのルートを開発し、白井差新道として開放していると聞いてはいた。土地所有者の連絡先を(観光協会に)聞き、白井差口から清滝小屋へ抜けるルートが通れるか聞いてみた。そこは環境省の指導によって、すでに廃道になり通れないとのこと。

 こうして、白井差新道を使うことになりった。私はこのルートを歩いたことはない。ルートを記す地図は入山時に麓の土地所有者から借用し、下山時に返却するとのこと。ただ、整備費用として一人千円を頂戴していると説明があった。このルートは(ネット見る限り)所要時間も4時間程度、岩登りも難しいところはなく、歩きやすいと評判である。さあ、紅葉がどうなっておりますか。歩いてきましょう。

 でも、ホッとして参加する皆さんに「ルート変更」のメールをしてから考えたのだが、もしこの記事が出ていなかったら、どうなったろう。あるいはさらに「トラスト運動」という見出しを見て、ふむふむと読み飛ばしていたら、道路が通行止めということにも気づかなかった。私よりも早起きのカミサンが読んで、「ここは通らないの?」と言ってくれなければ、読み落としていた可能性は高い。

 明日現地に行って、道路が通行止めと知る。そこから白井差への変更は、(たぶん)「予約が必要」ということからすると、ムツカシイかもしれない。まして、その場に行って(地図もないのに)「二子山にしましょう」なんて、出たとこ勝負のような山歩きはできない。では、中止にしましょうというと、(なんで事前に調べてなかったのかと)非難を浴びるに違いない。

 

 こんなことって、あるんだ。ほんとうに幸運というか、ついてないというか。


公正な立場と中立的な立場

2015-10-18 20:40:21 | 日記

 昨年の10/18のブログにこんなことを書いているよ、とブログのプロバイダからメールが送信されてくる。いや、機械的に送信するようにソフトを組んであるから送られてくるのだが、書いた当人は何を書いたかを忘れているから、素直に読み直す。ふむふむけっこういいこと書いてあるじゃない、と思うこともあれば、何だか中途半端だなと思うこともある。去年の今日書いたのは、「朝日新聞の福島原発吉田調書の誤報問題」。「誤報」の根拠が、自らの「確信」に対する自己批評性を持っていないからとして、次のようにして公正さを保てと記している。

 

 《自らの身の裡で「公正」を保つのは、自分が傾いているとあらかじめ思い込んでいることだ。自分の意見を他の人とぶつけ合わせるような場合には、「間違っているかもしれない」とまず思うことである(ちなみに、それを「中庸」と呼ぶと私は考えている)。》

 

 と、行きがかりで「中庸」についての私の考えにまで言い及んでいる。こんなことをわざわざ言い出すのは、じつは来年の参院選挙から18歳以上の選挙権が誕生するということで、高校の授業において避けて通れない「政治教育」が施されるからである。文科省はテキストをつくって「中立的」に行うよう、ことに教師に対して強い指導をしているそうだ。ばかだなあ。「中立的な立場」があるという「欺瞞」が、どれほど日本の政治教育を駄目にしているか、学者も文科省の役人たちもまるで分っていない、と思う。

 

 誰もが、「中立である立場」をとることはできない。まして読者に伝えたり、学校で生徒にモノゴトを教えたりするときに、「中立的立場」というのは、意図的に装うのでない限りは、ありえない。「目の前の政治に関わらない」という態度をとる場合には、中立性を装うことがわりと容易にできる。もちろん無意識に露出する己の傾きにまでは手が回らないから、外から見ていてそれが「中立的」に見えるかどうかは、疑問である。まして生徒が、18歳から選挙権を得て、「生の政治」に関与することを奨める場面での「授業」であったりすると、教師の「中立的」な態度は、あたかも神のごとくに世界を見ているように振る舞うことかもしれない。そんなことはできない。善し悪しの判断には、自らの置かれた「状況」からする選好がかならずや作用しているものだ。人は必ず間違うものであるし、自らのことが見えないことが多いものなのだ。

 

 それを自分に言い聞かせることが、「世界」を見て取る唯一の「公正な」方法なのだ。それは、どこまでも「言い聞かせる」必要が出てくる。つまり、「これが公正」というのがあるわけではないから、他人とやり取りするときには、「私がかくかく考えるのは、しかじかのことを根拠としているから」と絶えず自らに問い、他人にそれを開陳しながらやりとりするしか道はない。「公正」とはそのように動的なものである。つまり「かんけい」的なかたちで発生するものにほかならない。

 

 一年経って、同じことを同じように考え、言っているということは、私の「世界」が動いていないからかもしれない。そうだよね。「私」と「情況」との関係は、なにも変わっていない。これも年を取ったことから生まれる特筆するべき「立場」の一つだと、もし生徒を前にしてなら、言うだろうなあ。だから君たちが頑張ってよ、と。


これならやってみたい「山づくり」

2015-10-17 19:07:53 | 日記

 『図解 これならできる 山づくり――人口再生の新しいやり方』(農文協、2003年)という本を図書館で見つけた。鋸谷(おがや)茂という「森林インストラクター」と大内正伸というイラストレータの共著。鋸谷が書き、大内が絵をつける。

 

 森が荒れている、と言われて久しい。私も、山を歩くごとに乱伐された森を見てきて、心を痛めていた。なあ~んてことは、ないか。心が痛むほどではない。ちょっぴり気になっていた。「乱伐された」と私がいうのは、陽も差さず暗い、やせ細ったスギ林やヒノキ林は、近くを歩いてもあまり心地よいものではない。ことに近頃は、暴風雨のせいか大雪のせいか、斜面の林が何本も倒れ、放置されたままになっていることが多い。大水が出ると沢が流れてきた倒木でごちゃごちゃになっていることもある。「見苦しい」というべきか。せっかく伐った間伐材を使わないままにしておくのも困ったものだと思いながら、しかし、外材が安くてお金にならないのは仕方がないか、と諦め気分でいた。手入れをしない森林所有者への憤懣と商業主義が時代の潮流であるがゆえの森林の放置の諦めにも似た気分が、身体に鬱屈してはいたのだ。

 

 ところが目から鱗が落ちる。鋸谷は手間暇をかけない「間伐法」を提案する。切り倒した間伐材をどうするかもしっかり提起している。どうせよというのか。放っておけというのである。基本的には森林の財産価値を先延ばしにして、とりあえず何十年か先に価値を保持できるように、森を再生させようというのだ。つまり木は、30年材として今伐らなければ、50年材として、あるいは70年材として育てられるように、いま最小限の手入れを行う提案をしている。

 

 ところがその手入れ法は、単に(今育っている)樹木の育成に留まらない。山が崩れないように(木々に)土をつかまえさせ、水を保全させる。それは針葉樹だけでなく、草本や木本の広葉樹をも成育させるから虫や動物が戻ってきて、いわば生態系を再生させることにつながる。それらを、具体的に「イラスト」付きで、示してみせる。

 

 あたかも自分が森林保全者になったみたいに感じながら、立木間伐の方法を知る。なるほどこのようにして、あの立木の伐採が行われるのかと、自分が残すべき木と伐採したり立ち枯れさせる木を選んでいるような気持ちになる。枝打ちの仕方、枝打ちしたときの切り口が成長したのちになぜ瘤にならないのか、その見極めのポイント、伐り方なども、10年後、20年後の木の生長がどのようになるかを見通して行う。森をつくるということが、そこまでを視野に入れて行われていることに驚く。自分がチェーンソーをもって、いままさに立ち木に歯を入れ、切り倒さんとしている心もちを味わう。面白い。森を育ててみたいと思ったりする。

 

 なにより、間伐した木を使うかどうかというときにも、鋸谷の選択は実際的である。使えるものは使え、とうてい経費が合わないのなら、使うためにわざわざ森の外へ持ち出すことはしない。倒れたままにしておけという。その方が、間伐され陽が差し込みはじめる森にシカなどが入りにくくなるという。それは同時に、残される木々を守ることになる、と。もちろん、森と林道との関係で運び出しやすく、経費もさほど掛けないで使えるのなら、使いましょうと積極的でもある。つまり彼の森の育成という提案は、「動的」なのだ。状況に応じてダイナミックに考えていきましょうよという。

 

 そのベースには、(幸か不幸か)日本の材木が高く海外からの輸入材の方が安くつくことから、戦後の一時期植林などをすすめたまんまで放置されて来た、スギやヒノキの林があちらこちらに、ある。それが後の時代の財産として活かされるように今、手を入れておこうという考えがある。いいではないか。ひょっとするとこちらの方が、尖閣の防衛というよりも重要かもしれないと、岡目八目に八つ当たりしているみたいに見えるかもしれないが、思ったりする。

 

 これまで山を歩くときに、(倒木があちらこちらにある)雑然としている林を「管理不行き届き」と感じていた自分の感性が、近代工業労働的なそれであり、「自然」を相手にするスタンスと違うものだと、教えてくれる。陽が差し込みはじめた森に陽樹が入り込んで育ち、それが大きく育って陰樹が生育をはじめて、陽樹の林にとってかわるという姿は、山の林を見ていると、よくわかる。そのように世代交代している倒木は、まさに放置されたままになって、苔が生えてさえいる。シラカバやカラマツの林がミズナラやブナの林に変わりつつあるところを、みているからだ。

 

 うれしいね。この本が出版されてもう12年になる。ということは、(たぶん)鋸谷の提案はすでにとりいれられて実施に移されていると言えよう。そういえば、田舎のカミサンの実兄が「巻枯し」という間伐法を話してくれたのは5年も前であったか。森のそばで暮らす森林所有者は、そう言った方法に案外敏感に対応しているのかもしれない。イラストにするというのは、たしかに力になっている。こういう、肩の力を抜いたような方法が、地道に提案され実施に移されていると知るのは、希望が湧いてくる。人口減少下の地方が如何に生きのびるかを、森に映して描いて見せたようにも思った。