mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

手作業が「私」を写す

2016-06-29 09:57:04 | 日記
 
 昨日は「ささらほうさら」の月例会。そろそろ半世紀近い付き合いのある年寄りばかりが集まる。今日はいちばん若いWさんが講師を務める。テーマは「銅鏡制作」。彼は長年、中学校の理科教師をしてきた。だが授業よりも生徒指導に手間を掛けなければ維持できない日々のルーティン・ワークは、準備の慌ただしさや「評価」のわずらわしさもともなってストレスが溜まる。ところが、部活動・科学部の顧問は、そうしたストレスから瞬時解放されていられる。「心躍るような実験」もあったと振り返る。その一つが「銅鏡制作」という。
 
 この講座のわずかな時間で「銅鏡」をつくるのは(年寄りには)難しいとみて、講師はすでに下準備をある程度済ませてきている。十円玉ほどの粗削りの銅板を、磨いて銅鏡にしようというもの。机を傷めないように下に敷く布も用意している。紙やすりを持つ手にはめる手袋も百円ショップで買ってきたと配ってくれる。生徒たちとちがって(年寄りでは)、紙やすりをつかうにも銅板が動いては、不器用さにさらに不都合さが加わっ時間がかかるだろうからと、かまぼこ板の真ん中を薄い銅板の形状にくりぬいて、そこに銅板をおいて紙やすりをかけるように工夫してくれてもいる。高齢者への配慮が、至れり尽くせりだ。
 
 目の粗い紙やすり2枚をつかって、銅板を磨く。1枚に10分くらいかける。その2枚を終えたのち、目の細かい紙やすりを、また2枚、それぞれ10分くらい使って磨きを入れる。目で見た限りでは、鏡のように顔が映るほどではない。紙やすりの引っ掻いた目が傷跡になって残っているように見える。だがそれほどの時間、磨きを入れたのち、液体金属磨き液(ピカール)を布に含ませて銅板の表面をさらに磨く。何度かこういうことを繰り返して、付着し残るピカールを吹きとると、あらあら、銅板は見事に輝きを持ち、十円玉ほどの小さな「銅鏡」が覗き込む己の眼を写しているのが、わかる。完成、というわけだ。
 
 しこしことその作業をする間に、銅や銅鏡の歴史や成り立ちを話す。自然銅が枯渇して銅の精錬が行われるようになる経緯、その間に鉄の精製が挟まる技術の発達が、「一種の呪術」として理解され、神の依代としての「威信」を持つことへ銅鏡が変貌する、と。松本清張の『同県・銅鐸・銅矛と出雲国の時代』や「魏志倭人伝」を掻い摘む。そうして、
 
《「自然にあり得ないもの」に「天界の姿を写しこんだ」ということはそれ自体が「神的存在」に昇華されたと考えられる》
 
 と展開する。伊勢神宮の八咫鏡のことを指している。
 
 話を聞きつつ、手元は「磨く」作業をすすめながら、「神意」と我が心もちとの緊張感を確かめている。う~ん、なかなか即座にそうと、単純には進まないのではないか。銅鉱石から銅を抽出するという技術は(その温度や媒介項を省略してみると)「錬金術」としての魔術的営為と見える。私たちは、だが、すでに精錬された銅板と2種の紙やすりや磨き液を手にし、これをああすればこうなるという「手順/アルゴリズム」を、何の不思議も感じないで「理解」して取りかかる。そこに「神意」の入り込む余地はない。むろん「威信」としての価値軸も消え失せている。それは、つまり、自然に対する畏れも失せ、あたかも自分が銅の精錬をして磨きやすりや磨き液をつくっているかのように、自然に対する我が(人類共同体の)優位性を前提にしている。だからこそ、「呪術性」とか「宗教性」とか「自然に対する畏敬の念」という要素を蒸発させて、日々を「お祭り騒ぎ」で過ごすことが出来ている。それって、どこかヘンではないのか。どこがヘンなのだろうか。
 
 ま、ま、そういう思索は結論を出すことではないから、私の心裡でころがして「棚上げ」にする。鏡をつくるという一つの作業が「私」を写している。面白い講座であった。

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