mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

脳科学の刺激(2)記憶と空間と時間

2024-07-31 07:20:34 | 日記
 昨日のつづき、池谷祐二『夢を叶えるために脳はある――「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社、2024年)の前半3分の1から受けた刺激の二つ目。
 場所の記憶を宿す場所細胞があるという。ほお、面白い。その「場所」に立っていると反応している、と。視覚に頼っているのではないからどちらを向いていても、おなじ「場所細胞」が電子的反応を示す。

《場所は外部の環境にあるのではなく、心の中にあるってことなんだから、こうしたところに物理的な座標系と精神的な概念との、微妙な接点をみてとることができる》

 その「場所細胞」はひとつが一個所に対応しているのではなく、一つは何カ所にも対応し、一個所に複数の「場所細胞」が反応することによって、場所を数多く記憶することができる。と同時にこれは、ふだんは忘れていることができるってことも意味する。
 これをオモシロイとおもうのは、昔行ったことがある場所を通りかかったときに、あっ、ここだ、ここで(あの時は)道を間違えたのだと空間的に知っていたことが思い出されるから。あるいは、デジャヴと謂われるように、おやっ、ここは来たことがあるぞ、でもヘンだなあ、初めて訪れた土地なのに、と思うことがある。これも、何かの画像で見知っていたか、読んだものからイメージしたことが「場所細胞」の記憶から呼び起こされて、そう感じていると納得できるからだ。あるいは、一つの事象をさまざまなことに敷衍させてイメージとして取り込むヒトの思考の癖が作用しているともおもう。
 あとで触れるが池谷は、別の脳細胞の働きで記憶が薄れたり忘れられたりすることを、細胞の自然の働きとして話している。そうなんだよね。もし忘れるという作用がないと、(いろんな場所に行って、頭の中が)「満杯」になるというか、それよりも、そこに執着するほかなくなってしまう。ヘンな言い方だが、空間が固着すると、空間ごとの構造的な組立とか配置、遠近や大小、ワタシから見た濃淡、といった世界の空間的構成に関する文法が設えられていないと、わたしの心の空間世界はゴチャゴチャになってしまう。いまそうなっていないのは、間違いなく複数の場所細胞が、あれこれを適当に後景に押しやっていて、何かの拍子に(必要となったときに)ひょいと甦るようにしているからだ。時間とどう相関しているのかを考察すると、もっとオモシロイことがわかるかもしれない。
 その記憶だが、それが「時間」と深く関係していると、池谷の講義は展開する。

《心理的時間と物理的時間、どちらが先に生まれたか》
《なぜ時間は存在する? 時間はどこに向かって流れる?》

 と問う。
 そして簡略にいうと、「記憶が時間を生んでいる」と提示する。これも、オモシロイ。そうか、そう考えると、記憶というのは、未来のことを記憶しない。時間が不可逆的というのは、記憶を媒介にして時間を感知しているからと考えると、腑に落ちる。
 幼い頃と歳をとってからでは時間の過ぎゆき方が違うというのも、若い頃には記憶の繁多さが(無意識のうちにも)みられるが、歳をとると似たような日常に記憶も簡素になり、時間の感覚も疎となる。経験的には年齢を分母にして分子に過ぎゆく時間をおくと、速さ(の実感)が検出できると私は考えている。
 その延長で池谷は《曖昧な記憶》について話している。
 人の記憶は、「同調圧力で、見える色まで変わってしまう!?」「犯罪歴の偽記憶を脳内移植できる」とか、人の世界で起こる記憶の移ろいを取り上げた実験を紹介している。それによると、たとえば「犯罪歴」を誘導すると、おおよそ7割の人が3日程で、そうだったかもしれないと自らの記憶を(誘導に応じて)修正するという。これこそまさしく、冤罪の原形。いや、それだけではない。
 自分で(そう)思ったということが主体の起点ならば、記憶の修正も、圧力かどうかは別として周囲に同調してする思い込みもまた、主体的な(選び取った)振る舞い。それこそが何よりも重視される近代社会においては、他人の言動に影響されて(空っぽの)ワタシが振る舞っていることを、はたして「自律した個人」として重視していいのかとも、おもう。「私ってだれだ?」と疑念が生まれる。
 それと同時に、自身の主体的な振る舞い(の承認)こそが「生きている実感」でもある。では「生きている実感」はどこから生じているのか。池谷は、ヒトの胸中に生じる「リアル」の根拠に触れる脳科学を紹介する。
 一つは、ゲシュタルト崩壊とか離人症。現実感を喪失する感覚。これは、何気なくボーッとしているときに、普段見知っている漢字が、えっ? こうだったっけと思ったり、そんな風に考えている私ってだれ? とおもったりして戸惑うことがある。あるいは、「退屈するくらいなら痛みが欲しい」と振る舞う衝動の根っこに「生きている」という感覚を求めるおもいがある。それを《現実感を生み出す脳部位――島皮質のはたらき》に求め、人は《自分が「自分」を眺めている》という。池谷はその起点をこう言葉にする。

《僕らは生彩ある現実感からいつでも離脱することが可能だということ。僕は、この自由度こそが、謎を解く鍵だと考えている(なぜなら「生きている」という実感がない生物たちだって、立派に生きているからね)》

 これは、オモシロイ。「生きている(現実感)」を求める(人として)よりも、もっと根源に生物の一種としての「ありよう」に「生きている」感覚を据えている。これはつねづね、動物であることをうれしく感じているワタシの好みに合致する。
 では、「生きている」という実感の正体は何か?
 人は、自分から環境に働きかけてそれなりの応答を受けとり、その実感を「生きている」証左とする。つまり、外部との応答(環境との往還、フィードバック)が自身の存在証明となるメンドクサいメンタリティを持っている。さらにまた、環境との応答をそう受け止めていると自身の振る舞いを対象化してみるメタ言語世界(これを池谷は「知」としているようだ)を、癖にしている。その、《現実と脳内の往来。そのハブになっているのが島皮質だったね》と、「生きている実感」の交差点が島皮質であると見て取る。そして、こう言葉を紡ぐ。

《外部と内部を往来する能力をヒトは発達させてきた。これは必然的に「私」を意識させられる。/外から「私」をながめる機会を得ることで、私というものがだんだんと濃厚な存在になってくる》

 この濃厚な存在こそが、「生きている」実感につながっている、と。いや、見事な哲学的展開の脳科学的解析である。(つづく)

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