mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

文化人類学的SF小説

2024-06-21 06:16:34 | 日記
 先日(2024-06-13)「異常なのはどっちだ?」で取り上げた、モリス・バーマン『神経症的な美しさ――アウトサイダーがみた日本』(慶應義塾大学出版会、2022年)に紹介されていた、アーシュラ・ル・グィンの小説『言の葉の樹』(早川書房、2002年)を読んだ。図書館にあった。
 地球から他の惑星に移住してすっかりそちらに馴染んでいる知識人役の女性が、言語調査のために帰ってくるというお話。これは、統治の徹底のために送り込まれたスパイ調査なのか、保護のための「ふるさと」への旅なのかというミステリーを組み込んでいる。他の惑星がすでに支配権を持ち、文化的な統制も進み、文化は「語り」で伝えられ、図書類は焼き払われている(はず)という設定。
 これは、あるアジアの地の文化に対して欧米の文化が押し寄せ、圧倒的な技術的力を持ってその地の文化を押しつぶしたけれども、支配している方は、とんとそのように暴力的な統治をしているとは思いもしないという構図。それがすでに何年も続き、彼我の懸隔・齟齬はすれ違いも含めて大きい。
 なるほどとモリス・バーマンの読み取りが得心される。アメリカ文化に1853年と1945年に力尽くでこじ開けられ、制圧統治され、なおかつアメリカ文化を新たな「国体」として掲げている日本をモデルにしていると彼が読み取ったのも、無理はない。
 舞台は外地球からみたテラであるから、インドらしくもありネパールやチベットのようでもあるので、グィンが日本を意識しているとは思わなかったが、そう読んでも違和感はない。いま、ここで、読むものとしては、古色蒼然とした昔日の色合いを残して暮らしているアカ族の人たちと列島の文化とを重ねて解読しながら読み進めることになった。
 人類学的(惑星)考察対象の差異を、文化とはいわず「言の葉の樹」と絞っているところ。ヒトがするお喋りを生きる所業と表現する。ほほう、面白い。ものを考えるということも、ただのお喋りも同じ平面に置く。ただ文字表記を厳しく取り締まっていたためにテラのアカ族は図書の一部を高山の氷河のなかに隠している。調査役の女性は、川の源流へと船で遡る。
 あ、そうだ、その設定はワタシの裡側と響き合うイメージだ。上流から流れ来たった「言の葉の樹」を受け止めているのが、下流に身を置くまさしく末裔の無意識。そうした伝承が「語り」で受け継がれてきたというのは、子どもがいつ知らず言の葉を身に付け、子々孫々に受け継いできた径庭をなぞるイメージを湛えている。
 統治政府の禁圧を逃れて、図書や文字など記録類を5000m級の雪山に隠し、細々と伝承していっている様子を今の日本に見て取るのは、その内側にいる者としてはなかなかムツカシイ。むしろメキシコ在住のアメリカ人モリス・バーマンなればこそ、そういう読み取りをすることもできたのだろうと感じる。モリスの解読法は、まさしく文化人類学的な(消えゆく文化への)視線である。
 グィンの物語は、文化人類学者が調査した地の「言の葉の樹」をどう評価し、どう我がこととして扱うかを語っている。だが内側にいて読むものとしては、すでにそのとき我が「言の葉の樹」の記録図書を、それと意識して護るものと思ってもいないのではないかと、日々のメディア報道を思い浮かべて慨嘆している。
 おいおい、じゃあ、おまえさんはどうなんだよと、当事者性を問う声が身の裡から聞こえてきた。さて、そうだよなあ。ワタシは、記録図書のネットワークのお陰で、概ね求めるものを手に取っては、その先にあるワカラナイ世界の広大さに驚嘆している。もうそれだけで十分すぎるほどの奥行きと深さを感じて、この身がいっぱいである。それ以上の何を望むよと思いさえする。
 それと同時に、些末なことかもしれないが、日本の翻訳文化の隆盛が、どれほどわが「言の葉の樹」の樹間を支えたことかとありがたく思う。もちろん21世紀になって、翻訳文化が発達せず英語で高等教育をこなしてきた国々が、日本を追い越してグローバル世界で活躍していることはわかっている。でも、翻訳という腕達者たちが支えた保護文化がなおのこと、わが身の(同胞も含めて)血肉になっていると感じられ、「樹幹」の逞しさに思えているのである。

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