mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

戦乱/混沌に我が身の始原を感じとる

2016-03-28 11:03:15 | 日記
 
 和田竜『村上海賊の娘(上)(下)』(新潮社、2013年)を読む。通巻すると千ページを超える大部作。なぜ読む気になったか。動機は二つある。
 
 ひとつは、私が小学校上級学年(1952~4年)の頃の水泳授業にある。そのころは夏場、瀬戸内海の渋川海水浴場まで出かけて行って水泳の授業を行った。校長の苗字は四宮。四宮水軍の末裔ということばもそのときに知った。備南地域の海を仕切っていた海賊だよと聞かされ、へえ、海賊も校長センセイをやるんだと思ったこと、その校長の泳ぎの達者なこともあって、カイゾクという音の響きに心地よさを感じたことを覚えている。教えられた泳ぎは、ノシ、立ち泳ぎ、平泳ぎ、抜き手、潜水。最後6年生になったら、カッターを漕ぐのもやった。大きくなって(淡水の)プールで泳ぐときに(体が重くて)驚いたこともある。クロールの息継ぎも我流になった。後にものの本を読むようになって、村上水軍が瀬戸内一帯の統括をしており、四宮水軍はその一支流だとも知った。でも一度も、瀬戸内海賊の話を目にしていなかったから、食指が動いたというわけ。
 
 もうひとつは、和田竜という作家。「のぼうの城」という映画の原作者と聞いた。「のぼうの城」は埼玉県の北部、行田にあった城。秀吉が攻めて、ついに攻めきれなかったという物語りを映画にした。飄々とした野村萬斎の城主が、わずかな兵を率いて2万に及ぶ石田三成の軍勢に立ち向かう戦国絵巻。映画は、物語りを発掘したという風情があった。
 
 だが読みはじめて、なんだこれは、物語りというよりは、史料解読に(作家の)重きがあるんじゃないかと思うほど、「史料」にこだわって記述がすすむ。下巻の末尾に上がっていた史料の数は、優に80冊を超える。6年かけて完成させたそうだ。丁寧に資料を読み解き、その空白部分に物語を差し込んで話しは展開する。といっても、空白部分が多いから、物語りの合間に資料をさしはさんでもっともらしさを繕っているのかもしれない。だが全体の印象は、陸戦と船戦の違い、船という装備とそれを動かす水夫(かこ)と兵の違い、海戦における武器と戦術の違いなどなど、史実を踏まえていると思えば、よけい面白く、作家の描きこみたいテーマなどはそっちのけで、読みすすんだ。最終的には、ちょっと荒唐無稽な活劇ものと思えた。
 
 印象に残ったのは、海上の覇権が流動的に形成されており、海賊たちは(戦国の末期という時代もあって、武家の諸勢力の)合従連衡のなかを泳ぎながら、「我が一族を守る」というインセンティヴに突き動かされて、命を懸けるというお話しである。最後の「命を懸ける」というのは、時代のセンスもあろうから特段感心することでもないのだが、覇権が流動的であり、争いの形成をみながら敵味方識別を変えるというのも、ちょっと近代のマキャベリズムを思い起こさせて、日本の封建制という契約関係の萌芽を感じさせて面白いと思った。いまほど(各勢力が思うところは)単一ではないし、棒のごとく一貫しているわけでもない。秀吉が(信長の死後6年目に)出したとされる「海賊禁止令」が(どのように執行されていったのかも知りたいと思ったが)執り行われたことによって、中央集権的な(武家)支配勢力がかたちづくられて、「中央」となっていったことがうかがわれる。それとても、秀吉―家康を通じて(社会が)一枚岩になったわけではないのだ。
 
 平安のころとは違うであろうし、もっと昔の漢の倭の那の国が争っていたころとも、まったく違いうであろう。にもかかわらず私などは、ともすると昔から「大和」は単一の中央政権が支配していたと前提にして考えがちである。気がつくと、そういう前提に立ってしまっている。それほどに、今の時代の身体には、全国が単一であり、海上であれ陸上であれ、交通が自在であったように、観念がしみ込んでいる。そう思い込んで物語りを読んだりしている。それをこうやって身からひきはがして、混沌のなかをくぐり抜けて、今に来ったと読み取るのは、やはり爽快である。我が身の始原に触れているような感触と言おうか。
 
 活劇的な部分よりも、覇権の争いを通じた海上世界の揺れ動きが、今の時代(の将来)を考えるうえでも重要なのかもしれない、と思った。

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