AERA2022/04/12の発信で古賀茂明が「欧米人の目を持つ日本人」という記事を提供している。簡略に要旨を紹介すると、ウクライナの難民に対してビビッドに反応するのに、ミャンマーや香港や台湾に対してなぜ人々の関心は向かないのかと問い、
《私たちは、アジア人でありながら、アジア人の目で見ることができない、欧米人の目を持った人間になっている。そして、それに気づくこともできなくなってしまったのではないか。私自身も、自らの目を疑うべきだとあらためて感じている》
と結んでいる。私も今は、ミャンマーや香港を忘れてウクライナの成り行きに気持ちが傾いている。「欧米人の目を持つ日本人」なのかと自問し、ちょっと違うんじゃないかと思った。
(1)ミャンマーや香港のモンダイは、一つの国内で起こっている。もちろん自由社会と民主主義という論立てをすれば、ウクライナで侵害されていることと同質のモンダイと言えなくもないし、市井の民の暮らしが破壊されているモンダイとすれば、全く同じだが、ウクライナはロシアという外国からの侵害である。私の身の反応は、間違いなくこの点に基点がある。だからすぐに台湾への中国の侵攻をイメージして反応した。今もその関心を軸に成り行きを見守っていると感じている。この、国に関する関心に、島国で暮らしてきた私たちの固有性がまとわりついていることは、なんとなく感じているが、国民国家の理屈はどうあれ、国のことはその国のこととして(突き放して)みている「わたし」は感じている。でもこれは、欧米人の目を持つというのとは、違うだろう。
(2)ウクライナ侵攻のTV画像を見たときに私が感じた最初の印象は、なんだ浦和よりはるかに都会じゃないかということであった。避難する人たちの衣服や振る舞いの様子も、おしゃれ。まさしく西欧的であった。これへの私の反応は、欧米的であったからというよりは、文化的な同質性が共感を強くしている。まさしく今の私たちの暮らしが(このように)侵害されるんだという見本のように感じられた。(1)に述べた台湾をイメージしたのも、それと同じであった。香港の事態をそうとらえなかったのは、では、どうなのか。香港の事態は、統治のモンダイとして展開した。もちろんそれが、自由社会と民主主義というシステムとぶつかることは、それとしてモンダイであるが、ウクライナの戦争と同列に受けとるわけにはいかない。
(3)では、イラク、シリア、アフガニスタンの戦乱とウクライナの受け止め方が違うのは、何なのか。上記(2)の文化的な異質性が大きく作用しているのではないかと、自答している。イスラムだ。もちろんイスラムの民の暮らしが私のそれとどう異なるかと問えば、西欧の民の暮らしと私のそれがどう同質なのかと問うことにもなる。となるとキリスト教徒の親和性とイスラム教徒の違和感と論立ても出来なくはないが、そういう大上段に振りかぶった違いを言っているわけではない。だが、女子教育を禁じたり、女子の外出を制限したりするイスラム教の発想は、ワシは知らんよといいたくなるほど疎遠だ。疎遠にして置きたい。シーア派だスンニ派だと宗教的に争うというのも、汎神論に近い私の自然信仰からすると、縁がない。
(4)アジア人としての立ち位置はどう考えているのかと、古賀茂明に問われているように思うが、逆に古賀氏はそれをどう考えているのか聞きたいと思う。「アジア人」という一体性とは、何か。私の身の内から絞り出すと、地勢的な関係しか浮かんでこない。欧米の近代化に席捲されていいように振り回されてきたアジアと言えば、それはそれで日本も似たような経験と経ていると言わねばならないが、だがそれが、アイデンティティとなるほど文化的な共通性を為してきたかと問えば、中華文明を基軸とした影響を受けてきたという歴史性しか見当たらない。だが今やそれは、尊大な習近平中国を持ち上げることになると思うと、一顧だにしたくないというのが、正直な気分だ。
(5)古賀氏は、私たち日本人のアジアに向ける関心の冷たいことが、日本の政治家の施策を左右していると非難しているようだが、それは的を射た指摘だろうか。市井の民の私からすると、それは、マスメディアや政治家への直接の批判として展開しろよ、こっちへケツを持ってくるなと思う。私は、国家と社会を峻別して行きたいと思っている。もちろん影響がないと言っているのではない。だが、いちいちそちらに付き合って、こちらを変えるわけにはいかない。日本社会の気風が欧米に傾いているのを、今更アジア風に変えて行けというのなら、それなりの転換軸を示して貰わなければならない。それが出来ないなら(出来ないと思うが)、古賀氏の指摘はやつあたり、。しかも弱いものに八つ当たりしていると言わねばならない。