もう8年か、と2014年に亡くなった弟のことを思った。ほとんど忘れていた。私が「お釈迦さんの誕生日だ」と昨日言ったのに対して、カミサンが「Jさんの命日よね、明日」といったので想い出したのだ。いわれなければ、すーっと通り過ぎていたかも知れない。
そう言えば8年前の桜は、ちょうどこの頃から満開を迎えていたなあ。葬儀まで3日ほど間があいた所為で、自宅に置いた遺体の傍らに桜の花の写真を撮り、「花の灯りたてまつる」という石牟礼道子の言葉を重ねて飾っていた。見沼田んぼも秋ヶ瀬公園も、あの年には学校の入学式に合わせるように満開になった。
だが今年は、満開が10日早かった。昨年はそれよりさらに一週間以上早い。まさかとは思うが、温暖化がこんなに加速度的に進行しているってことがあるのか。
とは言え、2014年に亡くなった弟は、トランプの登場を知らない。トランプの言動のバタフライ効果が、2016年以降の世界に、ホンネ剥き出しの#ミー・ファーストをもたらしたことも知らない。ヒトが虚飾を剥ぎ取ってすっかり変わってきたように思う。と同時に、モノゴトに関する真偽を私たちは何を根拠に判断しているのだろうと、自らを疑うことにもなった。人々が何に「権威」を置いているかも露わになっていった。世界が変わると共に、わが身の確信が何に裏付けられているのかと自問自答することが多くなった。これは私にとっては習性が一般化したように感じられ、嬉しい変化であったが、逆に人々がみなバラバラに生きていることの再確認でもあった。
桜の開花は人々の内心とは別の理で動いているのであろう。とすると、この「別の理」は人々が(それぞれの心裡と違って)共有できることなのか。それは、自然か。時間か。そういって「別の理」を全く別の次元に追いやってしまったことが、ヒトまで理性主義という「さらに別の理」に追い込んで、これはこれでまた、困ったモンダイをもたらす結果になった。その行き着いた先に、ヒトも自然、時間も、ヒトの世界の理。つまり、世界を思い描く主体としてヒトを特権化して、特権化したことを忘れて脇に置くというヒトのクセを普遍化してしまった。
そうか、それを元に戻そうという動きが、自然も時間も、客観的というモノゴトを考えているのはヒトであるという、主体性恢復の自然や時間観察か。それが近年の、研究者世界の傾向なのか。私の関心であるばかりでなく、自然科学の世界も哲学と響き合うような記述の本が出来するようになった。
分子生物学が神経系を介在させて「感情」や「心」を生物の感官の統合機構と位置づけて考察する研究記述が、たとえば、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序--感情、意識、創造性と文化の起源』(白揚社、2019年)にも見受けられ、何だ私の経験的な身体感覚を描いてくれているじゃないかと心裡が震える感触を覚えながら読み進めた。あるいはまた、量子論の物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』(NHK出版、2019年)は、2021年の12月にも何度か触れて記したが、物理学と哲学の融合していく感触を感じている。
ことごとく、そうやって、わが身と自然との一体性を保ちつつモノゴトを見つめていくことが、誰が、何時、何処から、何を、どのように、なぜ、見つめ書き記しているかを、恒に常に明らかにしながら世界を語る作法を作り上げていっている。それが好ましいと思う。
でも、8年も経つと忘れてしまっているというヒトのクセも、どこかで誰か研究者が、解き明かそうとしてくれているかも知れないが、私はわが自然の成り行きとして受け容れていくのだと、弟の9回忌におもったわけだ。