昨日(4/1)の朝日新聞の「声」欄に妙な投書が載った。「大統領演説 国会に覚悟あったか」という表題の「会社員41歳」。ウクライナの《ゼレンスキ氏に「演説をさせた」国会に納得が出来ません》というもの。《もし、ゼレンスキー氏が演説中に日本に軍事的な支援を求めたら? もし、「極東を攻撃してくれ」と頼まれたらどうしたでしょう?》と疑問を呈し、こう続ける。《政治面で安易に戦争の当事者とかかわることは避けるべきだ。……片一方のトップの発言を公に聞くことが正しい行為とは、私には思えません》と。
この方は、ロシアにも言い分があると言いたいのでしょうか。ならばそう言えばいいでしょうに、それは行間に伏せられている。妙な投稿だなと思った。
2月のロシアとベラルーシの軍事演習が「ウクライナへの攻撃を準備している」とアメリカ・インテリジェンスの報道が為されていたときから、私はロシアの振る舞いが柳条湖や盧溝橋と同様の侵略的な行為とみてきた。だから戦禍を受けているウクライナの呼びかけに応じることは(投書の文言にいう)「平和を標榜する国家」としては当然のことと受け止めていた。これが違うって事か?
この投書は、「日本が軍事支援する(ウクライナの?)思惑」には触れているが、ロシアの言い分には触れていない。触れもせで、ロシアとウクライナを対等の戦争当事者と位置づけて「片一方の言い分を聞く」とレトリックを駆使している。NATOが加盟国を東欧へ拡大し、ロシアに脅威を与えていたというのなら、そのことを直に論ずればいいこと。ウクライナ東部地方の親ロシア系住民への殺戮行為が行われているというのであれば、それがなぜ報道されないのかとマス・メディアをも含めて論難すればいい。だがそれもしない。親ロシア系評論家が歴史的経緯や欧米が国際的約束を破ってきたと口にはしているが、それがウクライナへの武力攻撃につながるモンダイだと受け止めることが、私にはできない。
なぜか。NATOの不拡大方針が変容してきたには、欧米の民主主義的社会体制が(旧東欧社会にも)支持され広がってきたという経緯がある。それが、専制的な統治を忌避する社会気風を醸成してきた。それを「国際的約束を反故にした」という断片だけを切り取って、いきなり武力攻撃に突っ込んでいくというのは、どう考えても無理がある。でもそうしたからには、ロシア側にもそれだけの理由があるに違いない、と考えてはみた。だが、それは「情報統制」によって隠されているから、見えてこない。今回の武力攻撃が「プーチンの戦争」と呼ばれる所以である。
この評価の分岐点には、民主主義体制か専制主義的体制かという「情報統制」の社会システムの違いに対する評価があると私自身は考えている。いいことも悪いことも、ともかく報道して、その判断を市井の人たちそれぞれがやってくれと投げ出すのが、民主主義体制の報道スタンス。他方、市井の人たちは流言飛語に惑わされ、不安に駆られて何をするか分からないから「情報統制」をして、政権政府の見解に沿った情報の限って報道を許すというのは、専制主義的体制の情報管理。統治者としては、後者が望ましいと思うのは当然と思うのであろうが、専制主義政治体制ではない日本でも、市井の民に情報判断を任せるやり方を取らない為政者は、結構多い。情報公開を渋る。黒塗りの「公開文書」は、未だしばしば目にする。その方たちは、では今回のロシアの情報統制を評価しているかというと、まさかそういうことはあるまい。民主主義も専制主義も、いずれも人類史が歩んできた足跡を残している。為政者の胸中に、その痕跡が残っていても不思議ではない。
前者は右往左往し、一つにまとまらない。けど、それが市井の民の常態よと見切れば、民主主義は、何が正解かは分からないが、情報を公開し、どうしたらいいかをみなで考え、方策を作り上げていくという社会統治の(民主的)方法である。それを好ましく思うというのが、市井の民の民主主義である。