mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

シルクロードの旅(6)古い地勢と古びた感性の奇岩怪石の地

2018-05-29 21:41:00 | 日記
 
 この旅の記録は、5/21の第五回いらいですから、8日間もご無沙汰しました。ま、その途中に、山が入り、山の疲労と新しい社会的お役目の神経戦が加わった身体トラブルで、ごちゃごちゃとしてしまいました。すっかりシルクロードのことは頭から抜けてしまっていました。でも、せっかっく行ってきたのですから、何とかメモ代わりになる程度のことは記しておかねばなりません。
 
 さて5/11(土)の朝、7:30にホテルのレストランで朝食。バイキング式ですが、日本や海外の奈のある観光地のそれのように品数は多くありません。そうめんのような細く白い麺もあり、どう食べるのかわからないまま、手近の汁に浸して、いわゆる「つけ麺」風に食べていたのですが、他の方々の食べ方をみると、豚肉のチャーシューや炒めた野菜や豆などをどんどん上に盛り付け、かき混ぜて食べているのです。五目冷麺とでも言いましょうか。ただどの味にも香辛料が利いていて、食べる姿はなかなかの醍醐味があります。驚いたのは、学校へ行く途中の子どもを連れたお母さんやお父さんが入ってきて、席を並べて食事をしていたことです。蘭州でも張棭でも、小学校の送り迎えは保護者が同伴するのが原則のようです。一人っ子ということも何か影響があるかもしれませんが、事故や誘拐を心配しているのだと、ガイドの丁さんは言います。登校時間や下校時間になると、校門の前に父母や祖父母の集まっている姿がみられました。「朝、家で食事をつくらないの?」と誰かが声を上げます。そう言えば、四川省の成都へ行ったときであったか、家では調理をしないのがあ普通だ、台所もないよとがおぢ画高中国通のガイドだか中国通の友人だかが話していたのを思い出す。そういう生活慣習は変わらないんだね、なかなか。
 
 この日は、張棭丹霞の文字通りの本命を歩く日であった。氷河丹霞と七彩丹霞。いつかも記したが、丹霞というのはどちらの文字も赤いという意味だとガイドは言う。私は丹は赤い、霞は黄砂による霞む世界くらいに思っていた。いやその通りに、バスで走る外の世界は、見事に霞んでいる。覆面をしている人たちもかなりいる。私たちはそれでも、街中から外へ向かう。中心街を抜けると、それなりにスムーズである。だが逆方向の車は、びっしりと渋滞。ガイドの話では、それなりに渋滞解消の施策を講じているらしい。末尾のナンバーの偶数奇数などによって運転できる日できない日を設けたりするが、ならば税金を半分にしろと訴えがあったり、上手くいかないらしい。面白いと思った。中国って、アメリカと同じような社会関係なんだ。日本なら、すぐには訴訟に訴えない。子どもを登下校に誘拐の心配をするのも、赤の他人が入り混じって暮らしてきたから、何が起こるかわからないのが日常と肌身が反応するのであろう。だから訴訟という手段があれば、まずは訴えて、言いたいだけは言わせてもらうわという気性も、案外社会に共通する心性なのかもしれない。
 
 だんだんと山迫るが、やはりどこもここも「工事中」の風景だ。山肌に「蒙古大営」と一文字ずつ置かれた大きな表示があり、その山頂に「望楼」のような建物がある。蒙古のゴビ砂漠と境を接する地であるから蒙古族もいようが、興味を魅かれる。郊外をも遠く53km離れた氷溝丹霞に着く。昨日の平山湖大峡谷の入口と同じような、作り物の大岩山のセットが出迎えてくれる。「張棭国家地質公園・泳溝丹霞」と大きな看板が掲げられている(じつは泳という文字が、「泳」という文字ではなく「サンズイ+水」。ヒョウと読んでいた)。入口をくぐると、バスに乗り4kmほど先まで運んでくれる。そこから奥へ行く人は12人ほどの乗れるシャトルカートに乗り換える。内側の乗り降りは、無料で自由だ。私たちはまず、二つあるコースの右側へ向かう。奇岩というか、100mほどの高さの大きな岩が屹立する。コースに、ことばからすると中国人の観光客がたむろして写真を撮っている。その間にある山体に階段がしつらえられいて、私たちは登っていく。眺望ががらりと変わる。ここまで来る人はそう多くはないが、とっても大した高さではない。その尾根筋のルートをすすむと二本のすらりとした岩の柱が並び立つ。地質公園というのに、それらの巌に名前を付けて陰陽の柱とか、金蝦蟇拝佛だとか七女峰とか名付けている。よくやる「名所」ってわけだ。そんなことよりどのようにしてこのような「地貌」ができたのか説明しているところに行きたいのだが、ガイドはあまり関心を示さない。仏教や秦漢時代の歴史にはあれほどの日本語を駆使していたのに、こちらの方はとんと平凡なオジサンに堕している。
 
 戻ってシャトルカートに乗り、一番奥まで送ってもらう。そこから尾根に上がり、くねくねと稜線を歩いてバス乗り場辺りに下るルートがある。ガイドはここからまたカートでそこへ引き返し、私たちを待つといって戻っていった。尾根に上がる。今度は北と東の方の地勢が一望できる。同じように山腹が削られて崖となりわりと尾根上は丸くなっている稜線が四通八達するように伸び、重なっている。ガリガリと切れ落ちた山肌全体にルーブル城と名づけたものもある。幅150m、高さ50mとあり、本物のルーブル余折は20m高いと説明板にある。だけど、これって、ヨーロッパかぶれの権威主義じゃないのと、笑ってしまう。ま、いや、こちとらは古い大陸の地貌がこんな面をしてるんだと直に見ただけでも結構じゃないのと思いながら、歩いてすすむ。ガイドは2時間かかるとか言っていたけど、この調子じゃ1時間だねと気分よく歩く。暑いのだけが堪える。
 
 尾根ばかりを伝るルートは途中で閉鎖されていて、カートの道に降りるように進んでしまう。舗装された道を歩くのも、景観が変わって見えて、悪くない。こういう地球の変顔後に踏み込むと、どこにいても面白いと思うようになる。途中で尾根筋の方へ登る道があったから、そちらへ踏み込む。また世の中を睥睨するようになり、突き当りから振り返ると、バスの出発点が見える。待っているガイドも見えるように思ったが、逆に向こうからも見えていたのであろう。登り口にもどってみると、シャトルカートが一台止まっている。「丁さんが、我々をみて、頼んでくれたんじゃないの」とOさん。彼はこういうことにとてもやわらかく応対する。じゃあ乗ろうよと、暑さに閉口していたから、乗ってさかさかと帰り着いた。ふたたびバスに乗って入口まで戻ったのだが、もう12時半近くなっていた。私たちが到着したのは9時40分頃だから、3時間近く過ごしていたことになる。(つづく)