mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちの乳海攪拌

2016-04-25 09:28:38 | 日記
 
 土曜日から一泊で京都へ足を運んだ。足掛け47年間にわたって続けてきたグルーピングを3月で解散した。その打ち上げというわけだ。グルーピングの呼称は時と場合によって変わった。1970年から36年間刊行した半月刊誌のタイトルから「異議あり!」と自称し、1979年には本拠地を定めて「埼玉教育塾」と名乗って月例の教育論議の場をつくり、それらの記録をまとめた本が売れ始めて全国区に通用する名前が必要と出版社にいわれて「プロ教師の会」とも紹介された。あまり名が売れることには関心がなく、私たち自身の思索の場として息長く続け、メンバーの最高齢者が75歳になったらやめようと2016年閉鎖を謳って続けてきたわけである。メンバーの出入りもないわけではなかったが、そのうち二人は途中で病没した。ことに昨年12月に亡くなったMさんのことは、そのときにこの欄でも記した。実に坦々と実務的な部面を担って、このグルーピングを支えてくれた。そうしたことに感謝し、幕をひく場面に至ったことを祝って京都に集まって解散式をやった。なぜ京都なのか。実は、メンバーの最高齢者が歳をとって暮らしが思いのままにならなくなり、グルーピングを中退して子どもの住む京都の地へ移り住んでいたから、せめて解散のときには顔を併せようと考えたわけである。
 
 足掛け47年間の想いをそれぞれに話しながら、私は、これは私たちの乳海攪拌であったと思っていた。カンボジアのアンコールワットの入口にある石彫に「乳海攪拌」と名づけられたものがある。ヒンドゥーの物語りに由来する混沌の海をかき混ぜて世界をつくりだした神々の物語り。だが私は、これは私たち自身の世界形成の物語りだと受け止めた。つまり私たちは、生まれ落ちたときから一つの世界に抱かれている。自己形成と呼ぶのはずいぶん後になってからのこと、ほとんど青年期を迎えるまでは、果ても見えない茫漠とした抱かれた世界を丸ごと我がこととして受け容れて成長する。その過程で、一つひとつ混沌のなかから、世界を分節化しはじめる。
 
 己と母とが分節し、子どもと大人が分節し、世間と社会とが分節するというふうにして、気がつくと「己」「自己」「私」がそこそこに出来上がって(いるように感じて)世の中に位置していたのであった。乳海攪拌同様に、混沌の世界から世界を分節化することは、気がつけばそれなりに実存している「己」の輪郭を描きとることであった。自分の感性の特異なることを意識したとき世界が「私」をどうつくってきたかを分節化する時でもあった。混沌の海は私の揺り籠であった。その海から世界を分節化することは、コトやモノに名前を付け、カンケイを取り出して引きずり出すことであった。そうして引き摺りだしてみれば、その先にまた無明の世界がほんのりと見えてきているというのが、現在の地点だと言える。「無明」という仏教用語の使い方としては間違っているかもしれないが、般若心経に謂う「無無明尽」というのは、さらにその先の世界へ思念を飛ばしたときに感じることのできる達観なのであろうと思っている。
 
 1970年のグルーピングの出発のとき私は27歳。その時すでに私は、混沌の海からなにがしかのものを引きずり出してはいたが、それが安定する形をとることはなく、何度も攪拌され、引き摺り直され、再構成されなければならなかった。その意味で、人と出会ったこと、教育の現場に身を置いて、そこを基点に己を問い、思索を深め、他者と交わって社会へ、世界へと視線を送ってきたことが、今の私になってきたと感じている。そういう意味で、このグルーピングは、私の自己形成の歩みそのものであり、そこでの振る舞い方が、私流の世界とのかかわりの仕方であったと、いまさらながら思っている。長いように思うのは、自己一個の感懐、たどりついてみると、たいしたことはない。だが、世界が大きく変貌してきたことは、暮らしのどこの面をとっても明々白々。せめてその変遷の経緯をたどり記しておきたいと、まだ私の内部では「混沌」が少しばかりチーズ状に粘りを増してわだかまっている。それがどこまで「達観」に近づけるか。理屈をかたちづくりたいわけではないから、ほぼ間違いなく、分節化のしっぱなし、「ささらほうさら」に終わること間違いないと思えるが、身の許す限り世界を引きずり出してみたいと願っている。