人生が好転する唯一無二の秘訣がある。
こ(う)すれば幸せになれるという魔法のランプがあるとすれば
誰しも欲しがるだろう。
それは何か。
それは、
「捨身(しゃしん)の心」である。
捨て身と呼んでも構わない。
「捨身」とは、
自分を犠牲にして他の命を生かす行為のことである。
当然、人に善行を施すことは、自分に対しては犠牲の側面をつ。
何かの見返りを求めて人に善行を尽くすことはよくあることだ。
だが、見返りを求めず人に善行を尽くすことは、思ったよりも難しい。
無意識のうちに、見返りを期待するものだ。
我さえよければそれでよいは、いくら表面は善人ぶっていても最低の行為だ。
他人を愛するには、まず自分を好きになることだ、とよく言われる。
自分を愛せない者は他人を愛せない?
それは詭弁だ。
我れよしは、自己愛の最たるものなのだ。
それは自己中を増やすのみ。
「捨身飼虎」という言葉がある。
お釈迦さまの前世の王子が
飢えた虎の親子をかわいそうに思って自分の体を食べさせたという話だ。
大いなる菩薩心を発して他人を利益しようとするなら、
衆生のために身命を捨てることなど難しいことではない、と説く。
矛盾するが、
幸せになろうと思って他人に善行を施しても、なかなかそうはならない。
それは、その時点で見返りを求めているからだ。
無意識のうちに、盾になって銃弾からわが子を守る親心のような
無心な捨て身の心が必要なのだ。
それが、他人に対してもできるか。
食べ物や金品を与えるという物質的なことだけではない。
優しい言葉をかける。
一緒に寄り添う。
話を聞く。
共に涙を流す。
出来そうでなかなかできないことだ。
だが、それを成し得た時、
自ずと幸せが舞い込んでくる。
そして、その幸せさえもシェアできれば、
幸せの連続性が起きてくる。
その時、人生が好転する。
イエスキリストは
「求めよ、さらば与えられん」と言った。
仏教の教えには、
「与えよ、さらば自ずと与えられん」、とある。
人に無心することはあっても、無心の心になることは難しい。
【追記】
ボクの好きな言葉
禅の言葉に
『好事不如無 』〈碧巌録〉というものがある。
好事 (こうじ) 無きに如 (しか) ず、と読む。
好悪の分別を捨て、
好事は好事に任せ、又否定もせず、求めもせず捨てることも無く
あるがままに受け止める無為自然、無心の境地を尊んだ言葉だ。
好事とは文字通り好き事、善い事、目出度いことの意味であり誰もが望むことである。
良い事は無いよりあった方が好ましいと思うのが普通の人の感覚だ。
しかし、好事があればその好事に執着し、もっともっとの求める心もおきやすい。
逆に悪しき事や凶事があれば、悪しきを嫌い、心を曇らし沈んでしまうこともある。
煩悩は、
好悪、吉凶の分別をなして好を取り、
悪を捨てる等による「取捨憎愛」の心から生ずる。
もちろん、好事を否定し排斥するものではない。
悪しきこともまた同じで、
好悪の分別を捨て、好事も悪しき事もあるがままに受け止めていく、
その「無心の境地」より生れる判断こそ尊いのだ。
では「無心の境地」はどうすれば生まれるか。
簡単な方法がある。
それは、
座って瞑想するだけ。
つまり、
『座禅』
続きはまた別の機会に。
こ(う)すれば幸せになれるという魔法のランプがあるとすれば
誰しも欲しがるだろう。
それは何か。
それは、
「捨身(しゃしん)の心」である。
捨て身と呼んでも構わない。
「捨身」とは、
自分を犠牲にして他の命を生かす行為のことである。
当然、人に善行を施すことは、自分に対しては犠牲の側面をつ。
何かの見返りを求めて人に善行を尽くすことはよくあることだ。
だが、見返りを求めず人に善行を尽くすことは、思ったよりも難しい。
無意識のうちに、見返りを期待するものだ。
我さえよければそれでよいは、いくら表面は善人ぶっていても最低の行為だ。
他人を愛するには、まず自分を好きになることだ、とよく言われる。
自分を愛せない者は他人を愛せない?
それは詭弁だ。
我れよしは、自己愛の最たるものなのだ。
それは自己中を増やすのみ。
「捨身飼虎」という言葉がある。
お釈迦さまの前世の王子が
飢えた虎の親子をかわいそうに思って自分の体を食べさせたという話だ。
大いなる菩薩心を発して他人を利益しようとするなら、
衆生のために身命を捨てることなど難しいことではない、と説く。
矛盾するが、
幸せになろうと思って他人に善行を施しても、なかなかそうはならない。
それは、その時点で見返りを求めているからだ。
無意識のうちに、盾になって銃弾からわが子を守る親心のような
無心な捨て身の心が必要なのだ。
それが、他人に対してもできるか。
食べ物や金品を与えるという物質的なことだけではない。
優しい言葉をかける。
一緒に寄り添う。
話を聞く。
共に涙を流す。
出来そうでなかなかできないことだ。
だが、それを成し得た時、
自ずと幸せが舞い込んでくる。
そして、その幸せさえもシェアできれば、
幸せの連続性が起きてくる。
その時、人生が好転する。
イエスキリストは
「求めよ、さらば与えられん」と言った。
仏教の教えには、
「与えよ、さらば自ずと与えられん」、とある。
人に無心することはあっても、無心の心になることは難しい。
【追記】
ボクの好きな言葉
禅の言葉に
『好事不如無 』〈碧巌録〉というものがある。
好事 (こうじ) 無きに如 (しか) ず、と読む。
好悪の分別を捨て、
好事は好事に任せ、又否定もせず、求めもせず捨てることも無く
あるがままに受け止める無為自然、無心の境地を尊んだ言葉だ。
好事とは文字通り好き事、善い事、目出度いことの意味であり誰もが望むことである。
良い事は無いよりあった方が好ましいと思うのが普通の人の感覚だ。
しかし、好事があればその好事に執着し、もっともっとの求める心もおきやすい。
逆に悪しき事や凶事があれば、悪しきを嫌い、心を曇らし沈んでしまうこともある。
煩悩は、
好悪、吉凶の分別をなして好を取り、
悪を捨てる等による「取捨憎愛」の心から生ずる。
もちろん、好事を否定し排斥するものではない。
悪しきこともまた同じで、
好悪の分別を捨て、好事も悪しき事もあるがままに受け止めていく、
その「無心の境地」より生れる判断こそ尊いのだ。
では「無心の境地」はどうすれば生まれるか。
簡単な方法がある。
それは、
座って瞑想するだけ。
つまり、
『座禅』
続きはまた別の機会に。