『国津道(くにつみち)』 目次
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- 国津道(くにつみち)- 第24回
河童の話をした先輩が目を丸くした。
「瀬戸?」
「ええ、瀬戸朝霞さん。 それとも朝霞君?」
「なんでお前が瀬戸を知ってるんだよ」
「ちょっと袖をすり合わせまして」
「なんだよその表現」
「その瀬戸朝霞さんか、朝霞君かのメルアド知りません?」
「“さん” だよ、お前より一つ上」
「あ、そうなんだ」
「お前・・・うちの出張所の恥を晒したんじゃないだろうな」
「なに、その言い方。 失礼な」
「何が失礼だよ、十分に値する」
「ま、僕は大人ですから、そこはスルーしてあげましょう」
「どこがだよ」
「で? メルアド知りません?」
「・・・」
「知ってますね」
河童先輩・・・もとい、河童の話をした先輩・・・長すぎる、河童先輩でいいか。 その河童先輩である権東が言うには、何年も前のメルアドだという。 だからもう変わっているかもしれないと。
「え? メルアドが変わっていて連絡なしですか? わぁー、信用無さ過ぎ」
「浅香ぁー」
「えーっと、信用があるってのなら、メール打ってもらえません? 連絡がついたら権東さんの信用爆上げ。 反対に行き先不明ですってお知らせがあったら」
浅香がニマリと笑う。
「お前って・・・ホンットに根性悪いよな」
「あれ? そんなことないですよ? それって気のせいですよ」
「言ってろ!」
引継ぎの時間となった。
河童先輩が叫んでから一日を終えた。 二四時間が終わった。
冬は心筋梗塞や脳溢血、動脈乖離の患者が増える。
暖かくなればそんな病状の患者が少しでも減るだろうが、今度は熱射病や熱中症の患者が増える。
「うぇー」 と、出張所に戻って来た浅香が声を吐く。
「なんだよ、バテたのか?」
患者の前で言わなかっただけこの男に関しては感心だ。 いつもこんな態度だが、それを患者に見せていない。 付き添う家族にも。 当たり前と言えば当たり前だが。
「いやぁ・・・・昨日、寝てないもんでして」
「は?」
「色々とあって・・・体力も底を突きたかなと。 僕も歳には逆らえませんー」
浅香が勝手に泣き言を吠えているが、そう言えば出動を待っている間、いつもなら事務処理を蹴っ飛ばして消防隊員と一緒に自主トレをしているのに、今日はそれが見られなかった。
暗雲が頭に上る。
「それって・・・瀬戸に関係することか?」
「正解、さすがは権東さん」
何とでも言っておこう。
引継ぎを終え、権東が瀬戸にメールを送った。 有難くもデリバリーから行き先不明の連絡はなかったが、すぐに返信もなかった。
そしてその夜、詩甫から無事に退院したという連絡があった。 詩甫は浅香の出勤形態をよく分かってくれている。 顔についた傷に友達の目が止まっていたと笑っていた。
落ち込んでいないようで良かった。
翌日、出勤するとロッカーに入ってきた権東から瀬戸に連絡がついたと聞かされた。
浅香が権東を前にして両手をパンパンと叩いて拝み倒す。 そして「さすがは河童の力を貰った権東さん」 と言った。
「お前・・・完全に馬鹿にしてるだろう」
権東が今にも頭から火を噴きそうなほどにしている、ではない。 冷たい目で浅香を見ている。
「いいえ、決して、断じて。 有難いほどです」
「白々しい。 で? お前のことを面白いと返信があったが? 浅香、お前何をしたんだよ」
権東は浅香のことを口悪く言うが、浅香の存在を否定しているものではない。 むしろ浅香の存在を受け入れている。
「楽しいお話をしただけです」
権東から連絡をしてもらえた。 計算外ではあったが、これで瀬戸が持っていたかどうかは分からないが、浅香に対する不信があったとすると払拭できただろう。
たとえあの時、権東の名を出したとしても、河童話をしてもどこかに不信は残っていたかもしれない。
「えーっと、それじゃ、メルアド教えてもらえます?」
スマホを手にしていた権東が横目で浅香を見る。
「なに、その目」
言った途端、浅香のスマホがメールの着信の音を奏でた。
「引継ぎの時間までに返信しろよ」
権東が浅香の背中をバンと叩いてロッカーを出て行った。
権東の背中を見送るとスマホを手にする。
着信にはアルファベットでフルネームが書かれていて、その内容は空メールだった。
権東が浅香のメルアドを教えたのだろう。
だがあの時会った性格から考えるに空メールは有り得ない。 きっと権東がそうしろと言ったのであろう。
フッと浅香が鼻から息を吐く。
やはり権東は浅香のことをよく理解してくれている。
今度自前で和菓子をプレゼントしてもいいか、などと考えながら指を動かす。
返信の内容は『ご連絡ありがとうございます』 から始まって、あの日の様子ではお互い非番がすれ違いになるようだ、よって休みの日か、休みによってズレた非番が合えばその日に連絡をしたい、と書き込んだ。 そして訊きたいことというのは、紅葉姫社のことであるということを書いた。
受信したメールは瀬戸朝霞からであった。
草を踏みしめる音がする。
「おかしい・・・」
どうしてこんな所に血痕が残っているのか。 いや、血痕といっても血溜まりではない。 倒れた葉の先や、折れてしまった雑木の枝に付いている程度である。
「誰かが落ちた・・・?」
あの日の二日前には土砂降りの雨が降っていたが、あの日から雨は降っていない。 とはいっても足元が滑りやすかったかもしれない。
階段の途中から横に生えている葉や雑木がなぎ倒されている。 血はもう乾いている。 今日の、いや今朝の出来事ではないようだ。
いつもの曹司ならばここまで山を下りてこなかった。 朱葉姫もここまでは守っていない。 せいぜい坂くらいまでである。 だが数日前から階段辺りが気になり何度か坂の下まで見回っていたが、特に何の変化もなかった。 そしてとうとう躊躇いながらも階段を下りてきた。
「・・・まさか」
曹司が階段を気にし始めたのは詩甫たちが帰って暫くしてからだった。 もし雨が降っていれば、この血も流されていただろう。 だが詩甫たちが来てからは雨は降っていない。
呼び出しのコール音が四回。 いったい相手のスマホはどんな着信音にしているのだろうか、などと考えていると相手がスマホに出た。
『はい』
「お早うございます、浅香です」
『お早うございます、お疲れ様でした』
電話の相手は瀬戸である。 今日は浅香が当直明けの非番、瀬戸が非番明けの休日ということであった。
「ええ、疲れました」
スマホの向こうで瀬戸が笑っている。 病院内のように顔だけではなく、声を出している。 明るい笑い声だ。
『この時季は患者が多いですからねぇ。 うちなんか年寄りが多い地域ですから寒い時季は出動が多いですよ。 とは言っても浅香さんの所ほど人口密度は高くないですけどね』
「いえ、大都会に比べたらこちらも大概です」
『では・・・お疲れというのでしたら、家を出ることは叶いませんか?』
「え?」
電話で話を聞かせてもらうはずではなかったのか? この日この時間に連絡がつくと返信してきたのは瀬戸の方だ。
『浅香さんの勤務されている出張所の最寄り駅に居るんですが』
「えー!?」
瀬戸と話し終えスマホを切ると、ドンという音がするほどの勢いで曹司が浅香にぶつかってきた。
「うわぉ!」
目の前に、いや目の前というほど優しいものではない。 殆ど額を付けられているほどである。
「瀞謝に何かあったか」
「ち―――」
「そうだ、血のあとを見た」
「ちが―――」
「そうだ、血だ。 はっきりと言え、あの血は瀞謝のものか」
ほんの数センチ離れて曹司の双眸がある。 おちょくってキスでもしてやろうかとも思うが、そんなことをしたら腰に履いている剣呑な物で何をされるか分かったものではない。
「だぁー!!」
大声を出して後方に跳び、曹司から離れる。
そして仮面ライダーのようにビシッと曹司を指さす。
「最初の “ち” は、その後に “ちょっと待て” と繋がる。 次の “ちが” は僕の最初の言葉を勘違いした曹司に “違う” と言いかけた」
曹司の眉がピクリと動く。
曹司を指さしていた手を力無く下ろす。
「今頃何言ってんだよ」
「どういうことだ」
「どうしてもっと早く来なかったのかって言ってんだよ!」
「・・・何があった」
「瀞謝が山を下りている途中で階段から落ちた」
曹司が目を見開く。
「やはりあの血は・・・」
「誰かに突き飛ばされたって言ってたよ」
「それで・・・瀞謝の様子は」
「連絡を貰った。 元気にしているようだけど傷は残ってるみたいだ。 落ち着いた頃に様子を見に行くつもりだよ」
そう言えば長期休みの間の修業はどうなったのだろうか。
「そうか・・・」
命を絶たれるようなことは無かったのか。
ホッと安堵する。
「で? 今まで何の連絡も無く何してたんだよ」
言い捨てるとスウェットを脱ぎだす。
「何をしておる」
「着替えだよ」
これから駅に向かわなくてはならない。 瀬戸が出張所最寄り駅近くのカフェで待っている。
「これから人に会う。 曹司も一緒に来いよ、その方が手っ取り早い。 とっとと今日まで来なかった事情を話してくれ」
「・・・」
スウェットを脱いだトランクス一枚の男が目の前にいる。 だが曹司にしてみればトランクスなど知らない。 アウターウェアは時の流れと共に変わってきていたのは知っていたが、下着が変わっているなどとは知らなかった。 だからトランクスが下着とも思っていなく、その下に何も着けていないようだ。
「おら、早く」
「亨・・・褌(ふんどし)はどうした」
「は?」
Gパンに足を通そうとしていた浅香の足が止まった。
褌論争を終えて大急ぎで着替えの終わった浅香。 Gパンの上にパーカーを着ている。 そしてその上にダウンジャケットを羽織る。
時計を見た。 十時十五分ちょっと前。 スマホを切ったのは十時十分だった。
「絶対に出てくんなよ。 出てきたら何もかもがおじゃんになるんだからな」
そう念を押して駅までの道々、曹司から話を聞いた。 聞くと言っても口から発する声ではない。
簡単に言ってしまえば、詩甫に説明した時のように今は浅香がハンドルを握っていて曹司が助手席に座って話しているようなものだ。
頭の中に曹司の事情が響いてくる。
曹司が言うには朱葉姫は悩んでいるということであった。
このまま朽ちるのを待つことが出来ない。 何があるか分からないのだから。 それなのに瀞謝が言った、もう二度と逃げないと。
だからどうやっても浅香に瀞謝が止められないのであれば、浅香の手によって早々に社を閉じてもらえば、瀞謝に危険が生じないだろう。 浅香が生まれてきた当初の目的はそうだったのだから、と曹司が朱葉姫を説得していたという。
<曹司が説得すれば朱葉姫は納得するだろうな>
不服があるかと、助手席からじろりと浅香が睨まれた。
当たり前だと言いたかった。 それでは浅香に何かあってもいいということになるではないか。 浅香の命は尊重してもらえないのか。 だが口から出たのはそんなことではなかった。
<なのにそうではない。 ミソは、当たり前の結果があるのに、どうして朱葉姫が悩んでるかってところ>
曹司が浅香から目を離す。
<曹司にしてもそうだ>
前を見据えていた曹司の眉が動く。
<朱葉姫がいつ瀞謝から聞いた話を曹司に言ったのかは知らないが、少なくとも今日来たのはその話をする為じゃなかっただろう。 瀞謝の様子が気になって来ただけだろう。 ま、その話をしろって催促したのは僕だけど>
<・・・>
<朱葉姫が悩んでいるのは瀞謝の存在だ。 たとえ曹司が僕に瀞謝を説得するように言ったとしても、僕がそうしたとしても瀞謝は納得しない。 朱葉姫はそれを分かっているんだろう。 瀞謝が己を顧みず無茶をしないかどうか。 まっ、曹司が言うように瀞謝に内緒で僕がお社を閉じれば話は違ってくるけどね。 だけど曹司は何を言っても本来の朱葉姫の願いを叶えたい。 僕に命を与えた苦肉の策なんかで終わらせたくない。 そういう事なんじゃないのか?>
まだ前を見据えたまま口を開こうとしないどころか、僅かにも動かない。
だがそれが返事だ。
<確かに瀞謝は傷を負ったよ。 でも瀞謝は諦めていない>
僅かに曹司の指先が動いたように感じた。
<それに僕も>
どういうことだという目をして曹司が浅香を見る。
<瀞謝を手伝えって言ったのは曹司だろう>
握っているこのハンドル、今は無意味だ。 単に握っているだけなのだから。 ハンドルを放しても同じこと。 運転席に座っているといえど、浅香の意識は曹司に向いている。 今は自動運転のような状態だ。 浅香の身体は通い慣れた道を勝手に進んでいるのだから。
だがギヤをトップに入れての速度では無いのが残念だ。 ほぼ・・・セカンド? トップは無理にしても出来ればサードになってほしい。
もし自分が短距離走か、若しくは中距離走の選手であれば、無意識の中であってもそれが叶ったのかもしれないが、残念ながら専門的に中・短距離を疾走するのは得意ではない。
<瀞謝に言ったよ。 朱葉姫と瀞謝、曹司と僕ってね>
何を言いたいのかと、曹司が眉間に皺を寄せる。
<でももう一つ違う組み合わせがある。 朱葉姫と曹司、瀞謝と僕>
朱葉姫=曹司 瀞謝=浅香 それは先に言った 朱葉姫=瀞謝 曹司=浅香 に繋がる。 どちらをとっても社を朽ちらせたくないということだ。 そして 瀞謝=浅香 のタッグはそれだけではない未来を見ている。
<社を修繕する。 祭とまではいかないかもしれないけど、民の姿を朱葉姫に見てもらう>
<・・・亨>
<何十年先にどうなるかは分からない。 いや、一年かもしれない。 でも朱葉姫に民を見てもらう、声を聞いてもらう。 今も尚、朱葉姫の名は残されてるんだからな>
敢えてそんな話を詩甫としたわけではない。 だが詩甫もそう考えているはず。
階段から落ちていく前に詩甫が言っていたことがある。 だがあんなことがあって考えを変えただろうかと思っていたが、あの時病院で詩甫の目が言っていた。 そして違う言葉を口にした違う言葉で言っていた。
<どういうことだ>
<教えてやるよ。 だから協力しろよ>
だが絶対に出てくんなよ! と再度念を押した。
アンドロイドのように高い知能を持った人間型ロボットではなく、知能を手放した肉体が駅に着いた。 身に付いた所作で改札を潜る。
知能を手放していた肉体の目に息が宿った。
浅香が曹司との話を終え、完全に意識が我が身に戻って来た。 曹司は助手席に座っている。
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河童の話をした先輩が目を丸くした。
「瀬戸?」
「ええ、瀬戸朝霞さん。 それとも朝霞君?」
「なんでお前が瀬戸を知ってるんだよ」
「ちょっと袖をすり合わせまして」
「なんだよその表現」
「その瀬戸朝霞さんか、朝霞君かのメルアド知りません?」
「“さん” だよ、お前より一つ上」
「あ、そうなんだ」
「お前・・・うちの出張所の恥を晒したんじゃないだろうな」
「なに、その言い方。 失礼な」
「何が失礼だよ、十分に値する」
「ま、僕は大人ですから、そこはスルーしてあげましょう」
「どこがだよ」
「で? メルアド知りません?」
「・・・」
「知ってますね」
河童先輩・・・もとい、河童の話をした先輩・・・長すぎる、河童先輩でいいか。 その河童先輩である権東が言うには、何年も前のメルアドだという。 だからもう変わっているかもしれないと。
「え? メルアドが変わっていて連絡なしですか? わぁー、信用無さ過ぎ」
「浅香ぁー」
「えーっと、信用があるってのなら、メール打ってもらえません? 連絡がついたら権東さんの信用爆上げ。 反対に行き先不明ですってお知らせがあったら」
浅香がニマリと笑う。
「お前って・・・ホンットに根性悪いよな」
「あれ? そんなことないですよ? それって気のせいですよ」
「言ってろ!」
引継ぎの時間となった。
河童先輩が叫んでから一日を終えた。 二四時間が終わった。
冬は心筋梗塞や脳溢血、動脈乖離の患者が増える。
暖かくなればそんな病状の患者が少しでも減るだろうが、今度は熱射病や熱中症の患者が増える。
「うぇー」 と、出張所に戻って来た浅香が声を吐く。
「なんだよ、バテたのか?」
患者の前で言わなかっただけこの男に関しては感心だ。 いつもこんな態度だが、それを患者に見せていない。 付き添う家族にも。 当たり前と言えば当たり前だが。
「いやぁ・・・・昨日、寝てないもんでして」
「は?」
「色々とあって・・・体力も底を突きたかなと。 僕も歳には逆らえませんー」
浅香が勝手に泣き言を吠えているが、そう言えば出動を待っている間、いつもなら事務処理を蹴っ飛ばして消防隊員と一緒に自主トレをしているのに、今日はそれが見られなかった。
暗雲が頭に上る。
「それって・・・瀬戸に関係することか?」
「正解、さすがは権東さん」
何とでも言っておこう。
引継ぎを終え、権東が瀬戸にメールを送った。 有難くもデリバリーから行き先不明の連絡はなかったが、すぐに返信もなかった。
そしてその夜、詩甫から無事に退院したという連絡があった。 詩甫は浅香の出勤形態をよく分かってくれている。 顔についた傷に友達の目が止まっていたと笑っていた。
落ち込んでいないようで良かった。
翌日、出勤するとロッカーに入ってきた権東から瀬戸に連絡がついたと聞かされた。
浅香が権東を前にして両手をパンパンと叩いて拝み倒す。 そして「さすがは河童の力を貰った権東さん」 と言った。
「お前・・・完全に馬鹿にしてるだろう」
権東が今にも頭から火を噴きそうなほどにしている、ではない。 冷たい目で浅香を見ている。
「いいえ、決して、断じて。 有難いほどです」
「白々しい。 で? お前のことを面白いと返信があったが? 浅香、お前何をしたんだよ」
権東は浅香のことを口悪く言うが、浅香の存在を否定しているものではない。 むしろ浅香の存在を受け入れている。
「楽しいお話をしただけです」
権東から連絡をしてもらえた。 計算外ではあったが、これで瀬戸が持っていたかどうかは分からないが、浅香に対する不信があったとすると払拭できただろう。
たとえあの時、権東の名を出したとしても、河童話をしてもどこかに不信は残っていたかもしれない。
「えーっと、それじゃ、メルアド教えてもらえます?」
スマホを手にしていた権東が横目で浅香を見る。
「なに、その目」
言った途端、浅香のスマホがメールの着信の音を奏でた。
「引継ぎの時間までに返信しろよ」
権東が浅香の背中をバンと叩いてロッカーを出て行った。
権東の背中を見送るとスマホを手にする。
着信にはアルファベットでフルネームが書かれていて、その内容は空メールだった。
権東が浅香のメルアドを教えたのだろう。
だがあの時会った性格から考えるに空メールは有り得ない。 きっと権東がそうしろと言ったのであろう。
フッと浅香が鼻から息を吐く。
やはり権東は浅香のことをよく理解してくれている。
今度自前で和菓子をプレゼントしてもいいか、などと考えながら指を動かす。
返信の内容は『ご連絡ありがとうございます』 から始まって、あの日の様子ではお互い非番がすれ違いになるようだ、よって休みの日か、休みによってズレた非番が合えばその日に連絡をしたい、と書き込んだ。 そして訊きたいことというのは、紅葉姫社のことであるということを書いた。
受信したメールは瀬戸朝霞からであった。
草を踏みしめる音がする。
「おかしい・・・」
どうしてこんな所に血痕が残っているのか。 いや、血痕といっても血溜まりではない。 倒れた葉の先や、折れてしまった雑木の枝に付いている程度である。
「誰かが落ちた・・・?」
あの日の二日前には土砂降りの雨が降っていたが、あの日から雨は降っていない。 とはいっても足元が滑りやすかったかもしれない。
階段の途中から横に生えている葉や雑木がなぎ倒されている。 血はもう乾いている。 今日の、いや今朝の出来事ではないようだ。
いつもの曹司ならばここまで山を下りてこなかった。 朱葉姫もここまでは守っていない。 せいぜい坂くらいまでである。 だが数日前から階段辺りが気になり何度か坂の下まで見回っていたが、特に何の変化もなかった。 そしてとうとう躊躇いながらも階段を下りてきた。
「・・・まさか」
曹司が階段を気にし始めたのは詩甫たちが帰って暫くしてからだった。 もし雨が降っていれば、この血も流されていただろう。 だが詩甫たちが来てからは雨は降っていない。
呼び出しのコール音が四回。 いったい相手のスマホはどんな着信音にしているのだろうか、などと考えていると相手がスマホに出た。
『はい』
「お早うございます、浅香です」
『お早うございます、お疲れ様でした』
電話の相手は瀬戸である。 今日は浅香が当直明けの非番、瀬戸が非番明けの休日ということであった。
「ええ、疲れました」
スマホの向こうで瀬戸が笑っている。 病院内のように顔だけではなく、声を出している。 明るい笑い声だ。
『この時季は患者が多いですからねぇ。 うちなんか年寄りが多い地域ですから寒い時季は出動が多いですよ。 とは言っても浅香さんの所ほど人口密度は高くないですけどね』
「いえ、大都会に比べたらこちらも大概です」
『では・・・お疲れというのでしたら、家を出ることは叶いませんか?』
「え?」
電話で話を聞かせてもらうはずではなかったのか? この日この時間に連絡がつくと返信してきたのは瀬戸の方だ。
『浅香さんの勤務されている出張所の最寄り駅に居るんですが』
「えー!?」
瀬戸と話し終えスマホを切ると、ドンという音がするほどの勢いで曹司が浅香にぶつかってきた。
「うわぉ!」
目の前に、いや目の前というほど優しいものではない。 殆ど額を付けられているほどである。
「瀞謝に何かあったか」
「ち―――」
「そうだ、血のあとを見た」
「ちが―――」
「そうだ、血だ。 はっきりと言え、あの血は瀞謝のものか」
ほんの数センチ離れて曹司の双眸がある。 おちょくってキスでもしてやろうかとも思うが、そんなことをしたら腰に履いている剣呑な物で何をされるか分かったものではない。
「だぁー!!」
大声を出して後方に跳び、曹司から離れる。
そして仮面ライダーのようにビシッと曹司を指さす。
「最初の “ち” は、その後に “ちょっと待て” と繋がる。 次の “ちが” は僕の最初の言葉を勘違いした曹司に “違う” と言いかけた」
曹司の眉がピクリと動く。
曹司を指さしていた手を力無く下ろす。
「今頃何言ってんだよ」
「どういうことだ」
「どうしてもっと早く来なかったのかって言ってんだよ!」
「・・・何があった」
「瀞謝が山を下りている途中で階段から落ちた」
曹司が目を見開く。
「やはりあの血は・・・」
「誰かに突き飛ばされたって言ってたよ」
「それで・・・瀞謝の様子は」
「連絡を貰った。 元気にしているようだけど傷は残ってるみたいだ。 落ち着いた頃に様子を見に行くつもりだよ」
そう言えば長期休みの間の修業はどうなったのだろうか。
「そうか・・・」
命を絶たれるようなことは無かったのか。
ホッと安堵する。
「で? 今まで何の連絡も無く何してたんだよ」
言い捨てるとスウェットを脱ぎだす。
「何をしておる」
「着替えだよ」
これから駅に向かわなくてはならない。 瀬戸が出張所最寄り駅近くのカフェで待っている。
「これから人に会う。 曹司も一緒に来いよ、その方が手っ取り早い。 とっとと今日まで来なかった事情を話してくれ」
「・・・」
スウェットを脱いだトランクス一枚の男が目の前にいる。 だが曹司にしてみればトランクスなど知らない。 アウターウェアは時の流れと共に変わってきていたのは知っていたが、下着が変わっているなどとは知らなかった。 だからトランクスが下着とも思っていなく、その下に何も着けていないようだ。
「おら、早く」
「亨・・・褌(ふんどし)はどうした」
「は?」
Gパンに足を通そうとしていた浅香の足が止まった。
褌論争を終えて大急ぎで着替えの終わった浅香。 Gパンの上にパーカーを着ている。 そしてその上にダウンジャケットを羽織る。
時計を見た。 十時十五分ちょっと前。 スマホを切ったのは十時十分だった。
「絶対に出てくんなよ。 出てきたら何もかもがおじゃんになるんだからな」
そう念を押して駅までの道々、曹司から話を聞いた。 聞くと言っても口から発する声ではない。
簡単に言ってしまえば、詩甫に説明した時のように今は浅香がハンドルを握っていて曹司が助手席に座って話しているようなものだ。
頭の中に曹司の事情が響いてくる。
曹司が言うには朱葉姫は悩んでいるということであった。
このまま朽ちるのを待つことが出来ない。 何があるか分からないのだから。 それなのに瀞謝が言った、もう二度と逃げないと。
だからどうやっても浅香に瀞謝が止められないのであれば、浅香の手によって早々に社を閉じてもらえば、瀞謝に危険が生じないだろう。 浅香が生まれてきた当初の目的はそうだったのだから、と曹司が朱葉姫を説得していたという。
<曹司が説得すれば朱葉姫は納得するだろうな>
不服があるかと、助手席からじろりと浅香が睨まれた。
当たり前だと言いたかった。 それでは浅香に何かあってもいいということになるではないか。 浅香の命は尊重してもらえないのか。 だが口から出たのはそんなことではなかった。
<なのにそうではない。 ミソは、当たり前の結果があるのに、どうして朱葉姫が悩んでるかってところ>
曹司が浅香から目を離す。
<曹司にしてもそうだ>
前を見据えていた曹司の眉が動く。
<朱葉姫がいつ瀞謝から聞いた話を曹司に言ったのかは知らないが、少なくとも今日来たのはその話をする為じゃなかっただろう。 瀞謝の様子が気になって来ただけだろう。 ま、その話をしろって催促したのは僕だけど>
<・・・>
<朱葉姫が悩んでいるのは瀞謝の存在だ。 たとえ曹司が僕に瀞謝を説得するように言ったとしても、僕がそうしたとしても瀞謝は納得しない。 朱葉姫はそれを分かっているんだろう。 瀞謝が己を顧みず無茶をしないかどうか。 まっ、曹司が言うように瀞謝に内緒で僕がお社を閉じれば話は違ってくるけどね。 だけど曹司は何を言っても本来の朱葉姫の願いを叶えたい。 僕に命を与えた苦肉の策なんかで終わらせたくない。 そういう事なんじゃないのか?>
まだ前を見据えたまま口を開こうとしないどころか、僅かにも動かない。
だがそれが返事だ。
<確かに瀞謝は傷を負ったよ。 でも瀞謝は諦めていない>
僅かに曹司の指先が動いたように感じた。
<それに僕も>
どういうことだという目をして曹司が浅香を見る。
<瀞謝を手伝えって言ったのは曹司だろう>
握っているこのハンドル、今は無意味だ。 単に握っているだけなのだから。 ハンドルを放しても同じこと。 運転席に座っているといえど、浅香の意識は曹司に向いている。 今は自動運転のような状態だ。 浅香の身体は通い慣れた道を勝手に進んでいるのだから。
だがギヤをトップに入れての速度では無いのが残念だ。 ほぼ・・・セカンド? トップは無理にしても出来ればサードになってほしい。
もし自分が短距離走か、若しくは中距離走の選手であれば、無意識の中であってもそれが叶ったのかもしれないが、残念ながら専門的に中・短距離を疾走するのは得意ではない。
<瀞謝に言ったよ。 朱葉姫と瀞謝、曹司と僕ってね>
何を言いたいのかと、曹司が眉間に皺を寄せる。
<でももう一つ違う組み合わせがある。 朱葉姫と曹司、瀞謝と僕>
朱葉姫=曹司 瀞謝=浅香 それは先に言った 朱葉姫=瀞謝 曹司=浅香 に繋がる。 どちらをとっても社を朽ちらせたくないということだ。 そして 瀞謝=浅香 のタッグはそれだけではない未来を見ている。
<社を修繕する。 祭とまではいかないかもしれないけど、民の姿を朱葉姫に見てもらう>
<・・・亨>
<何十年先にどうなるかは分からない。 いや、一年かもしれない。 でも朱葉姫に民を見てもらう、声を聞いてもらう。 今も尚、朱葉姫の名は残されてるんだからな>
敢えてそんな話を詩甫としたわけではない。 だが詩甫もそう考えているはず。
階段から落ちていく前に詩甫が言っていたことがある。 だがあんなことがあって考えを変えただろうかと思っていたが、あの時病院で詩甫の目が言っていた。 そして違う言葉を口にした違う言葉で言っていた。
<どういうことだ>
<教えてやるよ。 だから協力しろよ>
だが絶対に出てくんなよ! と再度念を押した。
アンドロイドのように高い知能を持った人間型ロボットではなく、知能を手放した肉体が駅に着いた。 身に付いた所作で改札を潜る。
知能を手放していた肉体の目に息が宿った。
浅香が曹司との話を終え、完全に意識が我が身に戻って来た。 曹司は助手席に座っている。