『国津道(くにつみち)』 目次
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- 国津道(くにつみち)- 第23回
救急隊員が気を失っている詩甫の代わりに、浅香に詩甫の生年月日を訊いてくる。
常套句ではないが、それは基本の基。 それは分かっている。 だが詩甫の生年月日など知らない。
―――気に入らぬわ。
瀞謝め、心の臓の一時くらいでは懲りんか。
何百年も前には見逃してやっていたものを・・・。
何百年? いや千年だろうか、もしや二千年だろうか・・・。
ああ、もう時の感覚などない。
―――時などどうでもよい。
あと少しなのだから。
これ以上の邪魔は許さない。
もう目の前の事なのだから。
―――ざまをみろ。
落ちていく詩甫を追って階段を走り下りて行く浅香の背を見送っていた切れ長の目を細め、口角がゆっくりと上がる。
浅香から連絡を受けた救急車がやってきた。 浅香は詩甫を動かしてはいない。 救急車が来るまで詩甫の隣について脈を計ったくらいである。 詩甫の頭のあるほんの下には大きな石があった。 あと二転でもしていたら、完全にその石に頭をぶつけていただろう。
やっと落ちて行った詩甫に追いつき、横たわる詩甫の横でその石を見た時にはゾッとした。 だが石だけではなく、ここに落ちてくるまでに木に頭をぶつけたかもしれない。
サイレンの音を聞いて道路に出ると詩甫が倒れている所まで救急隊員を誘導した。
詩甫の生年月日を訊かれた浅香がそれに答えず違うことを言った。
「自分も救急隊員です」
「え?」
救急車の中で不思議な空間が出来上がる。
「彼女の名前は野崎詩甫さん、一人暮らしです。 一緒には居ましたが、生年月日など詳しいことは知りません。 お訊きされてもこれ以上は答えられません。 単なる後輩ですのであとは彼女の携帯番号しか知りません。 親御さんの連絡先も知りません」
相手は警察では無いのだ、誰にこんなことをされたのか、犯人を見なかったか、そんなことは今必要ない。 後から警察が来て自分が怪しまれるかもしれないが。
だが今の状況では、知っていることを説明しなくてはならない。 どうして詩甫がこんな事になったのかを。
誤魔化すことなんて出来ない。
二人の救急隊員が同じ目で浅香を見たが、一人だけは違う目で浅香を見ていた。 その違う目で見ていた詩甫の生年月日を書き込もうとしていた隊員が問う。
「もしかして社に行かれたんですか?」
浅香が口を開いた救急隊員を見る。
瞬きを一つすると救急隊員が続ける。
「・・・睨まれ、た?」
この隊員は昔語りのことを言っているのだろう。
救急隊員として昔語りの謂れに従うのはどうかと思うが、この地出身の者なのだろう。
運転手の話から、この地に生まれ育った者は大蛇のことをどこかで信じているようなのだから。 運転手自身もあれやこれやと言いながらも、社に来たことは無かったというし、子や孫にも昔語りを聞かせていたのだから。
詩甫は気を失っている。
朱葉姫と話したと言っていた。 そして社を潰さないと言っていた。
こんなことになって気が変わるかもしれないが、もし気が変わらないのであれば、あの大蛇の昔語りを今ここで再び起こしてはならないだろう。
「え? 何のことでしょうか?」
腹を括らなければいけない。
「・・・あ」
「ええ、お社に行って戻って来る途中でした。 ぬかるんでいましたので階段を降りている途中で滑ってしまって・・・その上、運悪く階段から逸れてしまったので、切り傷は密集していた木の枝や葉で切れたと思われます。 以前にも葉で指を切ったことがあります、自生の葉で鋭い葉があるようです」
「あ・・・あ、そういうことですか」
「ええ、ですが僕も彼女もこの地に詳しくはないので、どんな草が生えているかを知りませんが」
「了解です」
『了解です』 浅香と同じような言葉のチョイス。 同じノリの隊員なのだろうか。 そう言えば歳が同じくらいだろうか。
だがノリと歳は似ていても浅香と決定的に違う所がある。 この隊員は・・・昔語りを知っている。
病院で意識を取り戻した詩甫があらゆる検査を受けた。 打撲こそはあるが、骨折も何も骨に異常はなく、頭も小さなたんこぶだけでおさまった。 切り傷もしっかりとコートを着ていたから、手首から先と膝上あたりまでで済んだ。 顔の傷は笑えないが。
きっと落ちて行く途中、早々に気を失ったのだろう。 意識があって転がっていく動きに抵抗をしていれば、もっと酷い結果になっていたかもしれない。
これが都市の病院ならばすぐに退院だろうが、救急病院であっても片田舎の病院である。 一晩様子を見るということになった。
事情聴取に来ていた警察も帰って行った。 浅香が疑われることなく単なる事故として終わった。
「すみません、ご迷惑をかけてしまって」
そう言って頭を下げる詩甫の顔にも手にも足にも、ガーゼや包帯が巻かれている。
「いえ、僕が目を離してしまったからです。 すみませんでした」
一度首を左右に振った詩甫が、顔を左に振り遠い目をして窓の外を見る。
空気が綺麗だからだろうか、空が澄んで見える。 高い空では流れる白い雲の動きが速い。 上空では風が勢いよく吹いているのだろうか、それとも上空だけではなく、窓を開けると勢いよく風が入ってくるのだろうか。
「誰かに・・・後ろから突かれました」
浅香にだけ聞こえるように小声で言った。
詩甫が顔を戻す。 ベッドの上に座ったまま正面を見る。 そこには六人部屋である仕切りのカーテンしかない。
浅香が頷く。
浅香は詩甫の右側に座っている、視野の中に入っているだろう。
浅香の正面は窓になる。
この事は勿論、詩甫は警察に言っていない。 だが詩甫が声にせずとも、警察に説明する話を浅香は十分に疑っていた。
詩甫は階段の途中、ぬかるんだところで足を滑らせ慌てたが為に横に転んでしまったと言っていた。 横に転んでそのまま落ちてしまったと。 浅香は前を歩いていてそれに気付くのが遅れたと。
浅香は詩甫と並んで歩いていた。 それを前を歩いていたと言ったのは浅香を庇う為だということは分かる。
だが他の話に対しては、そんなことはあるはずがない。
たとえぬかるんだ階段で足を滑らせたとて、横に転んでもそのまま尻もちで終るだろう。 階段から逸れて山の中の藪の方に落ちていく筈は無いのだから。 それに秘密兵器を履いていた。 長居は無用とは言ったが、決して走ってなどいないのだから、簡単に踏み外したり滑らせたりするはずがない。
「取り敢えず今日はゆっくりしましょう」
浅香の声かけに詩甫が頷いたかと思ったが、下を向いただけのようだった。 そして唇を噛んでいる。
社を潰さないと決めてすぐあとの事だ。 悔しいのか考えを改めようと思っているのか浅香には分からない。
結局、詩甫の夕飯が運ばれてきた時まで詩甫の横についていたが、詩甫は一言も話さなかった。
浅香からも何も訊ねることは無かった。
「じゃ、僕そろそろ帰ります」
「本当にすみませんでした」
「いえ、気にしないで下さい。 っていうか、僕の責任ですから。 あの、それより、本当にご実家に連絡しなくていいんですか?」
「はい・・・」
「了解です。 じゃ、えっと・・・明日は・・・」
明日は当直だ、簡単に迎えに来るとは言えない。
「気にしないで下さい。 友達に連絡を取って来てもらいますから」
今は病衣を着ているが、着ていたスカートは枝に裂かれたと聞いている。 コートは泥だらけだと。 友達の服を借りるしかない。
「お役に立てなくて」
頭を下げる浅香を見て詩甫がくすりと笑う。
「そんなことありません。 浅香さんが居て下さって心強いんです。 ご迷惑ばかりかけてこんな言い方はおかしいんですけど・・・有難うございます」
浅香が笑みを返す。
――― そういう事か。
一つ頷くと「昼ご飯を食べていないんですから、残さないで食べて下さいね」 と言い残して病室を出て行った。
「あ・・・」
少し遅れて詩甫が気付いた。
浅香はずっと詩甫についていた。 きっと浅香も昼ご飯を食べていないはず。
再度、浅香の在り方を有難く思い箸を手に持った。
その箸を動かそうとした時、ふと詩甫の手が止まった。
下瞼が痙攣を起こしたように震える。
――― なにか忘れている。
落ちた時・・・いや、転がり落ちて何も分からなくなって意識が薄くなって・・・。
(そのあと・・・ほとんど意識がなくなっていたあの時・・・)
思い出そうとするが思い出せない。 完全に意識がなくなる中、その一瞬の時の何か。 その何かが思い出せない。
「野崎さん、具合はどうですか?」
看護師が様子を見にやって来た。
駅に向かう足でポケットに手を入れた。
詩甫の入院した病院は駅まで少々歩かなければいけない。 距離にしてみれば中距離。 歩くには距離がある。 車で移動の範囲と言っていいだろう。
その病院は診察時間なのに都市の病院ほど病院内に外来患者が居たわけではなかったし、病室も満杯ではないようであった。 だがここは田舎。 駅から徒歩で行けなくはないと言っても、都市ほど土地価格が高くはないのだろう。 だから患者があまり多くなくともやっていけているのだろう。
ここから駅の反対側、山に行く方には高校が建っていた。 東大合格率の高い高校だと聞いたことがあった。 少し離れた所に寮もあると聞いたことがある。 全国から集まって来るのだろう。 その高校にしても寮にしても、土地価格が高くないから固定資産税も都市より安く充分にやっていけるのだろう。
ポケットの中にあるメモ書きを取り出し広げる。 そこには携帯番号が書かれている。
あの救急隊員に訊ねたのである。 昔語りを知っていた救急隊員に。
患者を救急病院に運んだあとに救急隊員がどう動くかは知っている。 患者を下ろしてハイお終い、ではない。
『ちょっとお伺いしたいことが』
浅香が何処で働いているか、出張所の名称までを言い次いで名乗った。
『ああ、あそこですか』
『ご存知で?』
『先輩が今も居るはずですが』
自分の身分が嘘まやかしでないことを示す絶好のチャンスである。 隊員の名を連ねた。 もちろん、先輩と言ったのだから、それらしい歳の隊員から。 三人目で当たった。
『ええ、権東先輩です』
『河童を見られたって話は聞いています?』
浅香が心を許している河童を見た先輩である。
救急隊員が笑いを噛み殺している。
『正解ですね。 と言うことで、僕を信じてもらえますか?』
救急隊員が顔だけで笑う。 こんな所でこんな姿をして声を出して笑えないだろう。
『面白い人ですね、瀬戸朝霞(せとあさか) と言います』
ノリは浅香と同じではなかったようだ。
『へぇー、 “あさが” と “あさか” 点々があるか無いか、ですか』
『姓と名で違いますがね』
そうして携帯番号を訊いたのだった。 瀬戸は嫌がる様子も無くすぐにメモに書いて寄こした。
『お伺いしたいことが必要なくなれば、このメモはシュレッダーで廃棄・・・いえ、燃やしますので、プライバシーを侵害しません、ご心配なく』
瀬戸がまた顔だけで笑う。
『縁があればまたどこかでお会いするでしょう』
清々しい青年だった。
やはり浅香と同じではなかった。
メモを見つめる。
詩甫は最後に『有難うございます』 と言っていた。 詩甫の考えは話してもらえなかったが、その一言で分かる。
“有難うございました” の終わりにする過去形でもなければ、浅香の存在を心強いとも言っていた。 それは詩甫の決めた道を進むということ。
『昔語りにある大蛇、そちらから考えたいと』 そういう事だ。
メモを元通りに折りたたんで落とさないように財布の中に入れる。 新しい絆創膏が三枚入っている所と同じ所に。
「運ちゃんの方が歳をとってる分、知っていそうだけど・・・」
だが考え方を変えると昨今の若い者の方が、何かを疑問に思って親なり祖父母なりに訊いたことがあるかもしれない。
昔と違い、昨今の若者は疑問を頭に浮かべる、そして口にする。
それに家々によって違う話があるかもしれない。
救急車の中に入った時には瀬戸にとぼけた返事をしたが、あの時は詩甫のことで頭がいっぱいだったから、当日タクシーの運ちゃんから聞いた話をすっかり忘れてしまっていた。 そう誤魔化すしかない。
正直に話す必要などないが、下手に嘘をついて万が一にもタクシーの運ちゃんと瀬戸が知り合いだったら辻褄が合わなくなってしまう。 それを避けたい。
「うー、僕って小心者」
一人、己(おの)が小心者に心を浸したが誰も突っ込んではくれない。 浸っていても意味が無い。 現実に戻って気を取り直す。
「僕が明日当直、彼が・・・瀬戸さんが・・・瀬戸君か? が非番。 僕が非番の時に当直」
単純にそのすれ違いが延々と続く。 安易に連絡を入れられない。
だが休日がある。
「あー・・・携帯番号じゃなく、メルアドを聞けばよかった」
メールなら時を構わずに連絡を入れられたのに。 そうならば休日や非番を利用して連絡が入れられたかもしれないのに。 それに休日のズレから同じ非番の日があっただろうに。
あれやこれやと考えている内に、いつの間にか駅に着いていた。
階段を上がり切符を買う。 田舎にしてはそこそこの駅である。 病院や学校があるからだろう。 そして再び階段を降りてホームに降り立った。
こんな時間だというのにホームに人が溢れていない。 所謂(いわゆる)ラッシュ時なのに、溢れるどころか数えられるほどだ。
イヤホンを耳にしてスマホを操作している若者たち、同じくスマホを見ている女性がちらほら。 他にはこの地で働いているのだろうか、帰途につくのだろうGパンの上にジャケットやコートを着ている男女、この姿が一番多い。 とは言っても溢れるほどに居るわけではない。
この地が寂れていることがよく分かる。
朱葉姫の地であるのに・・・。 そんなことを考えたが、それはあまりに遠い昔のことであり過ぎる。
「田舎ならこんなものか・・・」
詩甫にあった事を曹司は知っているのだろうか。 ふとそんなことを思った。
浅香から曹司を呼ぶことは出来ない。
頭を垂れる。
詩甫が何をどう選ぶか、何をどうしたいか。 それはもう分かっている。
自分は曹司でもある。
曹司の思っている・・・願いも分かっている。
朱葉姫の願いをそのままに、静かに終わらせたいということ。 心ある者に社を終わらせたいということ。
だが詩甫はそれを選ばなかった。
社に向き合った後『ちゃんと話せました?』 と訊いた。
詩甫がコクリと首肯したが『でも』 と続けた。
その一言でおおよその想像はついた。 だから『朱葉姫は納得しなかった』 そう言った。
詩甫は社を閉じないと言ったのだろう。 それに対して朱葉姫が首を縦に振ったのではないのであろう。
詩甫がどんな言い方をしたのかは分からないが、社を潰さないと言っていた。 それは社に足を運ぶということ。
「曹司・・・こんな時に何やってんだよ、来いよ」
話を聞きに来いよ。 説得してやるから。
ゴォーっとけたたましい音をたてて電車がやって来た。
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- 国津道(くにつみち)- 第23回
救急隊員が気を失っている詩甫の代わりに、浅香に詩甫の生年月日を訊いてくる。
常套句ではないが、それは基本の基。 それは分かっている。 だが詩甫の生年月日など知らない。
―――気に入らぬわ。
瀞謝め、心の臓の一時くらいでは懲りんか。
何百年も前には見逃してやっていたものを・・・。
何百年? いや千年だろうか、もしや二千年だろうか・・・。
ああ、もう時の感覚などない。
―――時などどうでもよい。
あと少しなのだから。
これ以上の邪魔は許さない。
もう目の前の事なのだから。
―――ざまをみろ。
落ちていく詩甫を追って階段を走り下りて行く浅香の背を見送っていた切れ長の目を細め、口角がゆっくりと上がる。
浅香から連絡を受けた救急車がやってきた。 浅香は詩甫を動かしてはいない。 救急車が来るまで詩甫の隣について脈を計ったくらいである。 詩甫の頭のあるほんの下には大きな石があった。 あと二転でもしていたら、完全にその石に頭をぶつけていただろう。
やっと落ちて行った詩甫に追いつき、横たわる詩甫の横でその石を見た時にはゾッとした。 だが石だけではなく、ここに落ちてくるまでに木に頭をぶつけたかもしれない。
サイレンの音を聞いて道路に出ると詩甫が倒れている所まで救急隊員を誘導した。
詩甫の生年月日を訊かれた浅香がそれに答えず違うことを言った。
「自分も救急隊員です」
「え?」
救急車の中で不思議な空間が出来上がる。
「彼女の名前は野崎詩甫さん、一人暮らしです。 一緒には居ましたが、生年月日など詳しいことは知りません。 お訊きされてもこれ以上は答えられません。 単なる後輩ですのであとは彼女の携帯番号しか知りません。 親御さんの連絡先も知りません」
相手は警察では無いのだ、誰にこんなことをされたのか、犯人を見なかったか、そんなことは今必要ない。 後から警察が来て自分が怪しまれるかもしれないが。
だが今の状況では、知っていることを説明しなくてはならない。 どうして詩甫がこんな事になったのかを。
誤魔化すことなんて出来ない。
二人の救急隊員が同じ目で浅香を見たが、一人だけは違う目で浅香を見ていた。 その違う目で見ていた詩甫の生年月日を書き込もうとしていた隊員が問う。
「もしかして社に行かれたんですか?」
浅香が口を開いた救急隊員を見る。
瞬きを一つすると救急隊員が続ける。
「・・・睨まれ、た?」
この隊員は昔語りのことを言っているのだろう。
救急隊員として昔語りの謂れに従うのはどうかと思うが、この地出身の者なのだろう。
運転手の話から、この地に生まれ育った者は大蛇のことをどこかで信じているようなのだから。 運転手自身もあれやこれやと言いながらも、社に来たことは無かったというし、子や孫にも昔語りを聞かせていたのだから。
詩甫は気を失っている。
朱葉姫と話したと言っていた。 そして社を潰さないと言っていた。
こんなことになって気が変わるかもしれないが、もし気が変わらないのであれば、あの大蛇の昔語りを今ここで再び起こしてはならないだろう。
「え? 何のことでしょうか?」
腹を括らなければいけない。
「・・・あ」
「ええ、お社に行って戻って来る途中でした。 ぬかるんでいましたので階段を降りている途中で滑ってしまって・・・その上、運悪く階段から逸れてしまったので、切り傷は密集していた木の枝や葉で切れたと思われます。 以前にも葉で指を切ったことがあります、自生の葉で鋭い葉があるようです」
「あ・・・あ、そういうことですか」
「ええ、ですが僕も彼女もこの地に詳しくはないので、どんな草が生えているかを知りませんが」
「了解です」
『了解です』 浅香と同じような言葉のチョイス。 同じノリの隊員なのだろうか。 そう言えば歳が同じくらいだろうか。
だがノリと歳は似ていても浅香と決定的に違う所がある。 この隊員は・・・昔語りを知っている。
病院で意識を取り戻した詩甫があらゆる検査を受けた。 打撲こそはあるが、骨折も何も骨に異常はなく、頭も小さなたんこぶだけでおさまった。 切り傷もしっかりとコートを着ていたから、手首から先と膝上あたりまでで済んだ。 顔の傷は笑えないが。
きっと落ちて行く途中、早々に気を失ったのだろう。 意識があって転がっていく動きに抵抗をしていれば、もっと酷い結果になっていたかもしれない。
これが都市の病院ならばすぐに退院だろうが、救急病院であっても片田舎の病院である。 一晩様子を見るということになった。
事情聴取に来ていた警察も帰って行った。 浅香が疑われることなく単なる事故として終わった。
「すみません、ご迷惑をかけてしまって」
そう言って頭を下げる詩甫の顔にも手にも足にも、ガーゼや包帯が巻かれている。
「いえ、僕が目を離してしまったからです。 すみませんでした」
一度首を左右に振った詩甫が、顔を左に振り遠い目をして窓の外を見る。
空気が綺麗だからだろうか、空が澄んで見える。 高い空では流れる白い雲の動きが速い。 上空では風が勢いよく吹いているのだろうか、それとも上空だけではなく、窓を開けると勢いよく風が入ってくるのだろうか。
「誰かに・・・後ろから突かれました」
浅香にだけ聞こえるように小声で言った。
詩甫が顔を戻す。 ベッドの上に座ったまま正面を見る。 そこには六人部屋である仕切りのカーテンしかない。
浅香が頷く。
浅香は詩甫の右側に座っている、視野の中に入っているだろう。
浅香の正面は窓になる。
この事は勿論、詩甫は警察に言っていない。 だが詩甫が声にせずとも、警察に説明する話を浅香は十分に疑っていた。
詩甫は階段の途中、ぬかるんだところで足を滑らせ慌てたが為に横に転んでしまったと言っていた。 横に転んでそのまま落ちてしまったと。 浅香は前を歩いていてそれに気付くのが遅れたと。
浅香は詩甫と並んで歩いていた。 それを前を歩いていたと言ったのは浅香を庇う為だということは分かる。
だが他の話に対しては、そんなことはあるはずがない。
たとえぬかるんだ階段で足を滑らせたとて、横に転んでもそのまま尻もちで終るだろう。 階段から逸れて山の中の藪の方に落ちていく筈は無いのだから。 それに秘密兵器を履いていた。 長居は無用とは言ったが、決して走ってなどいないのだから、簡単に踏み外したり滑らせたりするはずがない。
「取り敢えず今日はゆっくりしましょう」
浅香の声かけに詩甫が頷いたかと思ったが、下を向いただけのようだった。 そして唇を噛んでいる。
社を潰さないと決めてすぐあとの事だ。 悔しいのか考えを改めようと思っているのか浅香には分からない。
結局、詩甫の夕飯が運ばれてきた時まで詩甫の横についていたが、詩甫は一言も話さなかった。
浅香からも何も訊ねることは無かった。
「じゃ、僕そろそろ帰ります」
「本当にすみませんでした」
「いえ、気にしないで下さい。 っていうか、僕の責任ですから。 あの、それより、本当にご実家に連絡しなくていいんですか?」
「はい・・・」
「了解です。 じゃ、えっと・・・明日は・・・」
明日は当直だ、簡単に迎えに来るとは言えない。
「気にしないで下さい。 友達に連絡を取って来てもらいますから」
今は病衣を着ているが、着ていたスカートは枝に裂かれたと聞いている。 コートは泥だらけだと。 友達の服を借りるしかない。
「お役に立てなくて」
頭を下げる浅香を見て詩甫がくすりと笑う。
「そんなことありません。 浅香さんが居て下さって心強いんです。 ご迷惑ばかりかけてこんな言い方はおかしいんですけど・・・有難うございます」
浅香が笑みを返す。
――― そういう事か。
一つ頷くと「昼ご飯を食べていないんですから、残さないで食べて下さいね」 と言い残して病室を出て行った。
「あ・・・」
少し遅れて詩甫が気付いた。
浅香はずっと詩甫についていた。 きっと浅香も昼ご飯を食べていないはず。
再度、浅香の在り方を有難く思い箸を手に持った。
その箸を動かそうとした時、ふと詩甫の手が止まった。
下瞼が痙攣を起こしたように震える。
――― なにか忘れている。
落ちた時・・・いや、転がり落ちて何も分からなくなって意識が薄くなって・・・。
(そのあと・・・ほとんど意識がなくなっていたあの時・・・)
思い出そうとするが思い出せない。 完全に意識がなくなる中、その一瞬の時の何か。 その何かが思い出せない。
「野崎さん、具合はどうですか?」
看護師が様子を見にやって来た。
駅に向かう足でポケットに手を入れた。
詩甫の入院した病院は駅まで少々歩かなければいけない。 距離にしてみれば中距離。 歩くには距離がある。 車で移動の範囲と言っていいだろう。
その病院は診察時間なのに都市の病院ほど病院内に外来患者が居たわけではなかったし、病室も満杯ではないようであった。 だがここは田舎。 駅から徒歩で行けなくはないと言っても、都市ほど土地価格が高くはないのだろう。 だから患者があまり多くなくともやっていけているのだろう。
ここから駅の反対側、山に行く方には高校が建っていた。 東大合格率の高い高校だと聞いたことがあった。 少し離れた所に寮もあると聞いたことがある。 全国から集まって来るのだろう。 その高校にしても寮にしても、土地価格が高くないから固定資産税も都市より安く充分にやっていけるのだろう。
ポケットの中にあるメモ書きを取り出し広げる。 そこには携帯番号が書かれている。
あの救急隊員に訊ねたのである。 昔語りを知っていた救急隊員に。
患者を救急病院に運んだあとに救急隊員がどう動くかは知っている。 患者を下ろしてハイお終い、ではない。
『ちょっとお伺いしたいことが』
浅香が何処で働いているか、出張所の名称までを言い次いで名乗った。
『ああ、あそこですか』
『ご存知で?』
『先輩が今も居るはずですが』
自分の身分が嘘まやかしでないことを示す絶好のチャンスである。 隊員の名を連ねた。 もちろん、先輩と言ったのだから、それらしい歳の隊員から。 三人目で当たった。
『ええ、権東先輩です』
『河童を見られたって話は聞いています?』
浅香が心を許している河童を見た先輩である。
救急隊員が笑いを噛み殺している。
『正解ですね。 と言うことで、僕を信じてもらえますか?』
救急隊員が顔だけで笑う。 こんな所でこんな姿をして声を出して笑えないだろう。
『面白い人ですね、瀬戸朝霞(せとあさか) と言います』
ノリは浅香と同じではなかったようだ。
『へぇー、 “あさが” と “あさか” 点々があるか無いか、ですか』
『姓と名で違いますがね』
そうして携帯番号を訊いたのだった。 瀬戸は嫌がる様子も無くすぐにメモに書いて寄こした。
『お伺いしたいことが必要なくなれば、このメモはシュレッダーで廃棄・・・いえ、燃やしますので、プライバシーを侵害しません、ご心配なく』
瀬戸がまた顔だけで笑う。
『縁があればまたどこかでお会いするでしょう』
清々しい青年だった。
やはり浅香と同じではなかった。
メモを見つめる。
詩甫は最後に『有難うございます』 と言っていた。 詩甫の考えは話してもらえなかったが、その一言で分かる。
“有難うございました” の終わりにする過去形でもなければ、浅香の存在を心強いとも言っていた。 それは詩甫の決めた道を進むということ。
『昔語りにある大蛇、そちらから考えたいと』 そういう事だ。
メモを元通りに折りたたんで落とさないように財布の中に入れる。 新しい絆創膏が三枚入っている所と同じ所に。
「運ちゃんの方が歳をとってる分、知っていそうだけど・・・」
だが考え方を変えると昨今の若い者の方が、何かを疑問に思って親なり祖父母なりに訊いたことがあるかもしれない。
昔と違い、昨今の若者は疑問を頭に浮かべる、そして口にする。
それに家々によって違う話があるかもしれない。
救急車の中に入った時には瀬戸にとぼけた返事をしたが、あの時は詩甫のことで頭がいっぱいだったから、当日タクシーの運ちゃんから聞いた話をすっかり忘れてしまっていた。 そう誤魔化すしかない。
正直に話す必要などないが、下手に嘘をついて万が一にもタクシーの運ちゃんと瀬戸が知り合いだったら辻褄が合わなくなってしまう。 それを避けたい。
「うー、僕って小心者」
一人、己(おの)が小心者に心を浸したが誰も突っ込んではくれない。 浸っていても意味が無い。 現実に戻って気を取り直す。
「僕が明日当直、彼が・・・瀬戸さんが・・・瀬戸君か? が非番。 僕が非番の時に当直」
単純にそのすれ違いが延々と続く。 安易に連絡を入れられない。
だが休日がある。
「あー・・・携帯番号じゃなく、メルアドを聞けばよかった」
メールなら時を構わずに連絡を入れられたのに。 そうならば休日や非番を利用して連絡が入れられたかもしれないのに。 それに休日のズレから同じ非番の日があっただろうに。
あれやこれやと考えている内に、いつの間にか駅に着いていた。
階段を上がり切符を買う。 田舎にしてはそこそこの駅である。 病院や学校があるからだろう。 そして再び階段を降りてホームに降り立った。
こんな時間だというのにホームに人が溢れていない。 所謂(いわゆる)ラッシュ時なのに、溢れるどころか数えられるほどだ。
イヤホンを耳にしてスマホを操作している若者たち、同じくスマホを見ている女性がちらほら。 他にはこの地で働いているのだろうか、帰途につくのだろうGパンの上にジャケットやコートを着ている男女、この姿が一番多い。 とは言っても溢れるほどに居るわけではない。
この地が寂れていることがよく分かる。
朱葉姫の地であるのに・・・。 そんなことを考えたが、それはあまりに遠い昔のことであり過ぎる。
「田舎ならこんなものか・・・」
詩甫にあった事を曹司は知っているのだろうか。 ふとそんなことを思った。
浅香から曹司を呼ぶことは出来ない。
頭を垂れる。
詩甫が何をどう選ぶか、何をどうしたいか。 それはもう分かっている。
自分は曹司でもある。
曹司の思っている・・・願いも分かっている。
朱葉姫の願いをそのままに、静かに終わらせたいということ。 心ある者に社を終わらせたいということ。
だが詩甫はそれを選ばなかった。
社に向き合った後『ちゃんと話せました?』 と訊いた。
詩甫がコクリと首肯したが『でも』 と続けた。
その一言でおおよその想像はついた。 だから『朱葉姫は納得しなかった』 そう言った。
詩甫は社を閉じないと言ったのだろう。 それに対して朱葉姫が首を縦に振ったのではないのであろう。
詩甫がどんな言い方をしたのかは分からないが、社を潰さないと言っていた。 それは社に足を運ぶということ。
「曹司・・・こんな時に何やってんだよ、来いよ」
話を聞きに来いよ。 説得してやるから。
ゴォーっとけたたましい音をたてて電車がやって来た。