『ハラカルラ』 目次
『ハラカルラ』 第1回から第60回までの目次は以下の 『ハラカルラ』リンクページ からお願いいたします。
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烏に文字を習いだして二十日が経った。
「なんでじゃ?」
「え? なにがですか?」
「覚えるのが早すぎるだろうて」
早ければそれでいいではないか。 どうして疑問を持つのか。
「いやぁー、文字数そんなに多くありませんでしたから」
現段階で五十音より少なかったのではないだろうか。 言い換えれば五十音より少ないのだから、もっと早く覚えてもよさそうなものだが、日本語のように単純に一文字が一発音ではなく、一文字で二つ三つの発音となっている文字もあり、単に文字を覚えるだけとはいかなかった。
「そういえば、この文字って烏さんが考えたんですか?」
「うーん、ほじくるとそうではないが、ま、そんなところだの」
どんなほじくり方をすれば何が出てくるというのだろうか。 教えろという流し目を黒烏に送るが、それに気づいてそっぽを向いた。 教える必要がないというよりも、教えるに面倒くさがっているのが丸見えである。
あの時のハラカルラの悲しいという気持ちを、たった一歳だった水無瀬はどこから感じたのだろうかと考える。
(感じたのには違いないんだ)
一歳の水無瀬が悲しいや痛いというハラカルラの言葉を知るはずもないのだから。 日本語ですら怪しい年齢である。
(・・・あ?)
まだ思い出しきれていないことがある。 それは何だったのだろうか。
「鳴海、手が止まっておる」
「はい、はい」
黒烏が面倒くさがらずに教えてくれれば手が止まることもないのに。 口に出しても面倒くさがって教えないであろう文句を心の中で垂れておく。
「文字の方はまだ続きがあるんですか?」
文句を言われないように心鏡に指を動かしながら問う。
「うーん、主要なものはこれくらいか」
「主要なもの?」
「儀式用や、日ごろ使うことのないものはまだあるが、鳴海が知らねばならんことではないからの、ここまででいいじゃろ」
「それって守り人皆さんがここまでってことですか?」
「そんなわけあるまい」
どうしてだか白烏が半分怒りながら会話に入ってきた。
「ここまで教えたのは鳴海が初めて。 黒の最初の妹でもここまでは覚えきれなんだ」
え? どうしてだ? 黒烏が発音し、その発音で二枚貝に示されている文字を覚える、時にはその意味も含めて覚える。 たったそれだけのことなのに。
「今たったこれだけの事とかと思っただろう」
「いえ、そんな―――」
水がざわつき始めた。
「・・・思いました」
(ん? 水のざわつき・・・?)
「前にも言ったが、鳴海は―――」
「そうか!」
「うるさい!」
白烏にはたかれた。
(ゆらゆらゆら・・・俺はあの時、悲しい声が聞こえた後に水の揺れる揺らめきを見た。 あの時はゆらゆらと見えていたつもりだったが、違う)
「もしかして文字って、ハラカルラの水の揺れる形って言っていいのかな、そんな流れみたいなものを形にして文字としているんですか?」
単純な五十音もあるが、その文字自体に感情や意味がある文字もあるということ。 だから一文字で二つ三つと発音するものもある。
黒烏と白烏が驚いた目をした後に互いを見合う。
「もぅ・・・わしには鳴海は扱いきれん」
「え? どういう意味ですか?」
ここまで来て匙を投げるというのか。
「鳴海がアヤツの範疇を出ているということ」
黒烏の範疇? それはどういう意味だ。
「はい?」
「鳴海はハラカルラのことを教えられずとも分かっておるということ。 それはアヤツには教えることは無いということ」
「はいぃぃぃー?」
何かが聞こえた
何の音だろう
顔を巡らせる
キラキラと光るモノが見える
あの音は何処から聞こえてきたのだろうか
キラキラからだろうか
それともずっと続く広いどこかからだろうか
悲しい声が聞こえる
ゆらゆらゆら
白々しいセリフでなんとか黒烏を宥めて機嫌を取ることが出来た。 こんな時には単純な黒烏で良かったと思える。 白烏にはバレバレだったのだろう、白眼視を送られてしまっていたが。
「色んな意味で疲れたー」
部屋に入ってバタンキューである。
夕飯と風呂を済ませ部屋に入り、パソコンの前に向き合った時、通話を示す着信音が鳴った。
「一ノ瀬さんかな」
ポケットからスマホを出すと雄哉と表示されている。
「雄哉か」
スマホをタップし通話に出る。
「はいはーい」
『あ、水無ちゃんだ』
雄哉がかけてきたのだろう。 水無瀬が出ることは分かっていたはずではないのか。
「なに? どした? かけ間違い?」
『違う違う、久しぶりの水無ちゃんの声ってこと』
そう言えば長く雄哉の声を聞いていない。 雄哉と一緒に朱門の村を出てアパートに戻ったきり話していなかった。 一緒にアパートに戻ったのが五月の連休明け、そして今は六月が終わろうとしている。 高校で雄哉と知り合ってからこんなに長く雄哉の声を聞かなかったのは初めてである。
「はかどってる?」
『ぼちぼち』
「ぼちぼちじゃダメだろ、新幹線並みじゃなきゃ」
『うーん、んじゃジェット機並み』
「言ってればいいってもんじゃないだろ」
『取り敢えず頑張ってる。 そんな話じゃなくてさ』
以前、雄哉は青門の守り人である高崎と水無瀬の就職のことを話していたことがあったと言う。 高崎は営業職である関係から色んな企業と顔を合わすことがあり、時には営業職に限らず他の部署とも顔を合わすことがあるということであった。 そこで大きなお世話だろうが、高崎が良いのではないかと思えたところがあれば、水無瀬に紹介すると言っていたという。
「え? 紹介って?」
コネで入るということか?
『高崎さんが気に入った人が居て、そこの企業自体も悪くないからどうかって。 大企業で上場もしてるってさ、高給、昇進アリアリ。 どう? 一度会ってみる? ま、俺としては水無ちゃんはハラカルラの方が合ってると思うけど』
就職、それは人生を左右すると言っても過言ではない。 昭和時代の頃には転職などということは有り得なかった。 生涯雇用。 その雇用が保証されていた。 だがその保証が崩れてきている。 転職し自分に合った職種を探す者も多い。 住処を変えた田舎暮らし、全てとはいかないがある程度の自給自足。 そこで茶屋を出したりしている人もいる。 それも転職の一環。
生涯雇用の頃と比べると選び方は千差万別。 苦労を選んで金を得る、貯金はなくとも正社員でなくともその日が楽しければそれでいい、趣味が金になる、田舎に暮らして清々しい空気を吸えることが一番であればいい、時間に追われずゆとりのある時間があればいい、他にも選び方はたくさんある。 選ぶのはその個人が何を優先するのか、何を大切にしたいのか。 そして、どうしたいのか。
(どうしたいのか。 俺にはそれが欠けてる)
優先したいのは昔からの想いである高給・昇進。 大切にしたいのはハラカルラを知ってからはハラカルラ。 どうしたいのかが決められない。
「今は会社名だけ聞いておく。 調べてから連絡する」
『オッケー、社名は』
信じられない、こんなことがあるのか。 雄哉から社名を聞いた時に思ったのがそれだった。
以前、一ノ瀬から名刺をもらった時に偶然ではなくそれは必然である、そんな言葉が頭に浮かんだ。 それは大学の教授からランクを上げた会社だと勧められた会社と同じだったからだ。
『社名は、株式会社Odd Number ちなみに高崎さんおススメが開発部部長だって』
株式会社Odd Number開発部部長、それは一ノ瀬潤璃。
何が必然なのだろうか。 それとも偶然は偶然でしかないのか。
「必然に、お膳立ては出来てるよって言われてるのか?」
そんな必然なんて居ないだろう。 それ以前に必然とは言葉であって、立ち居振る舞いが出来る存在ではない。 “居ない” というのは可笑しい。
「必然ってなんだよ」
必然とは、必ずそうなること。 それより他になりようのないこと。
「そんなことは分かってる」
雨の降る中、石に蹴躓(けつまず)いて転んだ。 そこには誰も居ない。 見て笑う者も居なければ助けに来る者も居ない。 転んだ人間だけが居る空間。 そこにどんな必然があるというのだろうか。 人が居て笑われる、助けに来てくれる、そんなことでもあれば次への展開があり必然と言われても納得が出来なくもない。
誰も居ないところで転んだ、それは下を見て歩けということ、注意を促されているということ、その注意力が次に繋がる必然である。 もしそんなことを言われてもその次はいつなんだ。 注意しながら歩いていると角を曲がった時にマンホールの蓋があいていてそれに気付けた、落ちなくて済んだ。 そんなことはそうそうあるわけではないが、それでもそれが今日なのか明日のか、それとも十年後なのか。
「雄哉みたいにインスピレーションで生きていければ楽なのに」
水無瀬の少し離れたところに水無瀬が居る。 その水無瀬が水無瀬の方を向き静かな視線を送ってきている。
(え? 誰・・・)
誰と思っても水無瀬自身であることは明白。 瓜二つ。
(・・・ドッペルゲンガー? いや、俺にはあんな静かな視線を誰かに送れない)
寂しい、悲しい、波立たない、冷たい、そのどれでもない。 静か、ただそれだけ。
その水無瀬が向きを変え水無瀬に背中を向け歩き出す。
(どこへ行く)
ドッペルゲンガーとは自己像幻視。 視覚のみに現れる現象であり、自己のアイデンティティや意図を持たない。 だが水無瀬の前に居た水無瀬は水無瀬が持たない視線を持ち、水無瀬が認識できない行動をとっている。
(ホートスコピー?)
アイデンティティを持った自己像。
(待て、どこに行く)
どうしてだ、声が出ない。
「うぅぅぅ・・・」
「おい、おい水無瀬」
「うわっ!」
揺り起こされ跳ね起きた。
「大丈夫か? 悪い夢でも見てた?」
「あ・・・」
「疲れが溜まってんじゃないか?」
「夢・・・」
夕飯と風呂を済ませ、久しぶりにテレビでも見ながら話そうと言っていた。 それなのにテレビを見ながらいつのまにか寝てしまったようだ。
ハラカルラに甘えてあまり睡眠をとっていなかった。 一日が終わると卒論に向かい合っていた。 ハラカルラに居るのだ、疲れが溜まるとか睡眠不足ということはないが、思い詰めるなどという感情面にハラカルラの干渉はない。
「疲れは溜まってない、溜まってないけど・・・思いがけない夢を見て、まぁ、悪い夢ではないのかな」
今の自分の心の中を見せられたのだろうか。 偶然も必然も関係のない自分の心に。 精神と心は違うものなのだろうか。
精神にも心にも色んな定義がある。 その一つに精神には理性があり能力を持っていると提言されているものもある。 だが心に能力などない。 ただただ嘘偽りのない本当の気持ち。 “心ない言葉” “心からの感謝” “心を奪われる” “心に触れる”
静かな視線の意味は何だったのだろうか。
「今日はゆっくり寝れば?」
「うん、そうするわ。 うん?」
雨の音がする。
「雨?」
「ああ、梅雨に全然降らなかったのに今さらの雨。 水無瀬が落ちたあと急に降り出してきた」
今年の梅雨はどこも空梅雨だった。 ライの言う通り今さらの雨の上、かなり強く降っている。
「カエルが喜んでるだろな」
ライがキョトンとした目をしてから微笑んだ。
潤璃から少し時間が欲しいというラインを受け取って十一日が経った。
『待たせて悪かったね、こちらの準備が整った。 一方的、且つ、急で悪いが明日メンバーと会ってもらえないだろうか』
グループトークに招待すると言っていたが、一足飛びにするようである。
潤璃は今の水無瀬のタイムスケジュールを知っている。 複雑なスケジュールではない。 日中はハラカルラ、戻ると卒論に取り組む。 たったそれだけであり、そのどちらも簡単に変更、キャンセルがきく。 それを分かっていてのラインである。 明日と指定してきたのは一日でも早くと思ってのことなのだろう。
ぶっつけ本番などとは考えていなかった水無瀬にすれば、顔合わせや意見を聞くことは願ったりである。 すぐに場所と時間を訊いた。
昨日から朱門の見張りの番である。 ライが見張に行くのであれば誰か他の人に送ってもらわなくては、水無瀬の運転ではこの山を水無瀬自身も車も無傷では下りられない自信がある。
ライの部屋をノックした。
「どんな自信だよ」
潤璃から聞いた時間は夜であるが、夜に村を出て間に合うわけではない。
今日会う全員が定時に仕事を終わらせたのち集まる時間を指定してきた。 全員は集まれないとは聞いているが、今日が一番多い人数が集まることが出来るということで、事前に一人でも多くを水無瀬を会わせたいと考えているようであった。
「オートマの軽だったら、どうにか運転が出来そうな気がするんだけどな」
山道は細い上にカーブもあり、時には太い木の枝が飛び出していることもあり、圧迫を感じ車の中で頭を屈めてしまうこともある。 それはあくまでも水無瀬だけであるが。
「水無瀬って完全なるペーパー?」
村の車に乗った時、何度もエンストをおこしていたと聞いているが、いま水無瀬はオートマならと言っていた。 その上で “気がする” とも。
「車持ってないからそうなるかな」
だが年内に一度だけだが車を運転している。 それもコラムで。 そしてライのバイクも運転したが、その話になると触れてほしくない部分が出てくる。 だから完全なるペーパーにしておく。 それに車もバイクも運転をしたと胸を張って言える状態ではなかった。
高速に乗ると陽がだんだんと傾いてきた。 今の季節であるからこの時間はまだ明るい方だが、これが冬なら既に真っ暗になっている。
「間に合う?」
「余裕よ。 ラーメン食う時間もある」
「長、玲人(れいじ)から連絡が入りまして」
玲人というのは、水無瀬を攫いに来た時の白門の男で 『こんにちは、水無瀬君』と声をかけてきた大学院生であり、水無瀬に言わせれば逆撫でしてきた相手でもある。 そしていま長と話しているのはその玲人の父親である。
「村を出た者たちが何やら集まっている様子だと」
「どういうことだ」
たまたま一度見かけた時は何も不審に思わなかったが複数回見かけた。 何を話しているのかは分からないが、マンションや一軒家に複数人で入って行くということであった。
「その村を出たやつらというのは誰だ」
村を出た者たちが集まっているという話は今までに聞いたことがない。 その家の者から何をしているのか訊けばいい。 今この白門の村で不測の事態ということは避けたい。
『ハラカルラ』 第1回から第60回までの目次は以下の 『ハラカルラ』リンクページ からお願いいたします。
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ハラカルラ 第64回
烏に文字を習いだして二十日が経った。
「なんでじゃ?」
「え? なにがですか?」
「覚えるのが早すぎるだろうて」
早ければそれでいいではないか。 どうして疑問を持つのか。
「いやぁー、文字数そんなに多くありませんでしたから」
現段階で五十音より少なかったのではないだろうか。 言い換えれば五十音より少ないのだから、もっと早く覚えてもよさそうなものだが、日本語のように単純に一文字が一発音ではなく、一文字で二つ三つの発音となっている文字もあり、単に文字を覚えるだけとはいかなかった。
「そういえば、この文字って烏さんが考えたんですか?」
「うーん、ほじくるとそうではないが、ま、そんなところだの」
どんなほじくり方をすれば何が出てくるというのだろうか。 教えろという流し目を黒烏に送るが、それに気づいてそっぽを向いた。 教える必要がないというよりも、教えるに面倒くさがっているのが丸見えである。
あの時のハラカルラの悲しいという気持ちを、たった一歳だった水無瀬はどこから感じたのだろうかと考える。
(感じたのには違いないんだ)
一歳の水無瀬が悲しいや痛いというハラカルラの言葉を知るはずもないのだから。 日本語ですら怪しい年齢である。
(・・・あ?)
まだ思い出しきれていないことがある。 それは何だったのだろうか。
「鳴海、手が止まっておる」
「はい、はい」
黒烏が面倒くさがらずに教えてくれれば手が止まることもないのに。 口に出しても面倒くさがって教えないであろう文句を心の中で垂れておく。
「文字の方はまだ続きがあるんですか?」
文句を言われないように心鏡に指を動かしながら問う。
「うーん、主要なものはこれくらいか」
「主要なもの?」
「儀式用や、日ごろ使うことのないものはまだあるが、鳴海が知らねばならんことではないからの、ここまででいいじゃろ」
「それって守り人皆さんがここまでってことですか?」
「そんなわけあるまい」
どうしてだか白烏が半分怒りながら会話に入ってきた。
「ここまで教えたのは鳴海が初めて。 黒の最初の妹でもここまでは覚えきれなんだ」
え? どうしてだ? 黒烏が発音し、その発音で二枚貝に示されている文字を覚える、時にはその意味も含めて覚える。 たったそれだけのことなのに。
「今たったこれだけの事とかと思っただろう」
「いえ、そんな―――」
水がざわつき始めた。
「・・・思いました」
(ん? 水のざわつき・・・?)
「前にも言ったが、鳴海は―――」
「そうか!」
「うるさい!」
白烏にはたかれた。
(ゆらゆらゆら・・・俺はあの時、悲しい声が聞こえた後に水の揺れる揺らめきを見た。 あの時はゆらゆらと見えていたつもりだったが、違う)
「もしかして文字って、ハラカルラの水の揺れる形って言っていいのかな、そんな流れみたいなものを形にして文字としているんですか?」
単純な五十音もあるが、その文字自体に感情や意味がある文字もあるということ。 だから一文字で二つ三つと発音するものもある。
黒烏と白烏が驚いた目をした後に互いを見合う。
「もぅ・・・わしには鳴海は扱いきれん」
「え? どういう意味ですか?」
ここまで来て匙を投げるというのか。
「鳴海がアヤツの範疇を出ているということ」
黒烏の範疇? それはどういう意味だ。
「はい?」
「鳴海はハラカルラのことを教えられずとも分かっておるということ。 それはアヤツには教えることは無いということ」
「はいぃぃぃー?」
何かが聞こえた
何の音だろう
顔を巡らせる
キラキラと光るモノが見える
あの音は何処から聞こえてきたのだろうか
キラキラからだろうか
それともずっと続く広いどこかからだろうか
悲しい声が聞こえる
ゆらゆらゆら
白々しいセリフでなんとか黒烏を宥めて機嫌を取ることが出来た。 こんな時には単純な黒烏で良かったと思える。 白烏にはバレバレだったのだろう、白眼視を送られてしまっていたが。
「色んな意味で疲れたー」
部屋に入ってバタンキューである。
夕飯と風呂を済ませ部屋に入り、パソコンの前に向き合った時、通話を示す着信音が鳴った。
「一ノ瀬さんかな」
ポケットからスマホを出すと雄哉と表示されている。
「雄哉か」
スマホをタップし通話に出る。
「はいはーい」
『あ、水無ちゃんだ』
雄哉がかけてきたのだろう。 水無瀬が出ることは分かっていたはずではないのか。
「なに? どした? かけ間違い?」
『違う違う、久しぶりの水無ちゃんの声ってこと』
そう言えば長く雄哉の声を聞いていない。 雄哉と一緒に朱門の村を出てアパートに戻ったきり話していなかった。 一緒にアパートに戻ったのが五月の連休明け、そして今は六月が終わろうとしている。 高校で雄哉と知り合ってからこんなに長く雄哉の声を聞かなかったのは初めてである。
「はかどってる?」
『ぼちぼち』
「ぼちぼちじゃダメだろ、新幹線並みじゃなきゃ」
『うーん、んじゃジェット機並み』
「言ってればいいってもんじゃないだろ」
『取り敢えず頑張ってる。 そんな話じゃなくてさ』
以前、雄哉は青門の守り人である高崎と水無瀬の就職のことを話していたことがあったと言う。 高崎は営業職である関係から色んな企業と顔を合わすことがあり、時には営業職に限らず他の部署とも顔を合わすことがあるということであった。 そこで大きなお世話だろうが、高崎が良いのではないかと思えたところがあれば、水無瀬に紹介すると言っていたという。
「え? 紹介って?」
コネで入るということか?
『高崎さんが気に入った人が居て、そこの企業自体も悪くないからどうかって。 大企業で上場もしてるってさ、高給、昇進アリアリ。 どう? 一度会ってみる? ま、俺としては水無ちゃんはハラカルラの方が合ってると思うけど』
就職、それは人生を左右すると言っても過言ではない。 昭和時代の頃には転職などということは有り得なかった。 生涯雇用。 その雇用が保証されていた。 だがその保証が崩れてきている。 転職し自分に合った職種を探す者も多い。 住処を変えた田舎暮らし、全てとはいかないがある程度の自給自足。 そこで茶屋を出したりしている人もいる。 それも転職の一環。
生涯雇用の頃と比べると選び方は千差万別。 苦労を選んで金を得る、貯金はなくとも正社員でなくともその日が楽しければそれでいい、趣味が金になる、田舎に暮らして清々しい空気を吸えることが一番であればいい、時間に追われずゆとりのある時間があればいい、他にも選び方はたくさんある。 選ぶのはその個人が何を優先するのか、何を大切にしたいのか。 そして、どうしたいのか。
(どうしたいのか。 俺にはそれが欠けてる)
優先したいのは昔からの想いである高給・昇進。 大切にしたいのはハラカルラを知ってからはハラカルラ。 どうしたいのかが決められない。
「今は会社名だけ聞いておく。 調べてから連絡する」
『オッケー、社名は』
信じられない、こんなことがあるのか。 雄哉から社名を聞いた時に思ったのがそれだった。
以前、一ノ瀬から名刺をもらった時に偶然ではなくそれは必然である、そんな言葉が頭に浮かんだ。 それは大学の教授からランクを上げた会社だと勧められた会社と同じだったからだ。
『社名は、株式会社Odd Number ちなみに高崎さんおススメが開発部部長だって』
株式会社Odd Number開発部部長、それは一ノ瀬潤璃。
何が必然なのだろうか。 それとも偶然は偶然でしかないのか。
「必然に、お膳立ては出来てるよって言われてるのか?」
そんな必然なんて居ないだろう。 それ以前に必然とは言葉であって、立ち居振る舞いが出来る存在ではない。 “居ない” というのは可笑しい。
「必然ってなんだよ」
必然とは、必ずそうなること。 それより他になりようのないこと。
「そんなことは分かってる」
雨の降る中、石に蹴躓(けつまず)いて転んだ。 そこには誰も居ない。 見て笑う者も居なければ助けに来る者も居ない。 転んだ人間だけが居る空間。 そこにどんな必然があるというのだろうか。 人が居て笑われる、助けに来てくれる、そんなことでもあれば次への展開があり必然と言われても納得が出来なくもない。
誰も居ないところで転んだ、それは下を見て歩けということ、注意を促されているということ、その注意力が次に繋がる必然である。 もしそんなことを言われてもその次はいつなんだ。 注意しながら歩いていると角を曲がった時にマンホールの蓋があいていてそれに気付けた、落ちなくて済んだ。 そんなことはそうそうあるわけではないが、それでもそれが今日なのか明日のか、それとも十年後なのか。
「雄哉みたいにインスピレーションで生きていければ楽なのに」
水無瀬の少し離れたところに水無瀬が居る。 その水無瀬が水無瀬の方を向き静かな視線を送ってきている。
(え? 誰・・・)
誰と思っても水無瀬自身であることは明白。 瓜二つ。
(・・・ドッペルゲンガー? いや、俺にはあんな静かな視線を誰かに送れない)
寂しい、悲しい、波立たない、冷たい、そのどれでもない。 静か、ただそれだけ。
その水無瀬が向きを変え水無瀬に背中を向け歩き出す。
(どこへ行く)
ドッペルゲンガーとは自己像幻視。 視覚のみに現れる現象であり、自己のアイデンティティや意図を持たない。 だが水無瀬の前に居た水無瀬は水無瀬が持たない視線を持ち、水無瀬が認識できない行動をとっている。
(ホートスコピー?)
アイデンティティを持った自己像。
(待て、どこに行く)
どうしてだ、声が出ない。
「うぅぅぅ・・・」
「おい、おい水無瀬」
「うわっ!」
揺り起こされ跳ね起きた。
「大丈夫か? 悪い夢でも見てた?」
「あ・・・」
「疲れが溜まってんじゃないか?」
「夢・・・」
夕飯と風呂を済ませ、久しぶりにテレビでも見ながら話そうと言っていた。 それなのにテレビを見ながらいつのまにか寝てしまったようだ。
ハラカルラに甘えてあまり睡眠をとっていなかった。 一日が終わると卒論に向かい合っていた。 ハラカルラに居るのだ、疲れが溜まるとか睡眠不足ということはないが、思い詰めるなどという感情面にハラカルラの干渉はない。
「疲れは溜まってない、溜まってないけど・・・思いがけない夢を見て、まぁ、悪い夢ではないのかな」
今の自分の心の中を見せられたのだろうか。 偶然も必然も関係のない自分の心に。 精神と心は違うものなのだろうか。
精神にも心にも色んな定義がある。 その一つに精神には理性があり能力を持っていると提言されているものもある。 だが心に能力などない。 ただただ嘘偽りのない本当の気持ち。 “心ない言葉” “心からの感謝” “心を奪われる” “心に触れる”
静かな視線の意味は何だったのだろうか。
「今日はゆっくり寝れば?」
「うん、そうするわ。 うん?」
雨の音がする。
「雨?」
「ああ、梅雨に全然降らなかったのに今さらの雨。 水無瀬が落ちたあと急に降り出してきた」
今年の梅雨はどこも空梅雨だった。 ライの言う通り今さらの雨の上、かなり強く降っている。
「カエルが喜んでるだろな」
ライがキョトンとした目をしてから微笑んだ。
潤璃から少し時間が欲しいというラインを受け取って十一日が経った。
『待たせて悪かったね、こちらの準備が整った。 一方的、且つ、急で悪いが明日メンバーと会ってもらえないだろうか』
グループトークに招待すると言っていたが、一足飛びにするようである。
潤璃は今の水無瀬のタイムスケジュールを知っている。 複雑なスケジュールではない。 日中はハラカルラ、戻ると卒論に取り組む。 たったそれだけであり、そのどちらも簡単に変更、キャンセルがきく。 それを分かっていてのラインである。 明日と指定してきたのは一日でも早くと思ってのことなのだろう。
ぶっつけ本番などとは考えていなかった水無瀬にすれば、顔合わせや意見を聞くことは願ったりである。 すぐに場所と時間を訊いた。
昨日から朱門の見張りの番である。 ライが見張に行くのであれば誰か他の人に送ってもらわなくては、水無瀬の運転ではこの山を水無瀬自身も車も無傷では下りられない自信がある。
ライの部屋をノックした。
「どんな自信だよ」
潤璃から聞いた時間は夜であるが、夜に村を出て間に合うわけではない。
今日会う全員が定時に仕事を終わらせたのち集まる時間を指定してきた。 全員は集まれないとは聞いているが、今日が一番多い人数が集まることが出来るということで、事前に一人でも多くを水無瀬を会わせたいと考えているようであった。
「オートマの軽だったら、どうにか運転が出来そうな気がするんだけどな」
山道は細い上にカーブもあり、時には太い木の枝が飛び出していることもあり、圧迫を感じ車の中で頭を屈めてしまうこともある。 それはあくまでも水無瀬だけであるが。
「水無瀬って完全なるペーパー?」
村の車に乗った時、何度もエンストをおこしていたと聞いているが、いま水無瀬はオートマならと言っていた。 その上で “気がする” とも。
「車持ってないからそうなるかな」
だが年内に一度だけだが車を運転している。 それもコラムで。 そしてライのバイクも運転したが、その話になると触れてほしくない部分が出てくる。 だから完全なるペーパーにしておく。 それに車もバイクも運転をしたと胸を張って言える状態ではなかった。
高速に乗ると陽がだんだんと傾いてきた。 今の季節であるからこの時間はまだ明るい方だが、これが冬なら既に真っ暗になっている。
「間に合う?」
「余裕よ。 ラーメン食う時間もある」
「長、玲人(れいじ)から連絡が入りまして」
玲人というのは、水無瀬を攫いに来た時の白門の男で 『こんにちは、水無瀬君』と声をかけてきた大学院生であり、水無瀬に言わせれば逆撫でしてきた相手でもある。 そしていま長と話しているのはその玲人の父親である。
「村を出た者たちが何やら集まっている様子だと」
「どういうことだ」
たまたま一度見かけた時は何も不審に思わなかったが複数回見かけた。 何を話しているのかは分からないが、マンションや一軒家に複数人で入って行くということであった。
「その村を出たやつらというのは誰だ」
村を出た者たちが集まっているという話は今までに聞いたことがない。 その家の者から何をしているのか訊けばいい。 今この白門の村で不測の事態ということは避けたい。