孤火の森(こびのもり) 第10回
産屋の外から聞こえる剣戟(けんげき)の音がかなり近くなってきている。 森の民の呪によって同士討ちをさせていたが、女王に呼ばれたサイネムが引いてからそうではなくなった。
敵に強力な呪を持つ呪師が居た。 それが大きく響いた。
たとえ呪師といえど街の民の呪師などに破られる森の民の呪ではない。 だが森の民達がどれだけ幻影を見せ迷いの道に入らせても同士討ちをさせても、疲れた森の民達の呪ではその呪師によって破られ始めていた。
頼みの綱はサイネムの呪力だけだったが、そのサイネムが女王に呼ばれた。 女王に呼ばれれば応えるのは当たり前だがこの戦いのさなかである、だが迷うことは無かった。
サイネムにも分かっていた、あまりにも兵の数が多すぎる一人ではもう手が回らないと。
湧いて出てくる虫のように次から次と兵が森の中に入ってきていた。 その上、幻影の呪の合間を縫い、森の中をどう進んでいいのかを知っているように、真っ直ぐにこちらに向かってきていた。
あの刃のぶつかり合う音は呪によって同士討ちにさせている兵同士の刃が打ち合っている音ではない。
兵の数に比べこの森の民はあまりにも人数が少なすぎた。 長い戦いから呪をかけるに精神が疲弊し、もう呪はかけられないのだろう。 身を守るために、いや、この産屋を守るために剣をふるっている。
『この子たちに呪をかけて逃げて、そしてこの子たちを守ってください』
『呪、を?』
『そうでなければすぐに見つかってしまいます』
森の女王であるピアンサは敵に呪師が居ることを知ったのだろうか。 それとも、それだけではなく・・・。
『まさか?』
ピアンサが頷いた。
『わたしが気付かぬ間に移動していたようです』
ピアンサが気付かぬ間、それは陣痛で苦しんでいる時。
何というタイミングで事が動くのだろうか。
『だが・・・まだ生まれたばかり』
生まれたばかりの子に呪をかけるなどと、命を守るための呪が命を取り上げてしまうかもしれない。
『ライダルード、あなたになら出来ます』
サイネムの精神的疲労も肉体的疲労もその姿を見ただけでも分かっている。 ずっと呪をかけ応戦していた、それがどれ程のものかは分かっている。 その上にまだ呪を使えと、ましてや生まれたばかりの子に呪をかけろと。
失敗は許されない、それはサイネムに死ねと言っているようなもの。 だがそれさえ認めず双子を連れて逃げろと言っている。
それが女王たる者なのだから。
『ピアンサ』
ピアンサと呼ばれた女王が優しく笑った、
『わたしはわたしのすべきことを、あなたはあなたのすべきことを』
ピアンサが女たちに目を向けると女たちが双子をピアンサの前に差し出した。 一人ずつを順に受け、それぞれの名を口にし額に口付ける。 そしてサイネムの腕に双子を預けると、女から手渡された刃(は)で双子の片割れのまだ薄い髪の毛を切った。
『森はわたしが守ります。 それが森の主たる者のすること。 そしてこの子たちが戻ってくる場所を守ります』
サイネムが器用に双子を片手で抱くと空いた手でピアンサの頬に触れ、そこから長く白銀に光る髪を梳いた。
(あの時のあの髪が・・・)
最後に触れたピアンサの頬・・・ピアンサの髪。
―――切られたというのか。
ましてやその髪に呪をかけるなどと。
今すぐにでもピアンサの髪を取り戻したい。 汚い手などに触れさせたくない。
だがそれは自分の我儘だと分かっている。 今自分がしなくてはならない事は双子を森に帰すということ。
崖の下を歩くお頭と若頭の姿を捉えた。
暗闇の中、天幕では着々と準備が始まっていた。 たとえ小さな森といえど森の民を侮るわけにはいかない。
森の民の人数は把握できていなかった。 これはどこの森を探っている隊も同じだろう。 森の民に視線を向けるような事をすればすぐに存在を見破られるかもしれないのだから。 いや、それすらどうなのかも分からない。
だが既に制圧していた森から考えるに、制圧した森と比べこの森はあまりに小さい。 ましてや制圧した森は森の女王がいる森だった。 それであの人数、森の民は五十人程だった。 そこから考えるにこの小さな森には多くても三十人と居ないだろう。
応援など要らない。 それに他の兵隊長の兵を使う気など、さらさらない。
とはいえ、その五十人程度の人数に何人もの兵が死に、苦戦を強いられたのは知っている。 あの戦いで生き残った内の一人なのだから。
だからあの時とは違う手を使う。
武具の当たる音を夜陰に響かせながら整列が終わった。
「大砲で一発よ」
運んでくるには何日も要したがすでに森の近くに配してある。 セイナカルに森の中の様子が分かったことを報告すれば、すぐに動けと言われるのは分かっていた。
セイナカルからは逃げた者を探せと言われている。 そしてその次に御子を。
大砲など打ち込んでしまってはその者達の命の保証はない。 だが森の中の住処はもう調べがついている。
夜明けすぐなら住処から出ていたとしてもその周辺だろう。
まずは住処に届かないところ、森の端に大砲を落とす。 森だ、簡単に火が回る。 呪などかけている時はないはず。 そこを突っ込めばいいだけの話し。
森の中に居る者たちを縄にかけ、盗る物を盗って森を出ればいいだけの話し。 あとは森が焼けようがどうなろうが知ったことではない。
ジャジャムはかなり反対をしたが兵隊長が押し切った。
『森を残せとはセイナカル様からは聞いておりません。 森の制圧は我らに任されており、そこのところは口を挟まなくて頂きたい。 それに我が兵を一人でも多く守るにはこの方法が一番ですのでな』
ジャジャムとて兵も誰も死なせたくはない。 兵を守ると言われればこれ以上反対など出来るものでは無かった。
「相手は呪を使う! 惑わされるな!」
おー! という鬨(とき)の声を上げると百人余りの隊列が動いた。
ポポが横になっている寝床で何度目かの瞬きをした。
反対側の岩壁に添って置いてある寝床にはブブではなくアナグマが寝ている。 ブブは当分の間ヤマネコの部屋で寝ると聞かされた。
「・・・なんだ、まだ寝られないのか」
驚いて肩が上がってしまった。 まさかアナグマが起きているとは思わなかった。
「ブブのことはヤマネコが見ている。 あと少ししたら夜が明ける。 それまでちょっとでも寝ておけ」
「・・・」
アナグマが寝返りをうってポポに背を向ける。
「・・・アナグマ」
「なんだ」
「オレ・・・置いてきぼりを食うのか?」
「は?」
アナグマが首を捻ってポポを見た。 身体が徐々に仰向け状態になる。
「サビネコが言ってた」
「何を」
「ブブは・・・女になったんだって」
「・・・それがどうして置いてきぼりだ」
頭の下に両腕を回し腕で枕を作る。
自分がポポの歳の頃にはこういうことをどう受け止めていただろうか。 遥か昔を思い出そうとするがあまりにも遠すぎる。 ましてやこの歳になってしまうと生まれた時から知っていたような気さえする。
「オレは。 オレはまだ髭も生えてこない」
肉体的なことを言っているのか。
「そのうち生えるさ」
「そのうちって・・・」
夏の間はいい。 陽に焼けて仲間と同じになる。 でも冬になると焼けて仲間と同じになったはずの肌がすぐに白くなる。
それはポポだけではなくブブも一緒だった。 だから気にしないでおこうと思えた。 なのにブブだけが変わっていくのか? 置いてきぼりを食のか?
アナグマがちらりとポポを見るといつの間にかポポが仰向けに寝ていた。 大きく目を開け上を見ている。
そう言えばこの群れでいまだに髭が生えていないのはポポだけだったか。 だがそれは年齢的に仕方のないこと。
「女たちだってそれぞれの歳で女になる。 男だってそうだ。 わしは、そうだなぁ・・・確か十四くらいからポツポツ出てきたか」
「ポツポツ?」
ポポがアナグマを見た。 だがアナグマは上を向いたまま。
「濃い髭がな、一本二本とな」
「一気に生えるんじゃないのか?」
はぁ? っと言うと声を出して笑った。
「え・・・違うのか?」
「そんなことになればブブ並みに焦って泣くかもしれんな。 ま、そうだな、そう考えると男の方が徐々にきてまだ受け入れられるかもしれんか」
目が覚めちまった、と言いながらアナグマが体を起こす。
「経験はないが・・・ま、当たり前だがな、女になるって腹も痛いし具合も悪くなるらしい。 ああ、吐いてるところも何度か見たか。 それを思うと剃った時の失敗の傷なんか軽いもんだ。 髭は毎日のことだからうっとうしいがな、それでも男の方が随分と気楽かもしれない」
そうだな、と続け、頭痛がするとかイライラするとか他にも色々な症状を言っていたが、結局女になったことがないから比較のしようがないがな、などと付け足して言っている。
「ブブ・・・腹が痛いって言ってた」
どんな痛みか分ち合えなかった。
ポポの心の声がアナグマに聞こえる。 いや、きっとそう思っているだろう。
「仕方ないことだ、わしらには一生分からんのだからな。 女のことは女にしか分からん、ヤマネコ達に預けておけば間違いはない」
納得したのかどうか、ポポが僅かに頷いたように見えた。
「寝られんか?」
「うん・・・」
「見張を代わりに行くか」
岩穴から出るとヤマアラシが立っていた。 辺りを警戒しているのか、見回しているように見える。
こんな夜の見張であれば耳を澄ますだけで良いと言うのに。 何かあったのだろうか。
「どうかしたのか」
振り向いたヤマアラシがアナグマの姿を見て、その後ろから出てきたポポに目を移す。
「ポポもか」
今日のポポの状態は誰もが知っている。 気恥ずかしさに下を向いて口を尖らせている。
「兵か?」
「いや、多分・・・お頭だと思う」
ヤマアラシが闇の中に視線を送るとアナグマとポポもそれを追って目を凝らすが、今はどこにも人影など見えない。
「そうか。 もう少ししたら夜が明ける、ちょっとでも寝てこいや。 ポポと二人で代わる」
「え? いいのか?」
「万が一、お頭じゃなかったらヤマアラシ一人より二人の方がいいからな。 それに目が覚めちまった」
「そうか。 ・・・じゃ、わりーな」
「ああ、気にすんな」
ヤマアラシが欠伸をしながら岩穴に入って行った。
一人の見張ほど退屈なものはない。 座ってしまうとうっかり寝てしまいかねない。 その為に誰もが立っているが、眠気に襲われないように立っているだけでも結構厳しい。
「あ・・・」
ポポの上げた声に、なんだ? と言いかけてポポの視線の先を同じように見た。
「ん?」
「・・・三人だ」
先ほどは見えなかった三つの影が見える。
「みたいだな」
お頭と若頭が兵に捕らえられたという図ではないようだ。
「お頭・・・だよな?」
「多分な。 それと若頭、あと一人は誰だ」
「双子の片割れが居るようだな」
サイネムが前に見える影を凝視している。 見ているのは小さい影だ。
「起こす手間が省けたってもんだが・・・あれはきっとアナグマだな」
大きい方の影に目を凝らす。
「他の奴だったらよかったのによぉ」
何とでも言いくるめて岩穴に戻せたものを。 アナグマは何か感づいている。 一筋縄ではいかないだろう。
「旦那、どうする? こう言っちゃあなんだが、おれたちっつーか、あんたら森の民以外は森の民を良く思ってなくてよ」
この男を目にするとアナグマが何を言い出すか分からない。 もし大声でも出して追い払おうとでもすればみんな起きてくるだろう。
「分っている」
「あいつはよー、ポポもブブもよく見てくれてたんだ。 それとあと一人、今もブブをよく見てくれてはいるが、あの二人に乳を飲ませてくれたのが居る。 出来ればその二人には事情を話して別れさせてやりたい。 つーか、群れの全員が二人を可愛がってたからな、ある日突然消えましたじゃなぁ・・・」
「だが二人ともお前たちが良く思っていない森の民だ」
「そりゃあ・・・分かってるがよ」
さっき言ったことの上げ足を取られた気分だ。 とは言え、自分が支離滅裂なことを言っているのは分かっている。
「わたしのことは気にせずともいい」
気にせずともいい、と言われても、たとえフードの中に白銀の髪を隠していたとしても、フードをしたままの怪しい奴を岩穴の中に入れるのをアナグマが見過ごすわけがない。 それでなくとも何か感づいているというのに。
「やっぱ、名前をしくじったかなぁー」
ポポとブブ。 それはこの群れを表す名ではない。 アナグマはまずそこに引っかかっていたようだった。 アナグマ以外の者も気付いていただろうが。
この男から二人の名前の付け方を聞かされていた。
あの日、乳を求めてぐずりそうになった双子を抱いてヤマネコの居る部屋に行った。
子を亡くしてまだ精神が病んでいたヤマネコにはきつい頼みだとは思ったが、それでもヤマネコに頼む以外誰もいなかった。 双子を抱いたヤマネコがポツリと漏らした。
『双子かい』
『ああ、そうだ』
暫くヤマネコは黙って双子を見ていた。
おかしなことに双子は今にもぐずりそうだったのに、ヤマネコの腕の中でぐっすりと寝ている。
『片方のこの毛は?』
小さな頭だ。 大きな頭ならそう広いものでは無いが、小さな頭の広い範囲に髪の毛がない。 切られている。
『え、っと。 切られてるみたいだな』
当たり前の返事をしてくる、その理由をお頭は知らないのだろう。 だが拾ってきたのならばそうだろう、いつ拾ってきたのかは知らないが、拾ってくる前に切られていたのだろう。
『なんて名だい?』
段々とヤマネコの表情が変わってきた。 それは暖かく子を見つめる母の顔。 ヤマネコが双眸を細め双子を見ながら訊いてきた。
名を訊かれるなんて思ってもいなかった。 咄嗟にポポとブブと言った。
サイネムから言われていた『ブから始まる名前とポから始まる名前を付けてくれ。 少しでも短くな』そう言われていた。 だから一文字を続けただけの名になった。
それが安直すぎたようだ。
「お頭」
ポポが走り寄って来た。
「誰?」
男を一度見上げるとお頭に視線を戻した。
だが答えたのはお頭ではなかった。
「サイネムだ。 お前は?」
「・・・ポポ」
「ポポ、か」
復唱した男に、捻りがないな、と言われたような気がした。 勝手に作り上げた被害者意識だろうか。
若頭が先に歩きアナグマと何か話している。
アナグマはこちらを見ながら頷いているように見える。
(上手く誤魔化してくれるといいが・・・あれだからなぁ)
タンパクたちを上手く追い払えなかった若頭である。
「とにかく、いったん落ち着こうや。 疲れちまった」
夜通し歩いていたのだ。
「お頭? どこに行ってたんだ?」
「遠くよ、遠く。 そう言やぁ腹も減ったなぁ・・・」
「魚の干し物ならある」
「んじゃ、穴に持ってきてくれ。 喉も乾いたな、水も頼む」
「はいよ」
走っていくポポの背を追いかけていたお頭が口を開いた。
「ちょっと手こずるところもあるが、いい子だ」
「森の民はみんなそうだ。 悪い者などおらん」
お頭がちらりとサイネムを見る。
「旦那、サイネムっていうのか」
サイネムは一度たりともお頭に名を名乗っていない。
「ああ」
「言っとくが、ポポがいい子なのは群れの仲間に育てられたからだ。 ブブにしてもな」
今度はサイネムがお頭をちらりと見た。
「わたしたちのことをお前たちは何も知らない」
「知るわけねーだろ」
「知ろうとしないからだ」
「はぁ?」
「お前たちが勝手にわたしたちのことを想像の中で作り上げているだけだろう」
そう言われれば心当たりがなくはない。
この男一人を取っただけでも、この男だけが一人友好的なのだろうかとか、自分に対してだけなのだろうかとか、勝手に想像をしてしまっていた。
「お頭、いつまでそこに居る気だ」
アナグマが歩み寄って来た。
「客だと聞いたが?」
若頭がそう言ったのか。
「ああ、そうだ」
「急に申し訳ない」
サイネムがフードを下ろして顔と髪の毛をあらわにした。
ついさっきの話もある。 一瞬、お頭の息が止まりそうになった。
「いや、お頭の客ならいつでも」
サイネムの髪の色と瞳の色は黒だった。
(いつの間に・・・)
いくら森の民と言っても染める間など無かったはず。
アナグマは何かを怪しんでいるようだ。 それはそうだろう、たとえ黒い髪の色だと言っても、透き通るような白い肌、どこから見ても山の民には見えないのだから。 それにこの男も何を言い出すか分からない。 もう夜が明ける。 あと少しすればみんな起きてくる。 騒がせるわけにはいかない。
「歩き通しで疲れた、穴に戻る。 ポポには食いもんを持ってくるように言った、ポポのことはおれが見ておく。 それと戻って来るまでに兵の姿は見なかった、見張はもういい。 疲れただろう、ご苦労だったな、」
ご苦労だったな、と言われて交代したところだとは言いにくくなったアナグマであった。