写真は、Parisの確かサンシュルピス教会だったような気がしますが、間違えていたらごめんなさい…。もしかしたらサンジェルマンデプレ教会だったかもしれませんが…
聖母マリアが、十字架からイエスを抱いている「ピエタ」です。でも、普段目にするピエタとはちょっと違います。よく目を凝らして見てみるともう一人抱かれている人がいます。
宗教学的には、ヨハネと言われているようですが、私はマグダラのマリアであってほしいな、という思いがあるので、マリア様に抱かれているのは、イエスとマグダラのマリアだと信じています。
キリスト教以前の諸々の宗教が混じり合う中、二ケアコンスタンチノーブル信条を基に聖書が編纂されていきます。教会を見て回る毎に感じるのですが、キリスト教以前の太陽や母神信仰が心の奥底に根付いているヨーロッパの人々は、マリア信仰の傾向が強いように思います。
(小説ダビンチコードにも登場する教会です。だから、やはりサンシュルピスだと思います…^^;書いているうちにそんな気に成ってきました…)
さて、
大事な人を亡くしたり、ショッキングな出来事に遭った経験があると、それが起こった日が近づくにつれ、得も知れない不安感が自分を襲います。
思い出したくなくても、その時の気候、歳時、その時自分がやっていたこと等、抑圧し封印していても、ある瞬間、ふと湧き上がり、底無しのような不安に落とされていくのです。
東日本大震災においても同じです。
昨年の暮れを思い出し、ふと、元気に暮らしていた家族の姿が蘇り、大きな不安の渦に呑まれていくのです。
暮らしの中で感じる事のなかでショックな体験は、ふとしたきっかけで蘇ってきます。
その苦しみは、体験していない人には理解してもらえないものだと思います。
湧き出してくる感情の処理は、他人を頼ることはできません。湧き出した不安感が治まるまで、自分自身で何とかするしかありません。本当に孤独です。
そんな時に、自分が大切にしている考え方が自分を救っていきます。
私の場合、このピエタに出合った時に心と身体が自由になる体験をしました。いつも自分の魂と心と身体に添う存在を信じていることに強みを感じたのです。
東大寺の盧遮那仏の光も私を統合させてくださるものですが、聖母マリアのマントに包まれる感覚も同じ効用があります。
昇る太陽に手を合わせ拝むことも、山に帰る魂を信じることも、湖に住む龍を信じることも、心の平安を求める私達に共通した統御感であることに変わりありません。
その時に体感する統御感は、他者に知られることもなく、理解できるものでもないのです。
深い不安感を感じる時と同じなのです。
一人、静かに手を合わせ、天と会話する時間を大切すると、自分の深い不安感に添ってくれている存在に気付くかもしれません。
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