五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

南方熊楠と熊野

2013年12月07日 | 第2章 五感と体感
奈良に都があった頃、仏教やゾロアスター教、キリスト教というよりもネストリウス派が大陸を伝わり、日本にやってきたようです。
これは、古事記編纂1300年以前のお話です。

これらの伝来が固有の個性として分化され、現在も行われている各寺社の祭儀に継がれ続けています。

神々の国日本以前の古層と呼ばれる領域となると縄文の頃の祭儀と信仰は、私にとって重要な妄想のモチーフとなっています。

明治維新の国家形成の際、日本の神仏習合が日本の発展の足かせとなるような考え方が生まれたようです。

そこで始まった神仏分離、廃仏棄釈は、日本の歴史の中で最大な哀しい出来事であったのではないでしょうか?

八百万の神々を祀った道端の道祖神でさえ対象となり、次々と破壊されました。

そこで立ち上がった田辺出身の南方熊楠は、天皇が行幸に訪れた熊野で現状と危機を訴えるのです。

吉野山の金峯山寺にしても、天河神社にしても、熊野の山々にしても、表面的なモノの裏に裏打ちされている信仰の厚みは私達の想像をはるかに超えたものであるに違いありません。

十代の頃からアジアやインドを訪れ、古代キリスト教の聖地等を歩き、私はいつかは熊野に辿りつくのだろうな、という確信はありました。心理療法的にいえば、いつも「熊野」を「自己実現」に意識して生きてきました。
勿論、多くの文化人の先輩方がこのニュアンスを醸し出していたことも脳裏に焼き付いていました。

今回、積年の思いが叶い熊野に辿り着き、一度立っただけでは見えてこない混沌とした古層の厚みを自分なりに時間をかけて紐解いていきたいという願望に取りつかれています。

学問的に紐解くというよりも、自分の体感を紐解くという意味においてです。

今まで学んできた事の集大成が自分の身体に宿ることは、ある意味自分なりの碩学であると解釈しています。

フィールドに立つことを教えてくれた若き頃に出会った文化人類学者の先生方に感謝しつつ、こんな楽しい学問と出合った私は自分の体感と考え方にぶれなく生きていくことができそうな気配を感じます。

私の碩学の師の一人であろう南方熊楠に感謝。

私の学びは、まだまだこれからです。

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12月6日から8日まで 神宮前の「渋谷のIMA」(神宮前6-17-14六英ビル4階)にて「ちいさく表装・作品展」を開催します。今回は各講座の指導員の表装を展示します。いまようの住まいにも馴染む掛け軸をぜひご覧ください。

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