毎年あるはずの祭事が無いと、間が抜けた感じになります。
昨年は、震災、原発事故の影響で三社祭は行われませんでした。
特に我が家は、主人が江戸っ子で、しかも御輿が生き甲斐ときているから本当に間の抜けた時期を過ごしました。
家族に間抜けがいると、何となく家族全体が間抜けた感じになるのです。
今年は三社祭700年。
昨日は、丁度表具フェスティバルが隅田川のリバーサイドギャラリーにて会期中なので、行ってきました。
浅草の駅徒歩二分の隅田川沿いにある大きなギャラリーではあるのですが、外の喧騒から比べるとひっそり…。でも、中で飛び交う江戸弁の響きは、亡くなった義母を想い返し懐かしさに包まれました。
江戸っ子の喋り方は、「てやんでー!」というような歯切れが良い「飛んだような抑揚」だけではありません。
どちらかというと、山の手の言葉が入り混じった丁寧な抑揚のほうが江戸らしさを感じますし、未だに受け継がれている話し方としてはそちらのほうが残っているかもしれません。言葉の最後が丁寧な今で言う「お姉言葉」を男性が喋ると、江戸情緒を感じます。
表具屋の旦那がハッピを着て、ギャラリーの中で動き回る様子も良い感じでしたし、
声を掛けてくださる師匠方の優しい言い回しが、何とも嬉しく、三社祭のお陰で江戸風情が蘇った経師屋集団に大いに誇りを感じました。
修業中の小僧には、日常そんな優しい言葉掛けばかりではありませんが、言葉から溢れ出る人情は、こんなお祭りの時に大いに発揮されるのかもしれません。
以前住んでいたお隣の花柳流のおっしょさん宅のお嬢さんに「ねえさん」と呼ばれていた私。お隣から三味線の音が聴こえてくる度に江戸情緒を愉しんでいたことを、ふと思い出しました。そういえば、私は彼女の事を「お嬢ちゃん」と呼んでおりました。
スカイツリー開業ということもあり、浅草の街は観光客で賑わっています。
本日は朝の6時には御輿が浅草寺境内に勢ぞろいし、粋な旦那と兄さん姉さんが集まり、大盛り上がりであることでしょう。
今年のお正月に京都の戎さんに行った時にすれ違った旦那衆とは、やっぱり違いを感じます。
何が違うか、敢えて表現してみると、京都の旦那衆は腰で歩き、江戸の旦那衆は肩で歩いている、という感じでしょうか。
どちらも、粋なんです^^が…。これは、私の勝手な所見ですので、あしからず^^
できることなら何があろうとどんな形でも灯を消すことなく執り行うことが継続のための極意であるかもしれません。
二月堂の修二会のように、千年も二千年も世々に続いてほしいものです。
クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング
昨年は、震災、原発事故の影響で三社祭は行われませんでした。
特に我が家は、主人が江戸っ子で、しかも御輿が生き甲斐ときているから本当に間の抜けた時期を過ごしました。
家族に間抜けがいると、何となく家族全体が間抜けた感じになるのです。
今年は三社祭700年。
昨日は、丁度表具フェスティバルが隅田川のリバーサイドギャラリーにて会期中なので、行ってきました。
浅草の駅徒歩二分の隅田川沿いにある大きなギャラリーではあるのですが、外の喧騒から比べるとひっそり…。でも、中で飛び交う江戸弁の響きは、亡くなった義母を想い返し懐かしさに包まれました。
江戸っ子の喋り方は、「てやんでー!」というような歯切れが良い「飛んだような抑揚」だけではありません。
どちらかというと、山の手の言葉が入り混じった丁寧な抑揚のほうが江戸らしさを感じますし、未だに受け継がれている話し方としてはそちらのほうが残っているかもしれません。言葉の最後が丁寧な今で言う「お姉言葉」を男性が喋ると、江戸情緒を感じます。
表具屋の旦那がハッピを着て、ギャラリーの中で動き回る様子も良い感じでしたし、
声を掛けてくださる師匠方の優しい言い回しが、何とも嬉しく、三社祭のお陰で江戸風情が蘇った経師屋集団に大いに誇りを感じました。
修業中の小僧には、日常そんな優しい言葉掛けばかりではありませんが、言葉から溢れ出る人情は、こんなお祭りの時に大いに発揮されるのかもしれません。
以前住んでいたお隣の花柳流のおっしょさん宅のお嬢さんに「ねえさん」と呼ばれていた私。お隣から三味線の音が聴こえてくる度に江戸情緒を愉しんでいたことを、ふと思い出しました。そういえば、私は彼女の事を「お嬢ちゃん」と呼んでおりました。
スカイツリー開業ということもあり、浅草の街は観光客で賑わっています。
本日は朝の6時には御輿が浅草寺境内に勢ぞろいし、粋な旦那と兄さん姉さんが集まり、大盛り上がりであることでしょう。
今年のお正月に京都の戎さんに行った時にすれ違った旦那衆とは、やっぱり違いを感じます。
何が違うか、敢えて表現してみると、京都の旦那衆は腰で歩き、江戸の旦那衆は肩で歩いている、という感じでしょうか。
どちらも、粋なんです^^が…。これは、私の勝手な所見ですので、あしからず^^
できることなら何があろうとどんな形でも灯を消すことなく執り行うことが継続のための極意であるかもしれません。
二月堂の修二会のように、千年も二千年も世々に続いてほしいものです。
クリック応援お願いします♪「生き甲斐の心理学」
人気blogランキング