Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

Harry don't be hurry

2006-09-23 | Aussie & Kiwi
ニュージーランド最大の都市オークランドの繁華街 Queen Street と Customs Street の角に All Blacks のオフィシャルグッズの売っているショップがある。6年前はNZ$が50円を割る勢いと大変下落していたため、商売はあまり進まなかったが買い物には最適の時期であった。その時に買い漁った All Blacks グッズ、トレーナーやポロシャツを着てニュージーランドのみならず、オーストラリアに滞在中でも出張時にはそれこそユニフォームの様に来て過ごしている。カンタス航空の飛行機では Cabine Attendant に“当機はどこの国の航空会社かご存知でしょうか?”とか“もうすぐオーストラリア領空内に入ります。着替えの準備を”と言われ(勿論ジョークだ)パスポートコントロールでは All Blacks のマークを指差し“本当にオーストラリアに入国しますか?”とよくいじられたりする。まぁ半分それを覚悟と期待をしてのことだが。その度に私は“今度は Harry Kewell シャツを着てきます。”と答えるのだが、その意味を理解する人は本当に少い、いや少なかった。初め私の発音が悪いから通じなかったのかと思っていたのだが、今回の出張では誰もが私のカウンタージョーク(こんな英語あったかな?)を理解した。ワールドカップ効果が此処にも現れている。その Socceroos 快進撃の立役者だったキューウェル、ワールドカップ後の様子が芳しく無い。決勝トーナメントのイタリア戦は杖をついて入場し、その試合には出場できなかった。それは一部メディアが通風だ、と報道したが、9月21日付けの The Australian 紙ではそれは当時の Socceroos のチームメイト内での噂に過ぎなかったと報道。しかし、翌週にメルボルンで鼠頸部(足の付け根)の手術を受ける前に翌日、9月22日につま先とくるぶしにメスを入れる事になったとの事。この日はキューウェルの28歳の誕生日だった。この記事や UEFA, Liverpool のホームページの報道では左足関節にSeptic Arthritis ( 敗血症関節炎 ) を患っていると診断されたらしい。敗血症とは化膿性(かのうせい)の病巣があって、そこから菌が血流中に繰り返し入り、その毒素により悪寒戦慄(せんりつ)・高熱などの中毒症状を示し、二次的に身体各所に転移性の膿瘍(のうよう)をつくる感染症。7月に膿を取り除く手術を施したがもう一度手術が必要になったとの事。その左足関節と言うのがどうやら以前から痛めていた鼠頸部(足の付け根)らしい。2005年5月の UEFA Champions League 決勝戦では怪我で途中交替を余儀なくされチームは劇的な勝利を収めビッグタイトルを勝ち取ったが、翌シーズンはその回復振りが心配され、ワールドカップ予選への出場も危惧されたがヒディング監督の新しい指揮の下見事なパフォーマンスを披露し前大会は最後に破れたウルグアイにリベンジを果たした。そしてワールドカップイヤァーとなった2006年はFA Cup の準決勝、チェルシー戦で Man of the Match に輝くパフォーマンスを披露。しかし前シーズンに痛めた鼠頸部が悪化し決勝戦は出場できずワールドカップ出場が再び危ぶまれた。リバプール関係者もマスコミを通じて“キューウェルを酷使するな”と言う意味の発言を繰り返す。そう言えば2000年、地元開催のシドニー五輪でも怪我で出場出来なかった。初戦の日本戦にはキューウェルが先発するのか?と言う事も私の1つの観点であったが、結局先発でフル出場。だが試合には勝ったが彼らしさを見せたのは前半に得意のドリブルシュートから惜しいシュートを放ったシーンくらい。後半も25分を過ぎると足が止まっていた。それでも彼を下げなかったのは“キューウェルが下がると日本が活気付く”とヒディング監督が思ったからか?以降、ブラジル、クロアチアと出場しクロアチア戦では貴重な同点ゴールを決めた。そしてこの試合以降まだ彼はピッチに立てる状態に無い。
10月7日のブリスベンでパラグアイと親善試合。そして11日にはシドニーでバーレーンとのアジアカップ予選。この試合にはワールドカップでの Socceroo メンバーが揃い、おそまきながら凱旋帰国試合となるらしいが、ヴィドゥーカは奥さんがおめでたの為に豪州入り出来ず、キューウェルはこの調子ではピッチには立てない。替わりに不整脈で最後に代表辞退を余儀なくされたトニー・ヴィドマーが招集されると言う噂があるが、もう1人は誰だろう?ケビン・マスカットかポール・オコンという人達もいる。何故なら、この試合はラザリデスらベテラン Soccerroo 達の代表引退試合とも言われているからだ。そしてこの試合にはヒディング元監督も招待されるらしい。まぁキューウェルも怪我で帰国中とは言え、セレモニー参加の為にピッチに立つだけならリバプール関係者も大目に見てやって良いんじゃないかな? このことを知っていれば出張計画をずらしたのになぁ???
私がキューウェルを始めて観たのはNHKが生中継した1997年11月のメルボルン MCG でのイラン戦だ。その2週間ほど前ジョホールバルでの勝利がに日本中を感動に包んだが、もしジョホールバルで日本がもし敗れていれば、日本がここで戦わねばならなかった。ブラウン管を通してみたその試合、上背は無いがすばしっこいドリブルでイランDFを切り裂いていたのがキューウェルだった。私はオーストラリアが2点をリードしたところで、テレビを消し、床に着いた。当時2歳の子供が寝付いたからだ。(あの時はアパート暮らしだった。)そして翌々日の朝刊でイランが2点を挙げて追いつき、ワールドカップ行きの最終切符を手にした事を知った。この新聞記事を見て私は背筋が寒くなった。日本がジョホールバルで勝てた事がどれだけ大きかった事だったか。 この試合のスタメン。GK マーク・シュヴァルツァー、ブレット・エマートン、クレイグ・ムーア、トニー・ヴィドマー、ショーン・マーフィー、ケビン・マスカット、ジョシップ・スココ、スタン・ラザリデス、主将にポール・オコン、そしてヴィドゥーカにキューウェル。彼らは私の尊敬する元 Socceroos のジョニー・ワレンから “ The Young Guns “ と名付けられ、将来のワールドカップ出場の夢を託された。 ワレンは Socceroos の悲願達成を見られなかった。だがこのメンバーを中心に8年後に彼らはオーストラリア大陸にサッカーを再伝授した。 そして多くの選手が代表から引退する。キューウェルも彼らと同じピッチでプレーしたかっただろうに。だが、彼はワールドカップで無理をしたことを決して後悔していないと思う。ワールドカップで得点を決めたサッカー選手なんて何人いるだろう? キューウェルにはじっくりと怪我を治して、来年のアジアカップ辺りでの復活を目指して欲しい。勿論ゴールは日本戦以外で決めて欲しいが。
最後に、キューウェルに応援メールを送ることが出来るらしい。下記のサイトを参照下さい。日本から応援メールが届くと彼も最初は驚くが喜ぶ事は間違いないだろう。 勿論英語で書かねばならないが。 彼のためなら英文作成くらいは問題ないと思う人も多いと思う…… 私からのメッセージは Harry, don’t be hurry だ。

http://www.liverpoolfc.tv/team/squad/send_player_email.php3?num=7


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4 コメント

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私のバカバカバカッ (まゆ)
2006-09-23 23:59:15
オゥノ~~~ウ!!!英語がわかりませんっ

何で今まで英語勉強してなかったんだろうと

今かなりの後悔をしています(大泣)

がんばります、情報ありがとうございます

お子さんいらっしゃるんですね!!

実は私も4歳の息子がいるんです

息子も私の影響でキューウェルキューウェルというようになりました

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今シーズン前のキューウェル (Mr.コンティ)
2006-09-26 12:53:08
まゆ様 いつもコメント有難う御座います。息子さんは”ナカムラ”とかはまだ言わないですか?ちなみにうちの子供はまだベッカム以外の外国人選手は知りません。

今シーズン前には一時同じプレミアの スパーズ入りが噂されましたが、会社のスパーズ通の同僚からは”(キューウェルと)同じポジションにはアーロン=レノン(但し彼は今も故障中)、デフォーそしてエジプト人の巨漢188cmのミドがいる上、ロビー=キーンもいるので、このトレードは実現しなかったほうがチームにもキューウェルにも良かったと結んでいました。 いずれにせよ彼のリバプールユニフォームでの勇姿が一日もはやく実現することを祈ります。
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こちらこそありがとうございます (まゆ)
2006-09-27 00:25:17
ワールドカップのあたりは、よく俊輔の名前を

口にしていましたねぇ!

あとよくイングランド代表のクラウチのロボットダンス、ロナウジーニョのまねをしてました。

今はなぜかキューウェルに夢中。

ああ、なんかありましたよね、スパーズの話!

キューウェルはあげれません~!
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メルボルンの悲劇 (鍼灸)
2006-10-01 02:39:37
僕もハリーを知ったのはプレーオフの少し前のことでした。

たしか「オーストラリアのマラドーナ」という紹介をされていて、当時の監督のベナブルスが、エメ・ジャケだかに(←ここが少し曖昧です)「彼を絶対にフランスに連れてくるように」と言われたそうです。



当時はネットも出始めの頃で、リアルタイムでチェックするなんてことは、まだしておらず、第1戦のアウエーでの1-1の引き分けである程度勝ち抜けを確信していました。

翌日朝一で、テレビだか新聞だかでチェックしたところ、あの衝撃の引き分けで出場を逃したのを知ったのでした。



あの時、出場を逃したことでオーストラリアのサッカーは10年は後れを取ったと思います。

あの時、出ていればオセアニア枠1は既に獲得していたでしょう。

オセアニアのプレーオフの相手は90、94、02、06年とすべて南米と当たっています。

唯一の例外が98年でした。

このときはブラジルが優勝国枠を持っていたので南米は5の出場枠がありました。南米が端数ではなかったので、アジアと当たることができたのです。

それ以外の大会は南米枠に端数があったため、政治力のないオセアニアにプレーオフの相手を押し付けられてきました。

本来なら北中米がプレーオフの相手でもよかったわけですから。

だからこそ、この時出場できなかったのは大きな損失だったのです。

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