Mr.コンティのRising JAPAN

マスコミの書かない&書きそうもない!スポーツ界の雑学・裏話を、サッカーを中心にコメントを掲載していきます。

思い出の街  Zurich

2011-04-26 | Half Time

商用で欧州を回っております…

Zurich の地を初めて踏んだのはもう 21年も前だ。
あの時はまだ前の会社にいた時で結婚前だった。 ルーマニアの首都ブカレストに出張を命ぜられそこに単身赴いた。とはいってもその時の会社はBucharest に駐在事務所がありそこには日本人の駐在部長もいた。
既に独裁者チャウセスクが倒されて10カ月が経っていた。 いやまだ10カ月しか経過していなかった。
革命後初めて同国で開催される国際見本市に出展参加をしたのだけど、当時共産圏で開催される見本市は外貨獲得手段として延々と1週間近く行われる。 今とは異なり輸入に最も大事なそして大切な外貨を使える最終決定権を持つ地元輸入公団のエライサンが各出展社ブースを転々と周り最後の“商談”を行うのだけど、既に前倒しでお互い担当者同士で筋書きを作っているのだ。 
私が最後にもう10%まけてくれと云うけど断っても良い、だけど(決定権を持つ)上司があと5%何とかならないかと言うのでそれで手を打ってくれ。 Protocol は全て準備して持参するから…..
要するに最後に最高責任者が出て来て数パーセント引かせた、彼に花を持たせたという筋書きを作っておいて実際にその通りに“商談”を行い、最後はめでたく“締結”をしてそして“儀式”である乾杯を行う…帰る前には準備しいたお土産を手渡しもう一度固い握手を。そして担当者とは“上手くいったね…” とばかりに目を合わせる….
これを1日数回1週間以上行うのだ….
紳士的な Director もいたけど、とんでも無いもの多かった。 特に当時の私の様な“雛っこ”は格好の標的となる。“日本の歌を1曲歌ってくれ。”とはまだ可愛い方。 懐から瓶を取り出し、“おいそこのヤング、一杯あおって見せてくれ。”と火の様に強いウォッカを一気飲みさせられるのだ。 これを断ると本当に注文が延期されることもあるらしいが実際にはどうだったのだろう…
まだ若かりし頃まさにこういう場面に遭遇し最後は立ち上がれずホテルまで駐在所長の肩を借してもらってやっとたどり着いた思い出もある。
そして明らかにお土産目的の輩も多かった。 まぁお土産と言っても西側のウィスキーや煙草が主だった。 
そして女性の Director には日本製のパンストが人気あった。 共産国家は女性の Director も少なくなく彼女達の御機嫌を取るには子供の為のお土産が効果的だった。 ある時は adidas の靴を買う様に命ぜられた事もあった。 
だがもっと驚いたのはいきなり若い女性の写真を見せられて“私の娘です。あってくれませんか?”と言われたことだった。 普段は強烈に値切って来る怖い女 Director も素顔は娘の将来を案ずるお母さん。若い時、俺の容姿は2枚目だ… と勝手に思っていたけど、当時日本人はみな金持ちで日本人と結婚すれば西側社会と自由に往来できる…と思う東側の人達は少なくなかった。 それに対日感情の素晴らしく良いポーランドでは歴代の駐在所長達は美しいポーランド人女性と結婚していた。そして駐在期間が過ぎると皆会社を辞めてポーランドに留まった。当時はまだ独身だったので本当にそういう“お見合い話”が何度も持ち寄られた。でも最後まで誰とも会わなかったしそれで良かったと思っている。
だけど最後の“商談”を待っていたにも関わらず Director が現れなかったり、契約書にサインをしながら帰国後も 支払いの為の信用状が最後まで開設されなかったり色々あった。後に駐在所長から、欧州の奴らにひっくり返された、あいつらはテレビくらい簡単に贈るからなぁ….と憎々しげなテレックスを受け取った事も….
しかしその反対もあった。 完全にあきらめていた商談が突然決まったので至急納期の打ち合わせをされたし..そういうテレックスも受け取った。最後に駐在所長や現地スタッフが骨を折ってくれたのだった…..

見本市のもう一つの“楽しみ”は見本市当局から派遣される“コンパニオン”達。 さすがに選抜された綺麗どころが揃っていたが、すごいのは美貌だけで頭の中身も。英語だけでなく更にドイツ語そしてフランス語等を話せる現役の大学生ばかりだった。その上専攻は機械や化学等の理科系も少なくなかった。 彼女達の日当は全て見本市本部に外貨で前払いしてるのだけれど実際に彼女達の手元にはその何分の1でしかも現地通貨で支給されるだけだった。 しかし皆流暢な英語を話すので仕事以外の“コミュニケーション” もよく取れた。
しかしここで出るのは民族性。 地元の女の子と見本市時間が終わってもよろしくやるのはまずドイツ人。 経験が豊富なのか“良く慣れて”いて隣の出展社ブースの女の子まで誘い出す。 と言っても当時の東側諸国では行くところはホテルのディスコかレストランしかないので数少ないホテルでそのドイツ人達とホテルのレストランで鉢合わせと云う事もよくあった。 それに女の子達にも地理的な事からドイツ等の欧州人の方が人気があった。
よく駐在所長から“お前は独身なんだから日本を代表して声を掛けろ。”と本気で命令されたけど、見本市時間終了後は一緒に参加したメーカーさんの夕飯のアテンドや本社への連絡、大体雑務が多かったけど、等の作業でとても女の子と食事….なんて出来なかったなぁ…

20年前ブカレストで開催された見本市。 当時外国人が宿泊できるホテルは本当に限られており、恐怖政治が終わった反動で外国人を狙った犯罪が絶えなかった。 この見本市期間中も幾つものホテル部屋が荒らされ、一緒に出展していたメーカーの方の部屋も荒らされ、財布とパスポートの入ったブリーフケースが盗まれた。
そして私も….. 長かった見本市もあと残り2日間と気を抜いたのがいけなかった。 貴重品を入れた鞄を隠すのを忘れて机上に置いたままで掛けてしまったのだった…….

ここからパスポートの再発行の手続きから滞在ビザの再発行さらに帰りの航空券の手配等、一つの物語が出来る思いをしてやっとの思いでブカレストを脱出してたどり着いたトランジット先が Zurich だった。
当時ブカレスト~東京間は直行便は無かったので(今でも無いと思う ) スイス航空でチューリッヒ経由で帰国したのでけど、当時は1泊分のトランジットバウチャーを往復のタクシーチケットと共に支給してくれた。




空港から街中に向かう時に車窓からの眺めを見て “なんて進化した街なんだろう。まるで子供の時見た SF 映画の様だ。”と本当に感じた。何の事は無い西側では当たり前に点灯している街灯や街の明かりが本当にそう見えたのだ。当時のブカレストの夜は本当に真っ暗だった。 ホテルに就いて当たり前に出る暖かいシャワーや簡単に手に入るコカコーラが本当に有難く感じた。
テレビでは Europe Champions Cup の結果が報道されていて、Napoli が CSKA Moscow と対戦した試合のダイジェストが映し出された。当時 Napoli に所属していたマラドーナが何度もドリブルで切れ込んでいくシーンがあった。4か月前のワールドカップでは怪我で万全の体調では無かったらしいがこの時の方がドリブルに切れがある様な気がしたけど、更に半年後、あんな形で欧州を後にするとは思わなかったな…..

そしてぐっすり熟睡して翌朝朝食時に飲んだカフェオーレが何とも言えないおいしさだった……
東側の壁が崩れ出して東西の経済差そして一般市民の生活水準の差を身を持って感じた日だった….
翌日搭乗機が成田空港に近づいた時にそれまでのすったもんだの珍道中を思い出し涙が出そうになった事を今でも覚えている…….

それから10年が経って会社も替って再び今度は商用でチューリッヒを訪れる機会に恵まれた。
丁度シドニー五輪の男子サッカーの初戦、日本対南アフリカが行われた日だった。今の様にインターネットがそれほど発達していなかったので何とかネットカフェを見つけて情報を得たいと思っていたらテレビのニュース(CNNだったかな?)でまさに日本戦がダイジェスト付きで報道された。先制点を許したシーンを見た時は身が凍りつき、高原の同点ゴールが映し出された時はものすごい安堵感に包まれそして逆転ゴールを見た時は歓喜の大声を上げた。

そして今、何度も来ているチューリッヒの物価の高さには少し閉口するがスーパーでは手軽に寿司を売っている時代になった。それでもチューリッヒの中央駅は大昔と変わらない、70年代にリリースされたピンクパンサーのあるシーンでクルーゾー警部がチューリッヒ中央駅に降り立つシーンがあるが駅の外観は今と全く同じで感動したものだった。1954年に開催されたワールドカップスイス大会のダイジェストフィルムの中にも中央駅が映し出されるが今とはあまり変わらない。 
そしてパスポートを盗まれてから20年以上も経った俺も中身は変わらない,進歩していないと思う…
周りはどんどん変わっているのに。1990年、ワールドカップはイタリアで開催されたけど当時と今では本当に日本代表を取り巻く環境は変わった、いや進歩した部分が多いんだと思う。

でも俺自身は… やっぱりこれからも進歩していかないか...