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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「子どもたちをよろしく」

2020-04-11 06:25:22 | 映画の感想(か行)

 軽佻浮薄なシャシンばかりが幅を利かせる昨今の邦画界にあって、あえて硬派でシビアな題材を扱おうとした、その姿勢は良い。しかし、出来はよろしくない。物語の設定が作者の頭の中だけで組み立てたようなもので、展開も独り善がり。現実を反映しているとは、とても思えない。結末近くになってくると、製作意図さえ怪しくなってくる始末だ。

 群馬県の地方都市。デリヘルの運転手である貞夫は中学生の息子の洋一と一緒に暮らしているが、重度のギャンブル依存症で、妻にはとっくの昔に逃げられている。貧乏暮らしを強いられる洋一は、クラスメイトからの手酷いイジメに遭っている。イジメっ子の一人である稔は、父親の辰郎と義母、そして義母の連れ子である姉の優樹菜と生活しているが、父親は酒浸りで家族に暴力を振るっている。稼ぎの無い辰郎の代わりに、優樹菜は皆に内緒でデリヘル嬢として働いている。その運転手が貞夫だった。ある日、稔は家の中でデリヘルの名刺を拾う。姉はいったい何の仕事をしているのか、疑問を抱いた彼の胸中は穏やかではなくなる。

 二組の家族が風俗業を通じて微妙にクロスしてゆくという段取りは、トリッキィではあるが現実感は皆無だ。そして、イジメの場面やそれぞれの親のダメさ加減、洋一と稔の造型など、もう絵に描いたようなステレオタイプである。

 おそらく作り手は、家庭(主に親)に問題があるからイジメは発生すると思っているのだろう。だが、それは断じて違う。イジメというのは、学校のような集団生活の場ではいつでもどこでも起こり得るのである。つまりは“イジメがあるのが自然な状態”なのだ。そこを認識してから問題解決を図らなければならない。

 その意味で、いかにも家庭に関して大きな屈託を抱えているような稔よりも、一緒になって洋一をイジメる、普通の家庭で育ったような他の連中の方を掘り下げるべきだった。映画は中盤を過ぎると“不幸のための不幸”を強調したような無理筋の展開が目に余るようになり、ラストの扱いに至っては呆れ果てた。この御為ごかしの筋書きで、作者は何を訴えたかったのか。これじゃ単なる自己満足ではないか。

 隅田靖の演出は一本調子で、メリハリに欠ける。深刻な内容なのに、どうにもワザとらしい。企画担当が寺脇研と前川喜平なので、まあ仕方が無いかと思わせる中身である。鎌滝えりに杉田雷麟、椿三期といった若手には覇気が見られず、斉藤陽一郎に村上淳、有森也実などの大人のキャストも特筆すべきものがない。とにかく、ハードなネタをモノにしようと思うのなら、まずは現実を見据えることだ。机上の空理空論など、お呼びではない。
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「ミス・アメリカーナ」

2020-04-10 06:52:05 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MISS AMERICANA)2020年1月よりNetflixで配信されたドキュメンタリー映画。人気歌手テイラー・スウィフトの実像に迫った・・・・という体裁の作品だが、困ったことに何も描かれていない。彼女のファンで、なおかつ未公開のプライベートな映像が見られるだけで満足するというコアな層にのみアピールするシャシンであろう。

 保守的な気質の土地で育ち、子供の頃から“いい人だと皆から思われなければならない”という人生観を刷り込まれ、実際にグッド・ガールを演じてきたというテイラーは、なるほど本当に“いい人”なのかもしれないという印象を受ける。若くしてあれだけの成功を収めたにも関わらず、驕ったところが見当たらないのも、それだけ人間が出来ているということだ。



 もちろん、その裏には葛藤があったに違いなく、2009年に起こったいわゆる“カニエ・ウェスト事件”には相当彼女も憤慨したようだが、それらが映画ではテイラーの“裏の顔を描く”といった露悪的な展開に繋がらないのも、自身のキャラクターゆえなのだろう。だが、それで作品の被写体として面白いかどうかというと、全然そんなことはない。

 いくら彼女でも芸能界で生きていく上では少なからず屈託を抱えているとは思うのだが、映画はそこまで踏み込まない。あくまで“いい人”としてのテイラーを前面に出すのみだ。ならば本業であるステージでのパフォーマンスや曲作りといった分野は掘り下げられているのかと思ったら、これがまるで不発。コンサートの場面は断片的だし、スタジオでアイデアを練っているシーンも工夫が無く、ただ漫然とカメラを回しているだけだ。

 とにかく、彼女のミュージシャンとしての実相を追いかけようともしない。政治的なスタンスを打ち出すに至った過程も、通り一遍に紹介されるのみだ。何しろ“カニエ・ウェスト事件”の背景とその後の成り行きさえ取材しないのだから閉口する。あのアクシデントを粘り強く追うだけかなりの成果を上げたと思われるが、それすら実行していない。

 ラナ・ウィルソンの演出にはキレもコクも無く、上映時間が85分と短いにも関わらず、随分と長く感じられた。唯一興味深かったのが、テイラーがかなり背が高いこと。デビュー当時からアイドル的な雰囲気を持っていたので気付かなかったのだが、実は180センチ近くあり、他のミュージシャンと並んだショットには少し驚いた。

 なお、私自身はあまり彼女の音楽性には興味を持っていないが、2014年に発表されたアルバム「1989」だけは素晴らしいと思う。どのナンバーもよく練られており、何度聴いても感心する。ベストセラーになったのも当然だ。
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「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」

2020-04-06 06:31:37 | 映画の感想(ま行)

 とても興味深いドキュメンタリー映画で、最後まで引き込まれた。そして考えさせられた。当時TBSが撮影したまま長らく放置され、2019年に“発掘”されたフィルムの原盤を修復し、一本の作品にまとめ上げられたものだ。貴重な記録であるばかりではなく、確実に現在に通用する内容で、観る価値は十分ある。

 1969年5月、学生運動は激しくなり、その中でも東大全共闘は先鋭的な言動で知られていた。彼らは全共闘の主張とは正反対の位置にいると思われた売れっ子作家の三島由紀夫に討論を挑むため、彼を駒場キャンパスでの集会に“招待”する。三島は警察の警護の申し出を断り、単身会場に乗り込む。

 とにかく、三島の図抜けた存在感に圧倒される。彼はどこぞの安っぽい“右派論客”のように、大声をあげて相手を論破しようとは決してしない。学生たちの話をとことん聞いて、逐一冷静な反駁を試みる。全共闘のスタッフは次々と抽象的な論点を持ち出して三島を翻弄しようとするが、三島は全く動じない。相手の知的レベルをいち早く見抜き、事を荒立てない方向で巧みにまとめ上げる。途中から“子連れ”の幹部が割って入ったりもするが、軽くあしらわれて退場するしかない。

 実は会場には三島のボディガード役として“楯の会”のメンバーも何人か列席していたのだが、彼らの出番はついに訪れず、2時間あまりの討論会は無事に終わる。最初は三島を揶揄していた客席の学生たちも、閉会する時点では彼をリスペクトする雰囲気さえ生じる始末だ。

 劇中では実は両者のスタンスは懸け離れたものではなく、ひとえに日本を良くしたいと思う気持ちは共通していることが示される。ただアプローチが違っているだけだ。しかし、三島はこの会合の翌年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で籠城事件を引き起こし、ついには自決するのである。自らの主張を貫徹するためか、あるいは文学者としての行き詰まりによるものか、とにかく三島は自身を“総括”してしまった。

 では、対する全共闘側はその後自分たちをどう“総括”したのか。三島は戦中および戦後をリアルタイムで生きた。彼の思いはその体験と当事者意識によるところが大きいだろう。だが、全共闘の構成員たちは戦後復興の胡散臭さは感じていたものの、その主張は地に足が付いていない。70年代に入ると世の中に対する真っ当なアピールも出来ず、内ゲバの連続で急速に支持を失ってゆく。要するに“その程度”のものでしかなかったのだ。

 だが、消え失せたかに思えた全共闘のテーゼは、本人たちが気が付かないまま薄甘く持続していたのではないか。しかも、彼らの世代は頭数だけはやたら多い。社会の中枢を担う年齢に達すると、いたずらに反社会的なポーズを取り始める。そして、バブル期には無謀な投資に走る。彼らが70歳代半ばに達した現在では、犯罪に手を染める者が多いとも聞く。三島と違って、自らを“総括”出来ないまま歳を重ねた彼らのことを思うと、何ともやるせない気分になる。

 映画では当時の“証人”が何人か登場するが、いずれも何やら及び腰な態度であるのが気になった。くだんの“子連れの乱入者”の現在の姿など、何とも場違いで苦笑してしまう。結局、冷静な意見を述べていたのが若い世代に属する平野啓一郎だけだったのが印象的だ。豊島圭介の演出は手堅く破綻は無い。ただし、ナレーション担当の東出昌大はどうなのか(笑)。三島の小説「豊饒の海」の舞台版にも出演した縁での起用らしいが、もう少し達者な者を採用して欲しかった。
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「不法侵入」

2020-04-05 06:57:57 | 映画の感想(は行)
 (原題:UNLAWFUL ENTRY)92年作品。出来自体は取り立てて評価する程ではないが、設定は興味深くキャストも健闘しており、観て損した気分にはならない。公開当時にはカーティス・ハンソン監督の「ゆりかごを揺らす手」やマーティン・スコセッシ監督の「ケープ・フィアー」といった日常に潜む恐怖を描いたサスペンス物が相次いで公開され話題になっていたが、本作もそのトレンドの一翼を担った映画だ。

 ロスアンジェルスの高級住宅街にあるマイケルとカレンの夫婦の家に、強盗が侵入した。犯人は逃亡したが、駆けつけた警官の一人ピートは何かと親切で、夫妻に防犯のアドバイスまでしてくれる。彼を信用したマイケルたちは個人的に付き合うようになった。だが、ピートが容疑者に乱暴をはたらく様子を目の当たりにしたマイケルは、カレンに彼とは会わないように言う。実はピートの狙いはカレンで、彼女を自分のものにするためにマイケルを始末しようと考えていたのだ。やがてピートの策略によってマイケルの周辺でトラブルが頻発し、ついには身の覚えの無い麻薬所持の疑いでマイケルは逮捕されてしまう。



 モンスター的な犯人に主人公たちが敢然と立ち向かうという筋書きは、エイドリアン・ライン監督の「危険な情事」(88年)なんかとあまり変わらず、ハッキリ言って芸が無い。そこに至る展開もスムーズではなく、ジョナサン・キャプランの演出ぶりは代表作の「告発の行方」(88年)より落ちる。

 しかしながら、実直そうな警察官が突如として一般市民に対して牙を剥くという設定は、けっこう興味深い。誰だって相手がマジメな警官だったら気を許してしまうだろう。ましてや劇中でピートが“警官は心身をすり減らす職業だ。結婚が遅いのも仕事がハードで危険だからだ”などと辛そうな本音を洩らしたりするのだから、尚更だ。このテの映画が流行っていたアメリカの犯罪事情は、なるほど実際ヤバいのだろう。リベラル派で暴力を嫌っていたマイケルたちが、結局は銃の力を頼りにするしかない状況に追い込まれるというのも皮肉だ。

 ピートに扮しているのがレイ・リオッタというのが出色で、コイツは絶対にロクな奴ではないと分かってはしても、映画の中ではマジメを装って出てくるのだからタチが悪い(笑)。中盤以降で昂進するサイコ演技も最高で、特にあの目付きは常人のレベルを完全に逸脱している。主人公の夫婦を演じるカート・ラッセルとマデリーン・ストウのパフォーマンスも万全で、とりわけストウは当時は最高に美しかった。音楽はジェームズ・ホーナーで、さすがのスコアを提供している。
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「娘は戦場で生まれた」

2020-04-04 06:14:00 | 映画の感想(ま行)
 (原題:FOR SAMA)相当に大きな求心力を持つ映画で、鑑賞後の圧迫感、そして思わず題材について調べずにはいられないアピール度の高さなど、示唆に富んだ内容だ。作者の立ち位置が状況の一つの側に過ぎないため、必ずしも全体を俯瞰するスタンスになっていないという指摘もあるが、そのことを勘案しても存在価値のある作品であることは間違いない。

 2012年、シリアのアレッポに住むジャーナリスト志望の女子学生ワアドは、反政府デモ運動をスマホで撮影し始めるが、やがて街は内戦状態になる。大学卒業後に彼女は医師のハムザ・アルカティーブと出会い、恋に落ちる。やがて2人は結婚して娘のサマをもうけるが、医師である夫はアレッポを離れられない。政府側の攻撃は激しさを増し、街で最後の医療機関となってしまったハムザの病院も大きなダメージを受ける。それでもワアドとハムザは活動を辞めない。第72回カンヌ国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を獲得した実録フィルムだ。



 とにかく、写し出されるすべてが“本物”の迫力を伴って観る者に迫ってくる。ハムザたちのもとに運ばれる負傷者の数は、絶望的になるほど多い。あたり一面血の海だ。床に横たわったまま命を落とす者も数知れない。ハムザの仲間たちも、次々と亡くなってゆく。死が日常であり、生きていることが奇跡である。この世の地獄とも言える光景を前にして、ワアドはそれでもカメラを回し続ける。それは単なる“カツドウ魂”という次元を超えて、映画を作ることの根源的使命に突き動かされた生身の姿が画面に横溢している。

 強烈なシーンの連続だが、中でも凄かったのが臨月の妊婦が重傷を負って運ばれてくる場面だ。帝王切開で赤ん坊を取り出すのだが、赤ん坊はまったく動かない。心臓マッサージも効果なし。揺すったり叩いたりしても反応が返ってこない。もうダメかと思った次の瞬間、赤ん坊は鳴き声を上げる。まさに感動的で崇高なシーンで、観ていて震えがきた。このシークエンスに接するだけでも劇場に足を運んだ甲斐がある。



 シリアの内戦は“政府軍VS反政府軍”といった単純な構図ではなく、双方ともに内部に多数の複雑な勢力が交錯している。反政府軍同士の戦闘も起こったほどだ。本作はそのあたりに触れておらず、そこが不満だという意見があるだろう。また、ワアドのリベラルすぎる姿勢が気になるという見方もある。

 しかし、それでも大いなる逆境の中で献身的に働く人々の姿、何より一筋の光としてのサマの存在など、評価すべき点は多い。シリアの苦難は今も続く。その現状を世に問うワアド・アルカティーブの働きと、ドキュメンタリー映画として仕上げたエドワード・ワッツの手腕に感服する1時間40分だ。
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「殺意の香り」

2020-04-03 06:52:38 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Still of the Night)83年作品。ヒッチコック的な御膳立ての中に、当時キャリアを順調に積み上げていたメリル・ストリープを投げ入れたらどうなるか・・・・というアイデアで作られた映画だと思う。ただし、言い換えれば彼女のキャラクターや演技パターンが気に入らない観客にとっては、あまり意味の無いシャシンでもある。ただし、出来自体はロバート・ベントン監督作品だけあって、水準はクリアしている。

 マンハッタンで、停められていた車の中から男の死体が発見される。被害者はオークション・ギャラリーの経営者であるジョージ・バイナムだった。一方、離婚したばかりの精神分析医サム・ライスは、終始怯えたような表情を見せる女性の訪問を受ける。彼女はバイナムの助手であったブルック・レイノルズだ。実はバイナムはサムの患者であり、ブルックはバイナムがアパートに置き忘れた腕時計を彼の妻に返してほしいと頼むのだった。そんな時、殺人課のヴィトゥッキ刑事がやって来て、バイナムの個人情報を明かすようにサムに要請する。一度は患者の秘密は公開できないと断わるサムだが、彼は独自にバイナムの身辺を調査し始める。

 精神科医が事件の背景を探っていくうちに容疑者に惹かれていくという設定は、言うまでもなく「白い恐怖」(1945年)からの引用だ。そしてオークション会場で彼女の急場を凌ぐために、サムが必死になって絵を競り落とそうとするシークエンスは「北北西に進路を取れ」(1959年)の一場面と似ている。そのように手練れの映画ファンがニヤリとするようなシチュエーションを積み上げれば、多少のプロットの不明確さも糊塗できるというのが作者の魂胆かもしれないが、それは成功している。

 実際、鑑賞後にはストーリー自体よりも個別のモチーフだけが印象に残る始末なのだ(笑)。特に作者のM・ストリープに対する“執着”はただ事ではなく、彼女が初めてスクリーン上に姿を現すシーンから、粘りつくようなカメラワークが全開。そして震える指で煙草を取り出すと2,3服してもみ消してしまうというショットでは、彼女の“神経症的演技もお手のもの”という得意げなポーズが画面いっぱい展開して、まさに苦笑するしかない。

 ここではヒッチコック的な道具立てで彼女を機能させるという当初のたくらみが、いつの間にかヒッチコックのスタイルが彼女を引き立てる要素みたいな構図に移行しており、まったくもってこの頃のストリープの存在感というのは大したものだと感心するしかない。サム役のロイ・シャイダーやジェシカ・タンディ、サラ・ボッツフォードといった面子が影が薄いのも仕方がないだろう。なお、撮影はネストール・アルメンドロスで、さすがの安定感を見せる。
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