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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ひとよ」

2019-12-14 06:27:27 | 映画の感想(は行)

 贅沢なキャスティングにも関わらず、ほとんど機能していない。設定は絵空事で、展開は説得力を欠く。加えて余計なサブ・ストーリーが全体的な作劇を不格好なものにしてしまった。聞けば原作は舞台作品とのことだが、演劇における方法論を工夫も無く移設した居心地の悪さも感じられる。いずれにしろ、評価出来ない内容だ。

 茨城県大洗町でタクシー会社を営む稲村家の母こはると3人の子供は、父親の酷い暴力に苦しんでいた。ある晩、耐えられなくなったこはるは夫を殺害する。そして子供たちに15年後の再会を誓って警察に出頭した。それからちょうど15年経った日に、こはるは家に帰ってくる。上京していた次男も加えて久々に一家が揃うことになったが、3人の子供はトラウマを抱えたまま幼い頃の夢とはまるで違う人生を歩んでいた。そんな中、堂下という男が新たにタクシー運転手として入社してくる。一見真面目そうだが、何やら訳ありの様子だ。やがて堂下は大きなトラブルを引き起こす。

 こはるが犯した罪は情状酌量の余地が大きく、執行猶予抜きの10年以上の刑になることは、まずあり得ない。服役中に子供たちや親族が面会に行った形跡が無いのも、おかしなことだ。またこはるは出所後も何年も各地を転々としていたらしいが、その理由も“気持ちの整理を付けたいから”という曖昧なものである。

 事件が起こった日から一家と会社は誹謗中傷に曝されるが、脅迫罪と威力業務妨害に問われる案件ながら、対策を講じた様子は見られない。離婚寸前の長男の境遇はイマイチ釈然としないし、さらには作家志望だった次男は、あろうことか身内の恥を全面開示させて小説のネタにしようとする。斯様に非合理的なモチーフが並べられた上に、堂下の突飛な行動が文字通り取って付けたように挿入される。

 3人兄妹には屈託があったはずだが、その内面は深く描かれない。こはるや堂下も同様だ。その代わり、ヘンに説明的な(聞き取りにくい)セリフが声高に飛び交う。明らかな演劇的なメソッドだが、映画手法として昇華されていないばかりか、セリフの中身も要領を得ない。社員の一人でこはるの友人でもある柴田弓のエピソードに至っては、存在意義さえ見えない有様だ。

 白石和彌の演出はどうもピリッとせず、平板な仕事ぶり。こはる役の田中裕子をはじめ、佐藤健に鈴木亮平、松岡茉優、筒井真理子、韓英恵、佐々木蔵之介など、配役は豪華。しかしながら、どのキャラクターもリアリティに欠け、血が通っていない。終わって、釈然としない気分で劇場を後にした。オススメできないシャシンだ。
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映画を観ると人生が変わるか?

2019-12-13 06:53:21 | 映画周辺のネタ
 映画好きの中には“映画を観て人生が変わった”と公言する者が少なくないらしい。でも、果たして映画に観る者の人生を左右するほどの力があるのだろうか。私自身に限って言えば、たぶん幼少期や十代の頃には“愛情”とか“正義”とかいったことに対する基本的概念を映画から学んだ部分があるのかもしれない。しかし、本来そういうものは映画だけが教えてくれるものではなく、実生活での人間関係において自然に培われるべきものであり、映画で描かれることは単に“補完的な教材”といったものでしかないはずだ。

 また、現在映画業界で働く者にとっては特定あるいは複数の映画が今の職業を志望するきっかけになったと思われるので、その意味で“映画が人生を変えた”と断言できるのかもしれない。しかし、もとより業界にコミットしようなどとは思わない私を含めた大多数の人間にとって、映画は“単なる娯楽”であり、人生を変えるほどの影響力を行使する主体ではあり得ないのだ。

 世の中には周囲の人間関係ぐらいではカバーできない膨大な事物があふれている。ならば、それらを理解するのに役立つのが映画だろうか。これも違う。この世界を出来るだけ正しく認識しようとするならば、自ら精進して疑問点と格闘しながら少しずつ“教養”をステップアップさせるしかない。

 映画は受け手が何の努力をしなくても勝手に映像と音響が一方的に流れてゆく。いくら映画鑑賞には劇場に足を運んで金を払わなければ観られないという最低限の自発的行動が必要だといっても、形態において基本的に映画はテレビと変わらないのだ。対象者の受動的なスタンスを前提としたメディアに人を根源的に動かすパワーを期待するのは無理があると思う。

 しかし、映画が新しい知識や分野に興味を持たせてくれるきっかけとなることはある。たとえば歴史物や伝記映画を観れば物語の背景を調べたいと思うだろうし、見知らぬ国の珍しい習慣や伝統を映画で目にすれば内容を詳しくチェックせずにはいられない。映画の題材そのものだけではなく、映画の原作を読むことによって読書のバリエーションが増えることだってある。

 いろいろ書いてきたが、結論としては次の二点にまとめられる。(1)映画が人生を変えるほどの力を発揮することはまずない。(2)しかし、観る者の趣味や嗜好にわずかながら影響を与えるほどのスパイスには成り得る。映画はしょせん“娯楽”でしかないが、捉えようによっては人生をほんのちょっと楽しくするヒントになる(こともある)。ほとんどの者にとって、映画に対するスタンスはこういったものであろう。もちろん“人生を変えてくれる何かがあるはずだ”といった前提で映画を観るのは本末転倒であることは言うまでもない(まあ、そんな人はあんまりいないだろうけど ^^;)。
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「アイリッシュマン」

2019-12-09 06:25:25 | 映画の感想(あ行)

 (原題:THE IRISHMAN)久々に現れた本格的ギャング映画で、十分な手応えを感じる出来である。まさに“我々が観たかったマーティン・スコセッシ監督作品”そのものだ。しかしながら、Netflixの配信を前提にした一部劇場のみの公開、そして何より3時間半もの長尺といった形態は、今後映画ファンの間で議論を呼ぶことは必至だろう。

 第二次大戦のヨーロッパ戦線から帰還したフランク・シーランは、デトロイトでトラック運転手をしながら、様々な荒仕事を引き受けていた。そんな彼がペンシルバニアのマフィアの顔役であるラッセル・ブファリーノと懇意になり、そのファミリーの依頼で殺し屋稼業に明け暮れる。やがて全米トラック運転組合委員長のジミー・ホッファとも知り合ったフランクは、政界工作の片棒を担ぐまでになる。だが、ホッファがロバート・ケネディ司法長官と対立するようになり、そのスタンドプレイを煙たく思うようになったブファリーノ陣営は、フランクにホッファの始末を持ちかける。

 伝説の殺し屋“ジ・アイリッシュマン”ことフランク・シーランを中心に、60年代から70年代半ばまでのアメリカの裏社会を描く。登場するキャラクターの大半が実在の人物。特にフランクは若い頃とホッファ抹殺に至るプロセス、そして介護施設に入居して死を待つばかりの老年期と、3つの時制をランダムに並べ、それぞれに深い描き込みが成されているので重層的な大河ドラマとしての風格が出てくる。

 ホッファとブファリーノをはじめ、各登場人物は何とか時代の趨勢を自らに引き込もうとするが、所詮はヤクザ者でありアンラッキーな末路を待つばかり。アメリカにはマフィアや政治家をも牛耳る大きな勢力が存在しており、それは当時も今も変わらないという構図は、かなり重いものがある。

 スコセッシの演出は堂々としたもので、全盛時の力量が戻ってきたようだ。主演のロバート・デ・ニーロは、彼のフィルモグラフィの中では確実に上位にランクされる見事なパフォーマンスを見せる。アル・パチーノとジョー・ペシの演技も重量感があり、ボビー・カナヴェイルにレイ・ロマーノ、ハーヴェイ・カイテル、アンナ・パキンといった脇の面子も良い味を出している。そしてロビー・ロバートソンの音楽は素晴らしい。

 ただし、スコセッシがこれだけ腰を落ち着けて長時間の大作を撮り上げたのも、Netflixという媒体があってこその話だろう。劇場上映を最優先にして2時間程度に収めてしまったら、作品のクォリティがどうなっていたか分からない。これからは自在に映画を撮りたい作家は、ネット配信のメディアに流れてしまうという危惧も残る。このあたりの状況を注視したいと思う。
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「卒業白書」

2019-12-08 06:28:08 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Risky Business)83年作品。トム・クルーズのフィルモグラフィの中では、我々がよく知る彼のキャラクター(?)が確立する前の、いわば八方破れ的な役の選び方をしていた若い時期の代表作。こういう無軌道な役柄は、現在の彼にはオファーはまず来ない。その意味で興味深いし、映画自体もけっこう楽しめる。

 シカゴ郊外の高級住宅地に住む高校3年生のジョエルは、一流大学を目指しているものの成績が追いつかない。勉強に身を入れようと思いつつも、考えることは良からぬことばかり。そんな時、両親が旅行に出ることになり、一人で留守をまかされることになった。早速ハメを外してやりたい放題に過ごす彼だが、ついには高級娼婦のラナを家に呼ぶという暴挙に出る。



 ところが、彼女の“料金”はトンでもなく高かった。しかも、彼女のせいで父親が所有するポルシェが湖に沈んでしまい、その修理代にも莫大な費用が掛かる。困った彼は、ラナの提案により金持ちのドラ息子たちをターゲットに一夜限りの売春宿をオープンさせる。ラナの仲間達も加えてこの“事業”は大盛況になるが、両親が帰宅する時刻は確実に迫ってきた。

 とにかく、ジョエルをはじめとする悪ガキ共の言動が痛快だ。しかも、こいつらは日頃マジメに振る舞っているあたりが面白い。つまりは、アメリカの中産階級の事なかれ主義や、若者の皮相的なエリート志向を皮肉っているのだが、説教臭いタッチは微塵も見せず、ライトでスマートに扱っているのはポイントが高い。

 タイム・リミットを設定し、その間をジェットコースター的に各プロットを展開させ、最後には帳尻を合わせるという作劇は効果的だ。多彩な登場人物が入り乱れ、それがまたキチンと交通整理されているのも感心する。これがデビュー作のポール・ブリックマン監督の腕前は確かで、ラナが登場するシーンをはじめとするスタイリッシュな映像処理も決まっている。

 若造の頃のトム御大は実に楽しそうに不良少年を演じる。ラナに扮するレベッカ・デ・モーネイは魅力的。カーティス・アームストロングやブロンソン・ピンチョット、ラファエル・スバージといった脇の面子も悪くない。レイナルド・ヴィラロボスとブルース・サーティースのカメラによる清涼な映像と、タンジェリン・ドリームの音楽が場を盛り上げる。
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「ターミネーター:ニュー・フェイト」

2019-12-07 06:29:55 | 映画の感想(た行)
 (原題:TERMINATOR:DARK FATE)どうしようもない出来。パート3以降の作品を“無かったことにする”という荒業を採用し、傑作との誉れ高いパート2(91年)の“正式な続編”として作られたにもかかわらず、内実は続編ではなく低レベルの“リメイクもどき”に留まっている。久々にジェームズ・キャメロンが関わっていながらこの有様。企画段階で却下されるべきネタだ。

 メキシコシティに新型ターミネーターのREV-9が突如現れ、自動車工場で働く若い女子ダニーを襲う。同じく未来から送り込まれた強化型兵士グレースがダニーを守るが、何とか工場を脱出した彼らをREV-9を執拗に追う。絶体絶命のピンチを救ったのがサラ・コナーだった。サラは何者かが発信する“ターミネーター情報”に従い、この何十年間に発生した不穏な出来事を潰してきたが、そのおかげで全国指名手配されているという。メールの発信源がテキサス州のエルパソだとグレースが突き止め、彼らはアメリカとの国境に急ぐ。だが、REV-9は先回りしてサラたちを抹殺しようとする。



 まず、開巻早々にジョン・コナーが第二作の前の段階で未来から送り込まれていたT-800にあっさり消されるシーンで拍子抜けしてしまった。加えて、スカイネットは消滅したがリージョンという同等の存在が未来では覇権を握っているという。これでは話が振り出しに逆戻りだ。事実、本作は今までのジョンの存在がダニーに交代しただけで、ターミネーターとの追いかけっこが延々と続くという、使い古したルーティンが展開されている。

 しかも、くだんのT-800は人間的な内面を手に入れ(その理由もプロセスも描かれない)、何と妻子もいるのだ。こんな無茶苦茶な話に誰が納得するものか。REV-9はかつてのT-1000と形状と性能がさほど変わらず、新機能は“分身の術”が使える程度でほとんど芸が無い。アクション場面は冒頭のカーチェイスこそ盛り上がるが、あとは暗い中で何やらバタバタやっているだけで、まったく見栄えがしない。

 ティム・ミラーの演出は低調な脚本に引っ張られるようで精彩を欠き、アーノルド・シュワルツェネッガーとリンダ・ハミルトンは“老い”ばかりが目立って気勢が削がれる。かといってナタリア・レイエスが演じるダニーにカリスマ性があるかといえば、そうではない。グレースに扮したマッケンジー・デイヴィスは頑張っていたが、このキャラクターが果たして必要だったのか議論の分かれるところだろう。

 この映画を観ていると、失敗作と言われたパート3(2003年)及びパート4(2009年)が、随分とマシな作品に思えてくる。案の定、本国では客が入らず赤字決算で、この調子では続編の製作も覚束ない。ともあれターミネーター・クロニクルズは、これにて打ち止めだ。
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「クライム・オブ・パッション」

2019-12-06 06:52:27 | 映画の感想(か行)
 (原題:Crime of Passion)84年作品。ケン・ラッセル監督のアヴァンギャルドな個性が全面展開している一編で、とても楽しめる。もちろん、通常のラブストーリーやサスペンス劇を期待して接すると完全に裏切られるが(笑)、同監督の持ち味を認識しているコアな観客にとっては、濃密な時間を堪能出来ること請け合いであろう。

 ロスに住むボビーとエイミーの夫婦は、2人の子供と一見平穏な家庭生活を送っている。しかし、実は夫婦仲は冷え切っていた。ファッションデザイナーのジョアンナは有能なキャリアウーマンに見えて、夜になるとチャイナ・ブルーという名の大胆な娼婦として街を闊歩する。ある日ボビーは、ひょんなことから企業スパイの疑いが掛かったジョアンナを密かに調査する仕事を依頼される。



 ジョアンナを尾行したボビーは、ジョアンナの二重生活を知って驚くが、同時に彼女の魅力のとりこになってしまった。一方、ジョアンナはピーターという奇妙な客となじみになる。彼は聖職者らしく、夜ごと娼婦たちの告解を聞いている。だが、やがて自身の価値観と相容れない存在のジョアンナに対し、ピーターは殺意を抱いてゆく。

 作者は、外的側面の裏側に潜む人間意識を執拗に追求しているようだ。映画の序盤に参加者が互いの悩みを告白し合うサロンのようなものが紹介されるが、それも“上っ面”に過ぎない。悩みなんてものは、多くは打ち明けた瞬間に各人の“仮面”の一部となってしまう。本当の内面は他人はもちろん当人にとっても把握するのは難しいのだ。

 その意味で、本作に於けるピーターの存在は欺瞞そのものである。人の悩みを聞いてやる立場だが、本当は何も分かっておらず、夜郎自大な振る舞いに出る。昼と夜の“仮面”を使い分けるジョアンナや、表面的に夫婦仲をよく見せるボビーも同様で、彼らは“裏の顔”こそが“本当の姿”だと思っているが、実はそれも“仮面”に過ぎない。アイデンティティを喪失して彷徨する人間像を、意地悪く描くラッセルの筆致は冴え渡る。終盤のトリック描写も鮮やかだ。

 ジョアンナに扮するキャスリーン・ターナーはまさに怪演で、二つの顔を毒々しく演じ分ける。この頃の彼女は絶好調だった。ピーター役のアンソニー・パーキンスも得意の変態演技で盛り上げてくれる。ジョン・ローリンとアニー・ポッツの演技も悪くない。音楽担当は何とリック・ウェイクマンで、彼らしい持ち味は控え目だが、しっかりと仕事をこなしている。
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「i 新聞記者ドキュメント」

2019-12-02 06:33:05 | 映画の感想(英数)
 素材の捉え方には大いに問題があるとは思うが、決して観て損はしない。現時点では斯様な作劇しか出来なかったこと、そしてこのようなトピックしか取り上げられなかったこと等、ドキュメンタリー映画としての出来そのものよりも、作品の背景および状況を探ることで興趣を生み出すという、面白い展開が見られる。

 本作の“主人公”である東京新聞の望月衣塑子記者を、私はまったく評価していない。劇中で何度も取り上げられる菅官房長官との記者会見における“攻防戦”は、一見望月が菅をやり込めているようだが、実際には進行役から頻繁に“主旨に沿った質問をしてください”との警告が発せられることからも分かるように、望月のパフォーマンスにより菅が困惑しているに過ぎないことが窺われる。



 そもそも、一人の記者の質問に多大の時間を割かれること自体、会見の意義に反するものであろう。また、望月はこれだけエネルギッシュに動いていながら、彼女が政界を揺るがすようなスクープをモノにしたという話は聞いたことが無い。社会部の記者でありながら、政治部の職域に首を突っ込んでいるのも意味不明だ。

 そんな彼女を、監督の森達也はヒーロー視する。かつて「A」(97年)や「FAKE」(2016年)で見せたような、対象から一歩も二歩も引いたような姿勢からはまるで異なるスタイルだ。終盤に挿入されるアニメーションも唐突かつ極論じみていて、戸惑うばかりである。

 だが、よく考えてみると、作者としては彼女を取り上げるのは“仕方がない”とも言えるのだ。なぜなら、現政権およびそれをチェックすべきマスコミのあり方に本気で噛みついている新聞記者は、望月しかいない(ように見える)からだ。政権の事なかれ主義の体質、記者クラブの閉鎖性、忖度ばかりのマスコミといった愉快ならざる事象を取り上げるにあたって、望月のようなトリックスターを画面の中心に据えるしかなかった事情が垣間見える。本当は、真に合理的なスタンスで政権に対峙するジャーナリストを活写すべきだったのだか、森監督には(そして我々にも)そういう人材を見つけられないのが実情だ。

 個人的には、望月よりも脇のキャラクターの方が印象的だった。森友学園の籠池夫妻は、そこいらのお笑い芸人より面白い。レイプ疑惑事件の渦中にある伊藤詩織は、(不謹慎を承知で言えば)とても美人だ。そして福島県の地元民が洩らす“こんな事態になっても、結局選挙では自民党が勝つんだよね”というセリフは重いものがあった。森監督には、ぜひとも次回は“与党を盲目的に支持する者たち”や“増長する与党に手を拱いているだけの野党”といった題材を扱ってほしい。
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「青の炎」

2019-12-01 06:26:01 | 映画の感想(あ行)
 2003年作品。演出は蜷川幸雄だが、映画監督としての蜷川の前作は81年製作の「魔性の夏」である。四谷怪談をモチーフとしたあの作品は、一時流行った“異業種監督”の例に漏れず、身勝手な“美意識”とやらを前面に押し出した失敗作であった。ところが、それから20年以上経って、貴志祐介のベストセラー小説の原作と二宮和也や松浦亜弥、鈴木杏といった当時の若手タレントをメインにしたキャスティングを得て、プログラム・ピクチュアの典型みたいな青春ドラマを手掛けたという、その心境は理解し難い。

 湘南に住む高校生の秀一は、母と妹の3人暮らしで平和な日々を送っていた。ところがある日、元義父が突然家に押し掛けてくる。その言動は徹底して傍若無人で、家庭は破綻寸前になる。法的手段に訴えても解決できない現実に我慢が出来なくなった秀一は、綿密な計画を練って義父を殺害。完全犯罪達成かと思われたが、同級生の拓也に見破られていた。弱みを握って強請ろうとする拓也に対し、秀一は新たな殺意を抱く。



 蜷川本人いわく“アイドル映画を作りたかった”のことだが、その言葉通り、平易なドラマ運びは演劇での異能ぶりを微塵も感じさせない。“どんなケレンを仕掛けてくるか”と身構えていた観客は拍子抜けである。とはいえ、叙述型ミステリーの佳作である原作をあまりいじらずに映画化している本作は破綻が少なく、誰が観ても納得できる出来にはなっている。

 そして文字通り“青”をベースにした画調は清涼感があり(撮影担当は藤石修)、主人公が住むロフトの佇まい等、舞台セットも捨てがたい。東儀秀樹の音楽も万全。母親役の秋吉久美子をはじめ、山本寛斎や中村梅雀といった大人の演技陣はミスキャスト気味だが、物語を引っ張る主演の二宮(これが映画デビュー作)の頑張りが印象的。鈴木杏や川村陽介も健闘している。

 ただし、秀一のクラスメイトを演じる松浦は典型的な“アイドル演技”で、大いに盛り下がる。まあ、彼女はこの頃のトップアイドルだったので話題性だけのキャスティングと思われる。これも致し方ない(笑)。
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